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03 断捨離

夕食という名の儀式が終わった。皿の上に残ったソースの跡が、蛍光灯の光を受けて乾きかけている。規則正しく二等分された料理はすでに胃の中に収まり、味の記憶だけが曖昧に漂っていた。


時刻は午後八時半。隆史は椅子を静かに引いた。会社から持ち帰った役員会議用の資料が、鞄の中で重く沈んでいる。あれを仕上げなければならない。それは単なる仕事ではなく、職場における彼の立場を辛うじてつなぎ止める綱のようなものだった。


パソコンを開こうとしたとき、背後から秋子の声が届いた。


「ねえ、隆史。数字で見える家事だけが平等じゃないのよ」


指先が止まる。振り返ると、秋子はダイニングテーブルにPTAの資料を広げ、赤ペンを走らせていた。紙の端がきちんと揃えられ、その姿勢には一種の職務的な緊張があった。


「今日は言われたことはやったはずだけど」と隆史は言う。「ゴミ出しも、千花の迎えも」


「物理的なタスクの話をしているんじゃないの」


秋子は顔を上げた。「今日の会議でどれだけ神経を使ったか、想像できる? 保護者同士の利害調整、先生との交渉、行事の段取り。失敗すれば千花が間接的に不利益を被る。これは単なるボランティアじゃない。ケア労働であり、マネジメントなの」


その口調は静かだが、隙がない。言葉は選び抜かれ、迷いなく配置されている。どこで覚えたのか分からない専門用語が、自然に会話へ組み込まれていた。


「千花の宿題を見るのも、情緒を支えるのも、全部エネルギーがいるの。あなたが会社で評価を積み上げる時間、私は家族の土台を維持している。報酬もなくね」


隆史はパソコンの黒い画面に自分の顔を映しながら答える。「でもその仕事で給料をもらっているから、この家が回っているのも事実だろう」


「給料はあなた個人のキャリアに還元される。でも私の労働は家族全体のため。性質が違うのよ」


議論は平行線ではなかった。むしろ、秋子の言葉は一方向にしか進まない線路の上を進んでいるようだった。


「……じゃあ、何をすればいい」


しばらく沈黙があり、秋子は淡々と告げた。「精神的な労働を私が引き受けている以上、あなたが物理的な労働で補填するのが妥当よ。今夜の後片付け、明日のゴミ出し、千花の持ち物確認。私は議事録をまとめる」


隆史は立ち上がり、シンクに向かった。水が流れ、皿に当たる音が単調に続く。洗剤の泡が指先に絡み、ひび割れた皮膚がしみる。


「パパ、おてて痛いの?」


振り向くと、パジャマ姿の千花が立っていた。十歳の瞳は、まだまっすぐだ。彼女はそっと父の指に触れた。


「大丈夫だよ。ちょっと乾燥してるだけ」


「今日ね、学校でお花植えたの。ママに言おうとしたら、今忙しいって。あとでって」


その声に責める響きはない。ただ事実を並べているだけだ。


「パパが帰ってくると、ママ、急にお掃除するよね。どうして?」


隆史は答えに詰まった。秋子の理論と、目の前の小さな違和感。その間に横たわるものを、どう説明すればいいのか分からない。


「大人にもいろいろあるんだよ」と、結局曖昧に言った。


千花はしばらく考え、そして小さく頷いた。「パパ、あんまり無理しないでね」


その言葉は軽いのに、胸に残った。


翌朝、鏡の中の自分は見慣れない顔をしていた。目の下に影が落ち、剃刀を持つ手がわずかに震える。昨夜、補填として積み上げられた家事を終えたのは午前二時近くだった。


「忘れ物ない? あなたが遅れると私のスケジュールが狂うから」


玄関で秋子が言う。彼女はソファに座ったまま、メールを打っている。


「行ってくる」


千花の頭を撫で、家を出る。外気が冷たい。


午後五時半。会社のフロアには終業前のざわめきがある。そこへ昌幸部長がファイルを抱えて現れた。


「隆史、例のプロジェクトだが、今夜中に叩き台をまとめてくれ。明日、役員に持っていく。これはお前の次のステップになる」


その言葉は、かつてなら胸を高鳴らせたはずだ。しかし隆史の頭に浮かんだのは、時計の針だった。あと二十分で退社しなければならない。


家に帰れば、一分単位の遅れが指摘される。平等という名の管理表が待っている。


「……申し訳ありませんが、今夜はお受けできません」


自分の声が少し遠くに聞こえた。


昌幸が眉をひそめる。「何を言ってる。昇進に関わる話だぞ」


「昇進は望みません。定時で帰ります」


一瞬、空気が止まった。


「理由は?」


「家庭の事情です」


それ以上は言わなかった。言えば、すべてが滑稽に聞こえる気がした。


昌幸はしばらく隆史を見つめ、やがて静かにファイルを閉じた。「そうか」


同僚の視線を背中に感じながら、隆史は鞄を持った。エレベーターの中で、ようやく息を吐く。震えているのは恐怖のせいではない。何かを自分で切り落とした感覚が、遅れてやってきたのだ。


駅へ向かう途中、夕焼けがビルの窓に反射している。以前なら、ポケットからカメラを取り出していた時間だ。今は両手が空いている。


キャリアも、睡眠も、趣味も、少しずつ削ってきた。削られた分だけ、家は均衡に近づいているのだろうか。


隆史は答えを出さないまま、ホームへ降りる階段を下りた。電車の風が吹き抜ける。瞳の奥の光が、以前よりも薄くなっていることだけは、自分でもわかった。


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