後日談その二 中編
展示された生物と大きな水槽を一通り見終えると、お土産のコーナーへ向かった。グッズを手にとってもそれほど心動かされないが、ぬいぐるみには引き寄せられた。
マンボウだ。マンボウがいらっしゃる。ぬいぐるみでも平べったい。やはり大変に愛嬌がある。あれを購入すれば、ひとたまりもない癒しが訪れるだろう。
だが、あの愛らしさは姉さんの餌食になってしまう気がする。クッションに枕に足置きに……と考えれば、用途が多すぎて、余計に平べったくなってしまうだろう。それはそれで興味あるが、かわいそうだ。何事も適度が一番なのだ。平べったさにも適度がある。
私が思案していると、彼はぬいぐるみに手を伸ばした。
「マンボウですね」
そう言って、マンボウのぬいぐるみを間近で見せてくれる。
私が両手でぬいぐるみの側面を挟んでその平たさを実感していると、彼がいま取ったばかりのマンボウの並ぶ棚を見た。
「大きいのにしますか?」
一番大きいサイズを取ろうとするので、私は咄嗟に首を振った。
「いえ、いいです。いりません」
まるで子供のようにはしゃいでいる気がして、マンボウを元の位置に戻した。
彼はその後も、あれやこれやとグッズを見せてきた。買ってくれそうな勢いだった。私はそのつど断った。そうして見回るだけで、結局なにも買わず水族館を出る。
そこから近くのショッピングモール内を歩き、レストランのフロアに着いた。
「お昼にします? 何か食べたいものは?」腕時計を見ていた彼は、そこから目を上げて言った。
お昼時を過ぎたレストランのフロアは、どの店も多少の待ち時間はあっても大混雑というほどではないようだ。私は彼にゆだねるような気持ちで尋ねた。
「橋本さんの食べたいものは?」
「特には。ぶらぶらしながら決めましょうか」彼はそう言って歩き出した。
私の手を引く彼は、穏やかな顔で左右の店舗を見てはこちらを気にかけてくれる。少し歩くと洋食屋が目に入り、そこに決まった。店の外に並ぶ椅子に座って待ち、中に入って注文する。食事中も彼は楽しい話題を振ってくれた。食事の会計も彼が払うし、私は彼の隣に立つだけだった。これがカップルの当たり前のデートなのだろうかと、ふと考えたが、彼が伸ばしてきた手に自分の手をつなぐと、頭の中がうやむやになってしまった。
モールの中のファッションフロアで服を見ていると、彼が色違いの服を持って近くの姿見に手招きする。
買ってくれようとした彼に、私はやっぱり遠慮した。それが何軒か続くとさすがに好意を無下にしているのかと変な申し訳なさを抱いてくる。
そうしているあいだに気がついた。つくづく自分は幼稚なのだ、と。上手に甘えることが出来ない。何でもかんでも断るのは、逆に駄目なことというか、味気なさのあらわれにつながらないだろうか。
彼に、つまらない人間だと思われてしまう。
姉さんの言った「聞き分けのいい子」とは少し状況が違うが、その言葉が頭をよぎった。
甘えるのは、どこまですると我がままなのだろう。遠慮の場合は、どこからが他人行儀なのだろう。その線引きが出来ない。
他人行儀は寂しい……彼が、いつまで自分は『橋本さん』なのかと尋ねたときの気持ちを今になって実感する。
せっかくのデートなのに、何を複雑に考えてしまっているのだろうと、気持ちが塞ぎそうになった。
「ちょっと休憩しましょう」
彼の提案で、屋上のテラスに出た。この時期、風の冷たい屋上で時間をつぶす人はあまりいない。我慢できない寒さではないが、温かい飲み物が欲しくなり、近くの自販機に向かった。
「飲みますか?」彼に尋ねながら、缶コーヒーを買う。
彼は首を横へ振った。
温かい缶を持って、私は彼の隣を歩く。
視界には、綺麗に手入れされた植え込みが広がっていた。少し先にベンチがある。建物の壁のおかげで風が避けられそうだ。そこに座り、私の右隣に彼も腰かけた。
