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09 一番大切なもの

季節はまたひとつ巡り、千花の小学校卒業を目前に控えた、まだ肌寒い夜のことだった。深夜の「検閲」に備え、隆史はいつものようにダイニングテーブルを磨き上げていた。乾いた布巾で最後にひと撫ですると、天井のLEDが白く反射し、木目は静かな湖面のように整った。その鏡のような面に、秋子は一枚の書類を音を立てて置いた。


「離婚協議書」


無機質な文字が、光を跳ね返している。秋子は椅子に深く腰掛け、脚を組んだ。冷えた麦茶のグラスに口をつけ、勝敗の決したゲームを確認するような目で隆史を見る。


「隆史、私たち、離婚しましょう。理由は明白よ。あなたの経済的な無能。それが家族の未来を奪っているから」


隆史は布巾を畳み、流しの端に置いた。反論はしない。ただ、言葉の続きが来るのを待つ。削げた頬、痩せた首筋。だが背筋だけは、まっすぐだった。


「あなたが勝手にキャリアを捨て、昇進を断った。その結果、収入は減った。私のパート代と合わせても、千花に平等な教育機会を与え続けるのは難しい。いまのあなたは、家庭にとってリソースではなく負債よ」


秋子の論理は一貫している。社会的な正しさを基準に置き、そこから外れるものを切り落とす。深夜の「やり直し」も、隆史が自ら食事を抜いて節約してきたことも、彼女の評価軸には入らない。入らないものは存在しないのと同じだ。


(経済的理由、か)


隆史は内側でその言葉を転がす。乾いた音がする。


「……分かった。秋子。君がそう望むなら、争うつもりはない」


あまりにあっさりした返答に、秋子は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに表情を整えた。「合理的で結構」とでも言いたげに、小さく頷く。


廊下の暗がりで、千花が息を潜めていた。胸に抱えているのは、クローゼットの奥からそっと持ち出したノート。『Volume 09』と背表紙に書かれている。父の細い字で、何年分もの日付と出来事が記されている。自分が熱を出した夜、運動会で転んだ日、好きな給食のメニュー、最近よく使うシャープペンの芯の硬さまで。


ママが「正しい」と言うたびに、家の空気は少し冷えた。パパの手は、洗剤で荒れて、いつも冷たかった。でも、弁当箱の中は温かかった。制服は朝、ほんのりと熱を残していた。千花は、その因果を知っている。


一週間後、場所は家庭裁判所の調停室に移った。淡いベージュの壁、観葉植物、低いテーブル。血の匂いのしない、静かな戦場だ。秋子は資料を整然と並べ、確信に満ちた顔で座っている。隆史はさらに痩せて見えたが、椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばしていた。


「隆史さんの現状を見ていただければ分かる通り、彼は正常ではありません」


秋子は落ち着いた声で話し始める。昇進を断ったこと、収入が減ったこと、食事を抜き、深夜に家事を繰り返す生活。心身ともに不健康であること。


「このような状態の父親に、思春期を迎える娘を任せることはできません。教育における平等な機会を確保するためにも、親権は自立している私が持つべきです」


調停員が隆史に視線を向ける。隆史は喉を湿らせ、ゆっくりと口を開いた。


「……財産はすべて、秋子さんに譲ります。家も、貯金も、車も。私は何も持たずに出ていきます」


室内の空気がわずかに動く。秋子の目に、計算が走る。


「ただし、条件が一つだけあります。千花の親権を、私にください」


「そんな状態のあなたに?」秋子は即座に返す。「その分厚いノートも異常よ。何年も分単位で記録を続けるなんて、監視と同じです」


隆史は反論しない。ただノートの束を机に置く。表紙は擦り切れ、角は丸い。


調停員と裁判官が、ページをめくる。静かな紙の音が続く。日付、時刻、体温、食事内容、学校での出来事。8月6日の欄で、裁判官の手が止まった。


「この日、塾の面談をキャンセルしたのは、あなたですね」


秋子が視線を上げる。


「記録によれば、地域活動の会合を優先すると指示した、とあります。その間、娘さんは40度の熱を出し、父親が15分おきに体温を測っていた」


秋子は一瞬言葉を探す。「その活動も、長期的には娘のためのケアで——」


「分かりました」


裁判官は淡々と頷く。さらに数ページを確認する。学校からの連絡帳の写し、医師の診断書の控え、塾の成績推移。誇張はない。ただ事実が並んでいる。


事前の聞き取りでの千花の言葉も、簡潔に報告される。


「お母さんは正しいことを言います。でも、私を見ているのはお父さんです」


室内は静かだ。誰も声を荒げない。その静けさが、かえって重い。


最終的に、裁判官が結論を述べる。


「監護の継続性、記録の具体性、そして娘さんの意思を総合的に考慮し、親権は父親に認めるのが妥当と判断します。財産分与については、父親の申し出通りとすることで調整可能です」


秋子は、目の前の書類に視線を落とす。家と預金の一覧。数字は明確だ。親権は、責任と時間を伴う。天秤はゆっくりと傾く。


「……分かりました。その条件で合意します」


その言葉が発せられた瞬間、隆史は小さく息を吐いた。長いあいだ胸に巻き付いていたものが、ほどける感覚があった。勝利というより、役目を終えた感覚に近い。


調停室を出ると、廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。まだ冷たいが、確かに新しい光だ。待合室の椅子から立ち上がった千花が、まっすぐに歩いてくる。


「終わった?」


「ああ」


「お父さん、お腹すいてる?」


隆史は少し考えてから、正直に言った。


「……すいてるかもしれないな」


千花は小さく笑う。「じゃあ、帰りに何か食べよう。私、もう六年生終わるんだよ。半分くらいは出せる」


その言葉に、隆史は初めてはっきりと笑った。地は均された。あとは、何を植えるかだ。朝の光の中で、ふたりは並んで歩き出した。


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