後日談その一 後編
リビングへ戻ると、彼は姉さんにお酌していた。彼の態度は何ら変わりなく、平然としている。
対して、熱々のたこ焼きを持ってきた私は緊張して大変な状態だった。姉さんの傍らで「来ましたよ」とたこ焼きに微笑む彼を見て、さらにどきどきしてしまう。
額にキスなんて大したことないのかもしれない。けれど自分には衝撃的すぎた。こんなことでは、このさき本当に不整脈で一生を終えてしまいそうである。
そうして己が臨終について考えていると、彼は体をずらし、隣のスペースを開けてくれた。
そこに座り、それからテーブルにたこ焼きを置いて、ナッツをつまみながら二人の様子を眺めはじめる。
たこ焼きを頬張る姉さんのグラスに、彼は並々とワインを注いでいた。
「おお、ありがとさん。気が利くなぁ、坊ちゃん」姉さんがグラスに口をつけた。
「いいえ。もう一杯どうですか?」グラスが空になるやいなや、彼は酒を勧める。
姉さんはご機嫌だった。ボトルを持っている彼もご機嫌だった。終始にこやかなまま、いつの間にか一本を空けてしまった。
「強いですね」
彼は空のボトルと姉さんを見比べながら、すこぶる笑顔で言う。
「まだまだいけるよ。今日は特に気合いが違うのさ」姉さんはフッと笑みを漏らした。「貴様の思い通りにさせるか」
その言葉に彼は笑った。姉さんも笑った。楽しそうに笑みを浮かべているが、二人とも他意のある笑顔で気味悪かった。
「雅」姉さんがこちらを見て言う。「ざる蕎麦、食べたくない?」
酒飲みは寒くなった季節でもざる蕎麦を所望するらしい。
「あんまり食べると明日が大変だよ。胃もたれするかも」
姉さんの場合は二日酔いではなく、食べ過ぎによる消化不良を心配せねばならない。ただでさえビール、白ワインと飲んで、その合間に口にするおつまみも多すぎるのだ。
だが姉さんは、人の話をあっさりと無視して進める。
「確か乾麺で戸隠のが、あったな」
キッチンへ行くのか、立ち上がった姉さんは空いたボトルを掴んで数歩進むと、首だけこちらに振りかえった。
「あんたらも食べる?」
姉さんの言葉に、彼と私は首を横へ振った。
「あ、そう。じゃ、熱燗と、それから蕎麦を茹でるか……」
姉さんはつぶやきながらキッチンへ向かった。
「ふらついていませんね」
確かな足どりでキッチンに消えた姉さんを見て、彼が言う。
「姉さん、すっごい上戸なの」
麻酔も効きにくい体質になっているほどなので、いくら飲んでもただの水分摂取のようにしか見えない有り様だった。
「手ごわいな」
彼は苦笑しながらも、思案するように自身の顎を指でなぞる。
何がどう手ごわいのかは、きかないほうが身のためかもしれない。
「橋本さん、飲まされないよう気をつけて」
ちょっと心配なのでそう言うと、彼がじっとこちらを見つめてきた。
「……雅さん」
「はい」
「いつまで僕は『橋本さん』ですか。他人行儀は寂しいですよ」
その言葉どおり、彼はいつになく声がしぼんでいた。
私が返答に窮していると、彼が腕を伸ばしてくる。そしてまるで慰めるような手つきで私の頭を撫で、髪に触れた。
「呼び捨てだから距離が縮まるとは思っていません。『橋本さん』が、あなたの愛情表現ならそれで構わない。ただ」そこで言葉を止めて、ゆるやかに息を吐き出し、微笑んだ。「親しげに呼ばれたいと。あなたに僕の我がままを求めているだけです」
その瞬間、言葉が頭の中でかすれて、消えていく。私は何も言えなかった。
だけど思った。この人は、ずるいと思った。人の気持ちを掬うのが上手なのだ。
いまさら彼の呼び方を変えるのが恥ずかしい私を、そっと刺激してくれる。でもどこか、私には無い余裕を見せて隣で待ってくれているのが悔しくて、それ以上にくすぐったかった。
黙りこくる私に、彼もそれ以上話をせずにいた。
リビングには静寂が訪れる……わけもなく、どこかの誰かがキッチンで盛大に物音を立てて調理しているので、その音が届いていた。
「あ」彼は、切り替えたように明るくつぶやく。「プレゼント、浮かれて昨夜にお渡しするのを忘れていたんです。ちょっと待ってて」
そう言って立ち上がると、少し先にある自身のバッグを取って戻ってくる。手には包装された長方形の箱があった。
「受け取ってください」
それを見て、彼のお兄さんのアドバイスがどうの、という話を思い出した。
「私、もらってばっかりで……」
気持ちは嬉しいが、物をもらうというのが何だか申し訳なく、手が出せない。しかしこういうときの彼は強引なのだろう、私の手に握らせると、開けてと言わんばかりの期待した目で微笑んでいた。
「あの、ありがとうございます」
