05 次世代ではない娘へ
午後六時三十分。かつての彼にとって、その時間にオフィスを出ることは、どこか裏切りに似た響きを持っていた。だが「定時退社」というカードを初めて切ってから、もう二年が過ぎている。窓の外では、オフィス街の街路樹が二度枯れ、二度芽吹いた。季節は律儀に巡ったが、隆史の立っている場所だけは、透明な膜に覆われたように、温度の変化を拒んでいる。
彼のデスクは、もはやフロアの中央にはない。かつて次期課長候補として、昌幸部長と資料を挟んで議論を交わしたあの場所から、少しずつ、しかし確実に外縁へと押しやられた。いま彼が座っているのは、陽の当たりにくい給湯室の隣だ。コーヒーメーカーの蒸気がときおり湿った匂いを運び、壁際の観葉植物だけが、誰に向けるでもない緑を保っている。
「……隆史さん、これ、お願いできますか?」
後輩社員が差し出す伝票の束は、軽いはずなのに、なぜか重く感じられた。声には遠慮があるが、手つきにはない。そこには「任せても大丈夫な人」ではなく、「断らない人」への信頼が含まれている。隆史の仕事は、いつの間にか誰にでもできるが、誰も積極的には引き受けない種類のものへと変わっていた。差し戻し、確認、再入力。小さな誤差を丁寧に均す作業だ。
定時になると、彼は静かにカバンを持ち、エレベーターへ向かう。かつては同僚と交わしていた「お先に失礼します」の一言も、いまはほとんど空気の振動に近い。背中に刺さる視線は、怒りというよりも、乾いた観察だ。生態系から外れかけた個体を遠巻きに眺めるような目。
玄関の鍵を回すと、家の中の空気がわずかに張り詰めるのを、彼はもう知っている。
「隆史、千花の連絡帳、読んだわよ。あの書き方は少し雑じゃない? それとシンク、水滴が残ってる。終わったことにならないでしょう」
リビングのソファに腰掛けた秋子は、タブレットと連絡帳を手にしている。声は穏やかだが、言葉は正確に急所を射抜く。彼女のいう「平等」は、この二年でより精密な装置になった。家事は分担ではなく、「再委任」だと彼女は言う。
「私は地域のケアに時間を使っているの。だから家庭内の実務は、あなたが責任を持って完遂する。管理と執行は分かれていたほうが効率的でしょう?」
理屈として破綻はない。だからこそ、反論の糸口は見つかりにくい。隆史は五徳を手に取り、もう一度磨き直す。スポンジの感触が指先の皮膚を薄く削る。その単純な痛みが、むしろありがたいと感じる瞬間もある。
秋子が地域活動の会合に出かけると、家は急に広くなる。音が吸い込まれ、家具の輪郭がわずかに柔らぐ。
隆史は千花の部屋の前で立ち止まり、軽くノックをした。
「千花、起きてるかい」
「……うん、パパ」
ドアが開く。十歳になった千花は、少し背が伸び、声の高さも落ち着いてきた。無邪気さはまだ残っているが、その奥に、家の均衡を測る小さな秤のようなものが見える。
「ママは?」
「ミーティング。十時には戻るよ」
隆史はスーツの内ポケットから、小さなノートを取り出した。安価な紙だが、ページの端は丁寧に折り返されている。そこには、千花が好きだと言ったテレビ番組のこと、苦手な野菜の順番、眠る前に無意識に指で数える回数まで、細かな文字で記されている。秋子の家庭運営マニュアルには載らない、しかし彼にとっては重要な情報。
「ママはね、私のこと『次世代』って言うの。でもパパは、ちゃんと千花って呼ぶね」
千花はノートを覗き込みながら言った。隆史は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑う。
「名前は大事だからね。世界でひとつしかない」
彼は千花の肩に手を置く。細い骨の感触が伝わる。
「ママの言っていることは、この社会では正しい。だから否定しなくていい。ただ、正しいことが全部じゃない。息をする場所は、少しくらい余白があったほうがいい」
千花は黙ってうなずく。完全に理解しているわけではない。ただ、パパが作る卵焼きが、昨日の自分のひと言を覚えていて、ほんの少し甘いこと。それだけで十分だと思っている。
「ママね、パパに『やり直し』って言うとき、ちょっと嬉しそう。でも直した後のシンクを見ると、変な顔するよ。……あとね、パパがいないとき、ずっとスマホ見てる。千花が話しても、『外の仕事で忙しい』って」
隆史は目を細める。
「そうか。千花には、そう見えるんだね」
その声は静かで、どこにも棘はない。ただ、湖面のように波が立たない。
千花を寝かしつけたあと、隆史はキッチンに戻る。換気扇の小さなライトが、シンクの縁を銀色に照らしている。秋子に指摘された箇所を、彼はもう一度見つめる。水滴は、たしかに数粒残っている。
スポンジに洗剤を一滴垂らし、ゆっくりと円を描くように磨く。
やり直し。会社でも、家でも、その言葉は同じ形をしている。ただ、差し戻される理由だけが違う。
キュッ、キュッ、と規則正しい音が夜に溶ける。彼は思う。完璧に近づくほど、自分の痕跡は消えていくのだろうか。それとも、消えたように見える場所にこそ、別の輪郭が浮かび上がるのか。
答えはまだ出ない。ただ、スポンジを握る手の動きだけが、確かな現在としてそこにある。




