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08 盾の温度

夕食の食卓には、秋子の指定した「栄養バランス」を守りながら、千花の好物である唐揚げが並んでいた。衣は薄く、油は切れ、レモンのくし形が規則正しく皿の端に置かれている。色合いも数値も、どこにも隙はない。


「素晴らしいわ、隆史。この彩り、まさに家庭内労働の質的向上ね。千花、しっかり食べなさい。あなたの身体を構成する栄養素も、パパとママが五十対五十でリソースを出し合った結果なんだから」


秋子は満足げに頷き、自分の言葉を確かめるように咀嚼する。だが十二歳になった千花の視線は、秋子ではなく、向かいに座る隆史へとまっすぐ向けられていた。


「……お父さん、これ、食べて」


千花は自分の皿のいちばん大きな唐揚げを、箸でそっと隆史の皿へ移した。


「どうしたんだい。お父さんは大丈夫だよ。あまりお腹は空いていないから」


隆史は微笑む。だがその頬は削げ、皮膚の下の骨格が透けて見えるほどだ。眼窩は深く沈み、そこには欲求を遮断したあとの、乾いた静けさが宿っている。


「最近、夜中ずっと台所にいるでしょ。私、知ってる」


千花の声は低く、揺れない。秋子の箸が止まる。


「トイレに起きたとき、見てるの。お母さんが文句言うから、お父さんが何回もシンクを磨き直したり、洗濯物を畳み直したりしてるの」


「千花、それは家庭内の品質管理であって——」


秋子が口を挟むが、千花は続ける。


「お母さんの言う平等って、お父さんを壊すことなの? お父さんの手、いつも冷たい。でも、お弁当はあったかいよ。冬の朝、制服をアイロンで温めてくれてるの、お母さん知らないよね」


テーブルの下で、千花が隆史の手を握る。洗剤で荒れ、節くれ立ち、冷え切った手。それでもその冷たさは、長いあいだ彼女を守ってきた盾の温度だった。


「千花が笑ってくれれば、それでお腹はいっぱいなんだ」


隆史はそう言う。言葉は静かだが、かすかに震えている。


秋子は一瞬たじろぐ。しかしすぐに表情を整えた。


「いい親子ね。隆史、私の指導のおかげであなたにも父性が芽生えたみたい。アップデートは成功ね。さあ、千花。食べ終わったら塾の予習よ。感傷に浸るのは効率的じゃないわ」


「……分かってる」


隆史は千花の手をそっと離し、立ち上がる。視界がわずかに揺れるが、何事もないようにキッチンへ戻った。


深夜二時。リビングには冷たい静寂と、アイロンのスチームの匂いだけが残っている。


隆史は千花の制服を広げる。秋子は「ピシッとかけて」と言うが、アイロンを握ることはない。スチームが細く立ち上り、白い霧が月光に溶ける。襟元からゆっくりと熱を滑らせる。繊維が整い、布が静かに従う。


(やり方が甘いと、千花が恥をかく……そう言ったね、秋子)


彼はその声を頭の中で反芻し、分解する。秋子が恐れているのは外の目だ。だが千花が必要としているのは、この熱の重みと、整えられた繊維に宿る安心だと、隆史は知っている。


空腹はもう痛みを伴わない。ただ、身体が軽くなっていく感覚だけがある。


(飢えは僕を透明にする。微睡みは僕を無私にする)


スカートのプリーツを一本ずつ整える。指先で形を作り、熱で固定する。その反復のなかで、彼の思考は澄んでいく。


アイロンを立て、電源を切る。小さな音が部屋に響く。完成した制服をハンガーに掛けると、それは月光を浴びて淡く光った。まるで朝を待つ鎧のようだ。


足元がふらつく。椅子に手をかけ、かろうじて身体を支える。


まだ寝るわけにはいかない。明朝、千花が袖を通し、「ありがとう」と小さく言うその瞬間まで、彼は起きていなければならない。


翌朝、秋子は不機嫌だった。


「昨日のアイロン、本当に完璧? 繊維の奥に湿気が残っている気がするわ。あなたのやり方が甘いと、私の精神的リソースが削られるの」


「分かっているよ」


隆史は淡々と答える。秋子の言葉は、もう痛みというより振動に近い。ただの空気の揺れだ。


彼はクローゼットから一冊のノートを取り出す。『千花との記録 Volume 08』。そこには、秋子の選んだ靴が足首に靴擦れを作っていること、教育論を語るときに千花がわずかに唇を噛むことが書かれている。千花はときどきそれを読み、何も言わずにページを閉じる。


さらに、家計のタブレットを開く。数字は静かに減っている。昇進を断り、残業を拒んだ代償は明確だ。予備費は三ヶ月もたない。


(あと三ヶ月)


だが彼は何も言わない。数字はやがて、理論より雄弁になる。


深夜二時。ダイニングの椅子に沈み込む。立ち上がる力はほとんど残っていない。だが部屋は整っている。シンクは鏡のように光り、食器は寸分違わず並び、制服は高い位置で静かに揺れている。


この空間から、秋子の手触りは消えていた。残っているのは、隆史の血と時間と沈黙だけだ。


東の空が白む。隆史は最後の一杯の水を飲む。喉を通る冷たさが、かすかな現実感をもたらす。


(さあ……いつでも来い)


何が来るのかは分からない。崩壊か、告白か、それともただの朝か。ただ、均衡は永遠ではない。


目を閉じると、かつてカメラを構えていたころの風景が浮かぶ。光の角度、影の濃淡、シャッターを切る前の静寂。その画面のなかに、秋子の姿はない。ただ、遠くで笑う千花の輪郭だけが、やわらかく揺れている。


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