地獄の一丁目? 後編
起きたら夜中だった。水を飲みに階下へ向かう。喉を潤し、そのあとシャワーを浴びた。体はさっぱりしたけれど気分は悪い。寝室に戻り、深夜零時をまわった時計をぼうっと眺めながら、そういえば今日は朝からバイトだったと思い至る。
(寝なきゃ)ベッドに、重い体を引きずり込むようにして転がった。
携帯電話の電源をつけて、アラームをセットする。妙に冴えわたった頭のせいで眠れないが無理やり瞼を閉じて、ひたすら睡魔に襲われるのを待った。そうして、しきりに寝返りするのも億劫になってきた頃、ようやく眠れそうになった。最後に時間を確認したのは午前二時前だった。
携帯の、目覚ましの音が鳴っている。アラームを消してベッドから起き上がった。
身支度をして、アルバイト先に行く。公私は別物だが、いつものような調子が出ない。怒られるほどのミスはしなかったけれど、心ここにあらずの状態だった。アルバイトが終わって帰るとき、店長から心配と注意をされた。自身に情けなさを覚え、頭を下げて帰る。
夜になれば風もいっそう冷たくてたまらない。トレンチコートのボタンを閉じようとうつむいた。そのとき、下を向いた私の頭に声がかかった。
「雅さん」
ボタンをかける手が止まった。反射のように顔を上げて、暗がりの中で声の主を捉える。
「こんばんは……雅さん」
聞きたかったような、聞きたくなかったような彼の声に、なぜか泣きたい気分になった。
「何だか久しぶりですね。元気でしたか?」彼は弾んだ声でそばに寄ってくる。
私は緊張で声が出なかった。
「最近寒くなってきていますから、気をつけないと。雅さんはお変わりありませんか」
彼の声が頭に響く。何も答えない私に、彼は不思議そうに私の顔をのぞいてきた。
「大丈夫? 少し顔色悪そうですけれど」
そう言って額に手を伸ばしてきた。それをよけて、一歩後ろへ下がる。彼の手が途中で止まった。
私は彼の足元を見た。混乱する頭で何を言おうかと考えたが、勝手に言葉が並びはじめる。まるで自分ではないみたいだった。
「あの、言わなくちゃって思っていて、ずっと機会を逃していたんですけれど」一息分だけ置いて、うつむいたまま続ける。「こうして来て頂く必要はありません」
途端、彼の靴が迫った。先程の一歩分の距離を縮められてしまった。
「迷惑でしたか」彼は静かに尋ねた。
私は口を閉じ、彼の言葉を反芻した。最初は迷惑だと思っていたけれど、今は違う。迷惑なんて嘘でも言えない。嬉しいのだ、嬉しくてしょうがない。もしかしたら今この瞬間をやり過ごして、あの女性は誰ときかず、何もなかったように振舞うこともできるかもしれない。だけどずっと気になったまま、様々な感情が鬱積していくのだ。彼に気を許した今では、彼の行動一つ一つが私を一喜一憂させる。
親密になればきっと、私は面倒くさい性格に思われる人間だろう。だから距離を保たないと、心の平穏を維持できない。大きな喜びがないかわりに、大きな悲しみもない。踏み込んだ信頼関係は、自分には疲れる。穏やかな関係と、ゆるい絆が一番よいのだ。
誰かを好きになるのって、どうして辛いことも見えるのだろう……心に渦巻くのは、それだけだ。
「……困るんです」
ようやく振り絞って答えた私に、彼はすぐさま反論した。
「嘘」
「嘘じゃないです」私も小さく言い返す。
彼は私の腕を掴んだ。逃げられないと思うくらい、しっかりと掴まれている。無理に離そうと思ったけれど、彼のつぶやきが耳に届いてそれが出来なくなった。
「じゃあ、どうして目を合わせてくれないんですか?」
その言葉に、何を言えばいいのかと挫けてしまう。
「あの、私……」
言葉を紡げないでいると、彼は一言「来て」と発し、腕から手へと掴む部分を変え、私の右手をぎゅっと握り締めた。連れて行かれてすぐ、路上に停めてある彼の車が見えた。
私は彼の運転で、何度も助手席に乗った。けれど、あの女性も乗っていた。その事実が私を冷静でいられなくする。
「ごめんなさい、帰ります」
気づけば勝手にそう言っている自分がいた。
だけど彼は聞き入れなかった。いつもより強引なその態度に、よけい緊張してしまう。彼は車の前で立ち止まった。「乗って」と言われないことに、思わず安堵して細く息を吐く。様子を探るように、彼をわずかなあいだ見上げた。すると彼はじっとこちらを見つめている。その視線に射竦められ、私は再びうつむいた。
彼はゆっくりと、優しい口調で尋ねてきた。
「僕の気のせいですか? てっきりあなたは、僕を好意的に見てくれているものだと……」
それには何も答えられなかった。黙った私に、彼は構わず続けた。
「雅さん。僕はあなたが好きです。だから、あなたのそばにいたいけれど、それが心底迷惑なら、もう一度言ってください」
彼が突然私の頬に触れた。顔を上げると、微苦笑を浮かべた彼が苦しそうにささやく。
「僕はあなたが好きだから、あなたと一緒にいたいけれど……あなたを困らせたいわけではないんですよ」
そう告白した長身の男が、私を見つめている。決して穏やかでないその表情が、ものすごく綺麗だと思った。どきどきとした。この人のことが、やっぱり好きなんだと感じた。
彼にこんな顔をさせているのは自分なのだろうか。うぬぼれてもいいのだろうか。
私はゆっくりと瞬きをした。おめでたい奴だと笑われたっていいから、彼に好かれていたい。
「嘘なんです」気持ちを奮い立たせて、続きを言った。「困っていません。でも橋本さんにとって、私がどんな存在なんだろうって考えると、よくわかりません」
彼は黙って耳を傾けてくれている。その姿に、きちんと自分の気持ちを伝えようと思った。
「昨日、見たんです。橋本さんと女の人が、街中で一緒だったの……」
私は答えを求めるようにじっと彼を見つめた。その先にあった彼の目は驚きに見開かれている。だが次の瞬間には目を細め、口元はゆるやかな弧を描いていた。