後日談その一 前編
「面白みに欠ける一日だな」
昨夜から橋本さんと付き合うことになったと報告した私に、姉さんはそう評した。
「え、どこが?」姉さん専用のジョッキにビールを注ぎながら尋ねる。
姉さんはビールを喉に流し込んで、ジョッキをテーブルに置いた。
「ひどい急展開だ。何だよそれ。驚くぐらい上手くいったな」
「うん」
「つまらん。実につまらん」姉さんは不満げな顔をする。「あたしは昼ドラが好きなんだ!」
そう言うと急に立ち上がり、辺りをうろうろし始めた。どうやら何かを探しているようで、座っていたソファのクッションを退けたり、床に置いたバッグの中を漁ったりしている。
「あった!」こちらに背中を向けた姉さんはバッグから携帯電話を取り出した。
その後ろ姿を眺めながら、ふと疑問を口にする。
「毎回思うんだけど……私のバイトがさ、次の日お休みだと、よく来るよね」
言うなれば、「金曜日の夜」みたいな例えが適当だ。
おつまみをつまんでいると、姉さんは振り返った。
「そんなの、次の日が休みだからだろう」
当然だと言わんばかりの口調の姉さんは、携帯電話を操作するのに下を向いた。ほどなくして耳にあてると、ソファに深く座りなおす。
私は、今のうちに冷やしている酒類を冷蔵庫へ取りにいこうと立ち上がった。ソファから離れた直前、姉さんの携帯電話は受話状態になったようで喋りだす。
「おー、坊ちゃん、元気? お悔やみの言葉を述べようか?」
坊ちゃんというフレーズに思わず反応して、私は振り向いた。姉さんはしっかりと電話を構えつつも、足を組んでこちらをニヤニヤして見ている。
「嘘だよ、おめでとさん」姉さんが言う。
私はその場で動かず、電話の相手を考えた。だが大して考える余地もなく、あの人の顔が思い浮かぶ。
「坊ちゃん、九時まわってるけど、今から来る? そう、あんたの愛しの彼女の家よ。どうせ明日も会うんでしょ? 暇ならフライングしに来たら?」
何やら受話口が騒がしいようだ。微かに漏れ聞こえる声に、ああやっぱり……と、ひとりごちる。
通話を終えた姉さんは携帯電話のストラップを指にかけて遊びながら、さも愉快そうに言ってのけた。
「あれは泊まりの勢いだぞ」
「……そう」
素面は恥ずかしいので、さっさと酔っ払ってしまおうと思った。
小一時間経って、彼はいつもより少し大きめのバッグを持ってやって来た。玄関で出迎えれば嬉しそうにしているので、抱きつかれまいと距離をとって中へ案内する。その頃には私も通常より大らかになっていた。つまり、酔っていた。
私は彼を先にリビングへ通す。
「そこに座れ」彼の姿を認めるやいなや、姉さんがピッと床を指差した。
訳が分からないなりに、彼は言う通りにする。なんて従順……いや、素直な人なんだろうか。
「さっき聞いたんだけどさ、あんたうちのお嬢さんを泣かせたんだって?」姉さんが言った。
彼は状況をつかもうと、こちらを振り向く。私はあいまいに首を振った。
姉さんは曲解しているのだ。そもそも、彼の話をしているときに「涙もろくなった」と言っただけだ。だが酒を飲んでいる姉さんに訂正をいれるのは、熊の鮭取りを邪魔するかのごとく未知数のおぞましさがあるので、やめておく。
姉さんの質問に、彼は不思議そうな顔をしながらも「はい」と、きっぱり言った。事実の確認だけと認識したからこそ、彼の返事は肯定だった。じっさい昨日泣いたのを彼は見ていたわけだから、返事はそうなるだろう。
だが姉さんはその返事を聞いた瞬間ソファの上に立ち、彼を見下ろした。たぶん姉さんの中では、お代官よろしく罪状を申し渡している気分なのかもしれない。
「許せん!」姉さんは敵意あらわに言った。「よくも無駄に水分を消費させやがって。女はね、ハタチ過ぎたら、体内の水分ですら減るのに戦々恐々なんだよ! 土下座して、海よりも深く反省しろ!」
因縁をつけて怒っているだけだった。