「疲れた?」彼が私の頭を撫でる。
暖房の効いた屋内でぼうっとしていたが、私は反射のように「全然」と答えた。
「つまらない?」撫でていた彼の手が止まり、引っ込められる。
「そんなことない」首を振って否定した。
むしろ、彼のほうが私といてつまらないのだろうかと思ってしまう。
「浮かない顔をしてる。というより、上の空」彼は言いにくそうに、ぽつぽつと喋った。
「ちょっとした感傷です。橋本さん、かっこいいから」
私が口元をゆるめて言うと、彼は驚いたあと顔をほころばせた。
「何それ。僕を喜ばせるの、上手だなぁ」
彼の笑みに、私は心地よさを覚えた。しかしゆるめていた口元を引き締めて、考える。缶コーヒーを両手で包み込んだ。
会話は必要ないと判断したのか、彼は何も話さない。私も黙って、隣に座っていた。
だがしばらくして、私は口を開いた。
「自分でも信じられないくらい、いま気持ちが大忙しなんです。……本当、どうしたらいいのか、わからない」
「うん」
不明な話にも彼は返事をして、優しく促してきた。
そっと後押しされるような気持ちだった。
「波風が立つような付き合いは怖いから、誰とでも淡白な関係が、良好に過ごせる策だと思っていました。結婚観もそういう予想図をたてていました。出来れば……そうだな、自分だけの時間があって、お互い同じ屋根の下にいても干渉しない、そんな関係。淡白な夫婦生活が理想だったんです。暮らしていくための互助関係があれば、それでいい、と。だから日常の延長線上には恋愛っていう選択肢がまず頭になかった」
沈黙する彼の横で、両手で包む膝の上の缶コーヒーに目を落とした。耳にかけていた髪が落ちて、彼の表情がよくわからなくなったが、私は独白のようなつぶやきを続けた。
「ほら、振り子ってあるでしょう。あれみたいなものです。片側に寄っている瞬間はいいけれど、大きな反動が返ってきたとき、たまらなくなります。そうすると、うわべの付き合いが楽なことに気づく。祖母が亡くなってから余計そう考えるようになりました。それが今や、こんなにもどかしい感覚を得ていて。思いもよらなかった。些細なことなんですけれど、どんなに小さな出来事でも、橋本さんが気になってしょうがないんです。こんなこと言うの恥ずかしいけれど、自分でもおかしいと思うくらい、あなたにどう思われるか、どう見られるかを意識しています。つまらない人間に見られたくない、鬱陶しい女に思われたくない、幼稚で釣り合いがとれないと呆れられたくない……そんなことばかり考えて。それは全部、橋本さんがかっこいいから……あなたが好きだから、好かれていたいからだと自覚しています」
そこまで言って、私は喋るのをやめた。整理されていない言葉だけど、それが本心だった。だからこそ、自分はとんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのではないかと思う。でも気にしても仕方がないので恥を頭の隅に追いやった。
耳には、風の鳴る音が聞こえる。いつの間にか缶コーヒーも温もりを失っていた。その温度が、いっそう私の気持ちを頼りないものにさせた。
「雅さん」彼は、しばらくしてそれだけを口にする。
「ごめんなさい、さっぱり要領を得ない話だったでしょう?」私は微笑んだ。
彼は否定も肯定もしなかった。ただ、じっとこちらを見つめていた。まるで一心に、私の足りない言葉を理解するために努力してくれているようだった。
また互いに黙りこくる。しかしいくらかの時間をやり過ごしたあと、彼はわずかに前のめりになり、左右の太腿にそれぞれ肘をついて両手の指を組み合わせた。
「参ったな」彼は前を向いたまま苦笑いをこぼす。「あなたはやっぱり、僕を喜ばせる天才です」