07 求道者
さらに季節は二巡した。窓の外を流れる景色は、隆史にとってほとんど意味を持たない光の点滅になっている。桜が咲き、散り、また芽吹く。そのあいだに千花は十二歳になり、背丈は秋子の肩に届きかけていた。声も少し低くなり、笑うときにだけ、幼いころの面影が覗く。
隆史の生活は、ほとんど精密機械の作動記録のようになっていた。
午前五時。アラームが鳴る前に目が覚める。冷えた床に足を下ろし、キッチンのスイッチを入れる。秋子の掲げる「健康管理という名の平等」に従った栄養バランス。塩分、脂質、カロリー。数値はすべて頭の中にある。それでも弁当の蓋を開けた瞬間、千花の気持ちがわずかに軽くなるよう、彩りだけは自分の感覚で整える。赤と緑と黄色。その配置だけが、彼のささやかな裁量だった。
家族を送り出し、自分も出社する。給湯室の隣のデスク。湯気とコーヒーの匂い。誰も目を向けない残務の山を、音を立てずに片づける。差し戻し、確認、再入力。昼休みになると、同僚たちは連れ立って外へ出るが、隆史は椅子に座ったまま目を閉じる。眠っているのか、ただ動きを止めているのか、自分でも曖昧だ。
「おい、隆史。……寝てるのか?」
昌幸部長の声が、遠くで響く。かつてのような熱はない。戸惑いが混じっている。
隆史は動かない。実際には意識の底で声を聞いているが、身体を反応させる余力は温存しておきたい。夜に必要だからだ。
「最近、昼飯食べてないみたいですよ」
誰かが小声で言う。
胃の奥が、鈍く軋む。空腹はたしかにある。だがその痛みは、むしろ都合がいい。腹が減っているあいだ、人は余計なことを考えなくて済む。欲求が単純になり、輪郭が薄くなる。
(空っぽでいれば、削られる部分も少ない)
午後のチャイムが鳴ると、彼は目を開ける。書類に向き合い、正確に処理を再開する。その動きは静かで、無駄がない。誰も褒めないが、誰も文句も言わない。
定時。一分の狂いもなく退社する。スーパーで底値の野菜を選び、頭の中のリストと照合する。袋を両手に提げて帰宅すると、リビングでは秋子がタブレットを滑らせている。
「あ、隆史。今日、千花の塾の資料を読んだわ。将来を考えれば、今のうちにジェンダー統計学の基礎に触れさせるべきね。教育における平等が、自立を支えるんだから」
画面から目を離さないまま言う。
「そうだね」
隆史は短く答え、キッチンへ向かう。
秋子は理念を語る。しかし千花が最近、数学の文章題でつまずいていることや、新しいクラスでできた友人の名前を知らない。千花が特定の柔軟剤の匂いを嫌がるようになったことも。隆史は知っている。筆箱の奥に、短くなった鉛筆を一本だけ残している理由も。
包丁を動かしながら、彼はリビングのほうを見る。千花は宿題を広げ、秋子の話を無表情に聞き流している。ノートの隅に、小さな文字で何かを書き込む。その筆圧は強い。
深夜二時。いつもの時間に「やり直し」が始まる。
「今日の夕食、塩分濃度は計算した? 昨日は少し高い気がしたの。私の体調管理も重要なタスクよ」
秋子の声は疲れているが、基準は緩まない。
「ああ、計算通りだよ」
隆史は振り向く。その目に怒りはない。何も通さない鏡のような静けさだけがある。
彼は最近、家庭口座の残高が減っていることを知っている。秋子の活動費、寄付、交通費。数字は毎月、少しずつ削れている。しかしまだ言わない。言葉にするには、もう少し時間が必要だと思っている。
シンクの前に立つ。磨き上げられたステンレスに、自分の顔が映る。頬はこけ、首筋は細い。それでも目だけは冴えている。
飢えと微睡みのあいだで、彼は奇妙な静寂を手に入れていた。欲望を削ぎ落とし、自己主張を圧縮し、ただ機能として存在する。そこにはある種の安定がある。
だが同時に、どこかで微かな軋みも感じている。千花が十二歳になり、彼の手の届かない速度で変化していること。秋子の理論と現実のあいだに、目に見えない隙間が広がっていること。
(あと少しだ)
何が「あと少し」なのか、自分でもはっきりとは言えない。ただ均衡は永遠ではないと、彼は知っている。
「すべて、君の望む通りにしてある」
そう告げたときの自分の声が、やけに平坦だったことを思い出す。それは宣戦布告というより、どこか祈りに近い響きだった。
磨き終えたシンクは、静かに光を返す。そこには敵も味方も映らない。ただ、空白だけがある。
その空白の前で、隆史はしばらく動かなかった。