姉さんの説教は延々と続いた。そのあいだ私は空き缶を片付けたり、おつまみを食べたり、たまに彼を眺めたりしながら過ごす。そうして三十分も経てば、足を崩さない彼に感心のまなざしを向けていた。
姉さんの、お肌のハリとツヤについての話も終わりに近いのか、喋る速度が落ち始める。その姿はビール片手に途方に暮れた表情だった。
「化粧水の吸収のよさは、表面の水分が足りていない証拠なんだ。冬に近づく度に乾燥していく肌を見て涙をこぼし、その涙すら何てもったいない、ああ水分が! ……と嘆く気持ちがいかほどのものか。季節性ミイラ肌の苦しみがあんたにはわかるまい」
姉さんはよろよろとキッチンに行き、新しいジョッキを持って帰ってきた。
「貴様の分だ、飲みたまえ」偉そうな態度で、彼にジョッキを突き出す。
ようやく彼は正座を崩し、ジョッキを受け取った。そこへ姉さんが缶ビールの中身を勢いよく注ぐ。
彼は、泡と液体がボトボトとこぼれているジョッキを慌てて飲んだ。
「汚いなぁ……」姉さんはケラケラと笑った。
姉さんのお酌は、ろくに注ぎ口を見ず、溢れるまで入れるのを楽しむという悪癖がある。何が楽しいのか、どんな酒でも満杯まで入れるのが姉さんのルールだった。
「服、大丈夫ですか」
ジョッキから口を離した彼に尋ねると、彼は微笑んだ。
「大丈夫ですよ、濡れてません」
しかし、彼の手にはビールが滴っている。ハンカチで咄嗟に防いでくれたらしく、床にはいっさい濡れていない。
「あ、ハンカチ、ごめんなさい。姉さん、お酒を飲むと普段以上に豪快になるから」
言いながら彼をキッチンへと案内して、手を洗ってもらった。そのあと私は彼のハンカチの洗い出しをした。
「それは楽しそうですね」彼が耳打ちするように顔を近づけてささやく。
必要以上に接近してきていたが、いかんせん酔いが回っているせいで、私の緊張感も反応も鈍くなっていた。
「邪魔です」言いながら水を止める。
「邪魔とは心外だなぁ。ともすれば営業妨害と言われかねないあの頃で、免疫ついたでしょう?」
彼の無邪気な問いを耳にしながら、私はハンカチを絞った。
「コンビニの外で待ち伏せしている不審者時代の橋本さんでしょうか」
「待ち合わせって言ってほしいな。だって雅さん、まんざらでもなかったでしょ」
強気な態度で迫る彼に、思わずハンカチを絞る手が止まった。
「……そんなことありません」口を尖らせて言い返してみる。
彼は含み笑いをした。余裕といった表情だ。
「ハンカチ、うちで洗いますね」悔しくて、私は話を変えた。
彼は黙ってこちらの様子を見ているようだった。が、そこに姉さんがひょっこり顔を出してきて、なんともいえない空気を破る。
「皆のもの、ワインに移るぞ、ワインだ、ワイン、白ワイン!」
ワインを連呼して陽気に鼻歌なんぞを歌いだした姉さんに、彼と私は一瞬だけ顔を見合わせた。
彼は袖を軽くまくりながら、姉さんに視線をやる。
「お姉さん。つまみは何にされますか?」
「たこ焼きでいいよ。冷凍庫にある。さっさとチンしろ」言うだけ言って、姉さんは戻った。
苦笑する彼の横で、ハンカチをテーブルに置いた私は冷凍庫からたこ焼きを出し、皿に乗っけてレンジに入れた。温めているあいだにワイングラスと、冷蔵庫に入れていたワインを取り出し、コルクを抜くためのソムリエナイフを用意する。
「貸して」そう言って、彼が急に手を伸ばしてきた。
何かと思えば、瞬く間にワインとソムリエナイフを私から取った彼はそのままキャップシールを切り、スクリューをコルクに差し込み、要領よく開けてしまう。そうしてボトルラベルを眺めていた。
「橋本さん?」私は彼を見上げた。
「辛口ですか。さっさと酔いつぶれて、寝て頂きましょう」
ボトルを抱えた彼が、そのまま近付く。一気に彼の服が私の視界を占領する。彼は、私の額に少しのあいだ唇を当てて、離した。
「たこ焼き、お願いしますね」
ニコリと笑んでそう頼んだ彼はワインを持ち、先にキッチンを出て行った。