地獄の一丁目? 前編
生まれてこのかた異性と付き合ったことがないので有効的な誘い方を知らない。しかしよくよく考えれば、この前の食事はデートだったような気もする。なら、同じように食事をするのが無難なデートということだろう。
だったら簡単だ……と高をくくった。が、じっさい彼と電話をしたりバイト上がりに会ったりしていても、自分からなかなか言い出せずにいるのが現状だった。思えばいつも向こうから誘ってくれていたのだ、今さらどうやって誘えばよいのかちっともわからない。
気がつけば今月も祥月命日が迫っている。そこで、お墓参りの帰りにご飯を誘おうと思い立った。今では待ち合わせせずとも、その日ばかりは霊園で会えるようになっているからだ。
(よし……)カレンダーを見て、知らず気合いが入った。
お墓参りには大体ジーパン姿が多い。が、今回は可愛い格好で行きたい。けれどいきなり雰囲気を変えるのは恥ずかしく、結局ジーパンと、新しく買ったチュニックにした。これが精一杯だった。
「ダサい子はいねぇかー」と、なぜか朝から家に来ていた姉さんがナマハゲよろしく追いかけ回してきたが、その相手もできないくらい緊張していた。
(落ち着け、自分)深呼吸をしてバッグとお墓参りセットを持つ。
いつも通りに会って、いつも通りにお墓参りをして、その調子で誘えばいいのだ。
平常心を心がけ、霊園に行った。だが、予想外のことが起きた。バスを降りて、そこで立ち止まる。彼がいないのだ。最近は霊園前のバス停で待ってくれており、そのまま連れ立ってお墓参りをしていた。
ひょっとしてと思いながらうちのお墓まで行くが、見当たらない。首を傾げつつも、来る途中で買った花を濯いだ花挿しに挿す。墓石を綺麗にしたり、周りの雑草を抜いたりして、たまに後ろを振り返ってみるが、彼の来る気配はない。とうとう線香を上げ、手を合わせ、帰る段階まできてしまった。いつもよりゆっくりと荷物を片づけていくが、それもすぐに終わる。私は、もう一度あたりを見回してみた。
「いない……」思わず声が漏れる。
彼は来なかった。
翌日、アルバイトに向かった。勤務時間が終了になる頃には、私はそわそわとしていた。この後、いつもなら彼は外で待っているからだ。
仕事を終えると、いつものように彼の姿を探す。しかし彼はいない。当たり前のように迎えがあったから、会うのが自然となっていた。それが満たされない状況は、以前に戻っただけだというのに、少なからず私に衝撃を与えていた。
さらに一週間が過ぎ、携帯電話の着信履歴から彼の番号が消えていった。それが無性に腹立たしく、お墓参りを済ませて二週が経つときには橋本聡の番号を登録している自分がいた。
こんなふうになって、ようやく番号に名前を振り当てることになったのだ。複雑な気持ちで入力を完了した。
けれど、やはり自分から連絡はできなかった。どういった理由で電話をすればいいのかわからない。だから電話をかけられない。
バイトに明け暮れ、友達と秋物の服のバーゲンに行き、姉さんと飲み明かし、それでまた一週間が過ぎていく。このままの状態はいつまで続くのだろうか、どうしたらいいのだろうかと考えても、意気地のない自分に、現状を打破するような行動は踏み出せない。
休みの日も家にこもっているだけだと余計な考え事をしてしまう。そう思い、気晴らしに出かけることにした。
おいしいランチを食べて、ケーキを買う。ケーキ屋の紙袋を持って、家路を急いだ。秋の風は寒く、冬支度をせねばと思わせるように風が吹きぬけていく。枯葉が舞って道を通り抜け、香水と煙草のにおいも運ばれる。人の話し声と車の走行音が聞こえるなか、私はストールを首にまき直し、街路樹の並ぶ道を歩いた。駅に向かう途中、道路に落ちて張りつく葉っぱをブーツで踏み締めながら進んでいると、向こうから人を呼ぶ声が聞こえた。
「聡くん!」
その名前にどきりとする。進んでいる方向のいくらか先を見やると綺麗な女性がいた。彼女が口にしたようだった。その姿を視界に捉えたのと同時に、私は彼女が手を振っている先を見て、目を見開いた。
彼だった。
女性のすぐそばの店から出てきた彼は、彼女に向けて微笑んでいた。このあいだ見た黒髪のままなのが、やけに目についた。彼は女性の後ろの路肩に停まっていた車の助手席のドアを開けて、女性を入れた。そして運転席に乗り込んだ。
彼は、人の波の中で立ち止まった私に気づかない。車が走り去ったあとも、私はしばらくその場から動けずにいた。
家に帰って、ドアの鍵を開けた。姉さんはいなかった。鍵をかけて、ブーツを脱ぐ。ケーキは冷蔵庫に入れて、リビングのソファにトレンチコートを置いた。バッグから携帯電話を取り出し、二階へ上がる。寝室に持ってきたはいいが、何の邪魔もされたくないので電源を切ってベッドの枕元に放り投げた。髪の毛を束ねていたシュシュを外し、腕時計もとる。
左手首を見た。もらい物のブレスレットが目に入る。数珠はどうかと思ったけれど、意外と何にでも合うデザインなので毎日着けていた。左手首にまいていた腕時計を右側に変えたほど、気に入っていた。
ベッドに寝転ぶ直前、これも外そうと思ったがやめた。枕に頭を預けて横向きに寝る。耳を澄ますと、時計の針の音が聞こえた。ついで自分の呼吸の音が、耳障りなほど大きく聞こえてきた。規則正しい針の音と、それに呼応するように上下する自分の胸。聞くだけでいらいらし、けれども苦しい。
「……馬鹿だなぁ」
額と目を覆い被すように手の平をそこにあてた。
「馬鹿だ」何の意識もなく、再び言葉が出た。
つまらない。感傷を抱く自分も、この感傷自体もつまらない。そう思えば、自然と涙が浮かぶ。
馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿げている。あの関係性に保障はなかった。なのに、どこか安心していた。答えを引き伸ばしても、うやむやにしていても、変化が訪れるとは思っていなかった。そうだ、崩壊する可能性など思いもしなかったのだ。
彼は私で暇をつぶしていたのだろうか……考えて、頭を振る。何にせよ、動かなかったのは自分。こんなに苦しいのは、彼のことが好きだからに他ならない。そこから前へ進むチャンスはいくらでもあった。あの人だって、今までいくらでもそれを与えてくれていた。次があると思って逃したら、チャンスなんて二度と来ないかもしれないというのに。
(逸したのかもしれない)そう、思った。
目を閉じても浮かぶのは彼のこと。取らないでと言えるわけもないが、そう感じるのをとめられなかった。