決して広くはないソファに向かい合わせで座ったまま、私はリボンと包装紙を解いた。
長方形という箱の見た目から、中身を推測する。異性との付き合いが希薄だった私でも、見当がつきやすい。
だが中身を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはボールペンだった。銀色の細身で、華奢な印象だ。どこかで見たことがある。箱に印字されたブランド名を見て、デュポンだとわかった。
「期待をはずしましたか? アクセサリーは一緒に選びたいなと思ったので」
彼の言葉に私は慌てて首を振った。期待はずれだなんて、そんなことない。
「違う、違うの。意表を突かれただけで。すごく嬉しいです」
数珠のブレスレットに続いて、今回のプレゼントも変化球だ。
「これって、このあいだ言っていたお兄さんと関係のある……?」
ボールペンを眺めながら尋ねると、彼は「ええ」と肯定した。
「兄弟そろって面白いセンスですね」ボールペンを取り出して持ってみた。「でも、もったいなくて……使えるかな」
彼は楽しそうに目を細めた。「婚姻届、これで書きますか?」
その笑顔があまりに満面であるのが気になり、ちょっと言い返したくなる。
「そうですね、いつか……」少し考えて、笑顔で応酬した。「夫の氏名がどなたになるか知りませんが」
「ちょっと、それはないよ」
彼はすぐさま苦笑いを寄こし、頬を指でかいていた。
「ちゃんとこれで書きますよ、私の欄は」ボールペンを手にしたまま、澄まして言ってみる。
「他の男の名前が書かれていたら、提出を妨害しますから」
そう宣戦布告する彼に、あの婚姻届が頭に浮かぶ。もしかしたらのときが来るまで処分を保留にして、彼には黙っておこうと思った。
キッチンから断続的に物音が聞こえてくる。それが止み、しばらくすると蕎麦と酒を持って両手の塞がった姉さんがリビングに戻ってきた。
「早かったですね」
彼が言外に含んだような言い方をすると、器用にかたほうの眉を上げた姉さんは勝ち誇ったかのような表情で彼を見下ろした。
「あたしは手際がいいの。それにしたって早く戻りたいし。なんせ一分一秒でも惜しい」
「同感ですね。僕も一分一秒が貴重だったんですけど」
彼が肩をすくめてそう言うと、徳利や猪口を乗せた盆を姉さんから受け取り、テーブルに置いた。
姉さんは私達の向かいに腰かけ、嬉々としてざる蕎麦を食べ始める。しばらくおいしそうに食べていたが、蕎麦の残りが半分をきったところで、姉さんがこちらを眺めて言った。
「あんたら見てるとさ、重いよね。きっとこれからますます重たくなるんだろうよ。たまらんな」
箸を片手にうんざりしたような顔を見せる姉さん。
私は姉さんの言葉を考えた。重いというのは、気持ちの問題のことだろうか。なら、否定できそうにない。私はたぶん、他者に対する依存傾向が強い。
「こう、もっと軽くいけないのかね」手元に視線を戻した姉さんは、箸で蕎麦を掬う。
「付き合いたてですから」
彼はやんわりと、水を差すなというような口調で告げていた。おそらくこの人も、ぞんがいに重たい男だと思う。当人同士この調子であれば、ある意味で相性がいいかもしれない。
「そういうのってさ、本人の性格と経験によるだろ。雅なんか初めての彼氏だぞ。何かと面倒だろうし、絶対重い。断言する。この女、絶対重いぞ」
私は、姉さんの発言を黙って聞いていた。人を目の前にしてよく言う。
しかし彼は、姉さん以上に食ってかかった。
「雅さんを僕に取られて寂しいお気持ち、お察しします」
とたん姉さんは蕎麦から顔を上げて彼をにらんだ。
「なんだと、坊主」
「飲まれますか?」
彼はさらりと笑顔で話題を変えて、熱燗の乗った盆を手繰り寄せる。
姉さんは彼の酌を無視してこちらを見やった。
「雅。この男、絶対、性悪だぞ。断言する。この男、絶対に性悪だ。後々を考えると何かと面倒だから、別れなさい」
昨日の今日で、さっそく言われてしまった。私は彼を見る。彼はにっこりと笑んでいた。
「駄目ですよ、信じちゃ」彼が諭すように優しく言った。「雅さんが自分に構ってくれなくなるのを心配して、いい大人が見苦しくも足掻いているだけです」
彼が愉快そうにしながら、ごく自然に詰め寄って私の肩に手をやった。
「たぶらかすな。おい、離れろ!」
姉さんの声と、彼の軽快なやり取りがそれからずっと聞こえていたが、初めて肩を抱き寄せられた経験にどきどきして、私はそれどころではなかった。
自分の不整脈の心配をしながら、夜は賑やに更けていく。そうして、全員でリビングから朝日を拝むことになったのだった。