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02 業務としての朝

土曜日の朝、隆史を揺り起こしたのは、スマートフォンの無機質なアラーム音だった。午前六時。窓の外はまだ白く、夜と朝の境界が曖昧な色をしている。体の奥に、平日の疲労が澱のように沈んでいるのがわかった。


かつては、金曜の夜にどれだけ遅く帰っても、土曜の朝だけは少しだけ眠らせてもらえた。秋子が千花を連れて近所の図書館に出かけたり、静かにタブレットで動画を見せたりして、寝室のドアをそっと閉めてくれていた。そんなささやかな配慮が、確かにあった。


しかし、今は違う。


「時間だよ。掃除担当はあなたでしょ」


隣から、乾いた声が落ちてきた。隆史は目を開け、天井の染みをしばらく眺めたあと、ゆっくりと体を起こした。筋肉がきしみ、喉がひりつく。ベッドを出ると、足の裏にフローリングの冷たさが直に伝わった。


リビングのテーブルには、昨夜の分担表がきっちりと広げられている。余白のない文字列は、家庭の約束事というより、どこかの企業の業務マニュアルのようだった。隆史は掃除機を取り出し、黙ってスイッチを入れる。機械音が、まだ静まり返った空間に乾いた振動を広げた。


「そこ、拭き掃除が甘いわよ。四隅に埃が残っているのは掃除したことにならないわ」


キッチンから秋子の声が飛んだ。彼女はシリアルを口に運びながら、ストップウォッチに視線を落としている。まるで実験動物の観察でもするような落ち着きだ。


「わかってる。今やる」


「『今やる』は結果じゃない。成果で判断して。時間は有限なの。あなたの遅れは、そのまま私の見えない残業になる」


言葉は正確で、無駄がない。だからこそ、逃げ場がない。隆史は膝をつき、四隅に指を滑らせる。埃が指先にまとわりつく。その姿勢のまま、床に映る自分の歪んだ顔を見つめた。


そうか、と彼は思う。ここでは感情は評価項目に含まれない。必要なのは精度と速度だけだ。ならば、その基準で満点を取ればいい。秋子が求める「正解」を、彼女以上に正確に実装してみせればいい。


掃除を終えると、すぐに公園の時間になった。千花がコートを着ながら駆け寄ってくる。


「パパ、お外行こう!」


十歳の笑顔は、まだ無垢な光を宿している。その光が、隆史には少し眩しかった。玄関に向かいながら、彼は無意識に棚へ視線をやった。いつもそこに置いていたカメラバッグがない。


思い出して、クローゼットの奥を探る。段ボール箱の陰、湿気の溜まりそうな隅に、革のバッグが押し込まれている。引き出すと、金属のひやりとした重みが掌に馴染んだ。


「カメラ、持っていくの?」


背後から、秋子の声がする。


「重いし、千花から目を離す原因になるわ。今のあなたの任務は百パーセントの育児でしょ。趣味は後回しにして」


「記録だよ。千花の成長を撮るのは、親としての——」


「スマホで十分。高価な機材は自己満足。時間、押してるわよ。公園は九十分。次の家事が詰まる」


論理は整っている。反論の余地は、形だけだ。隆史は数秒、カメラを握ったまま立ち尽くした。やがて、ゆっくりとバッグを戻す。ファスナーを閉じる音が、やけに大きく響いた。


公園は澄んだ冬空の下にあった。吐く息が白い。滑り台やブランコの軋む音が、乾いた空気を震わせる。他の父親たちは首からカメラを下げ、子どもを追って笑っている。その姿を見て、隆史は自分の右手を持ち上げかけた。だが、そこにあるのは空気だけだ。


「パパ、見て!」


滑り台の上から千花が手を振る。隆史は笑い、手を振り返す。ファインダーを覗く代わりに、目を細めてその姿を焼き付ける。記録はできないが、記憶ならできる。そう自分に言い聞かせる。


九十分は長かった。義務としての育児は、時間を伸ばす。けれど千花は時折、父の顔を覗き込むように見上げる。その視線に、年齢より少し早い理解の影が混じっていることに、隆史は気づいた。


「パパ、カメラなくてもいいよ。私、ちゃんと覚えてるから」


その言葉に、胸の奥で何かが静かに軋んだ。奪われたのは物ではなく、儀式だったのかもしれない。レンズ越しに世界を共有する、小さな合図のような時間。その欠落が、思ったよりも深い穴を残している。


帰宅すると、すぐに買い出しの時間だ。秋子から渡されたメモには細かな指定が並んでいる。予算は三千五百円。一円でも超えれば小遣いから補填、と書かれている。


スーパーの蛍光灯の下で、隆史は電卓を叩きながら棚を往復した。かつて二人で歩いた通路は、今や計算式の通路だ。牛乳パックの重みが指に食い込み、ビニール袋がきしむ。


エレベーターの鏡に映った自分は、疲れた会社員というより、作業を課された労働者のようだった。理想の父親像は、どこか遠くに置き忘れたらしい。


夕食は正確に二等分されていた。秋子はレシートを確認し、静かに頷く。


「問題なし。これが公平よ。あなたの疲労は、これまで私が背負ってきたものの半分」


隆史は頷き、味の輪郭を失った肉を咀嚼する。会話は必要最小限。感情は議題に上らない。


食器を洗いながら、彼はリビングの隅を見る。かつて防湿庫が置かれていた場所には、知育玩具が整然と積まれている。空いた空間は、まるで最初からそこに何もなかったかのように、きれいに均されていた。


なるほど、と彼は思う。秋子が目指しているのは、感情の均衡ではなく、数値の均衡だ。ならば自分も数値になるしかない。削ぎ落とし、誤差を消し、管理可能な個体へと。


濡れた手を拭き、クローゼットの奥からカメラバッグを引き出す。暗闇の中で、レンズキャップを外す。小さな音がした。


ファインダーを覗くと、黒い円の奥に自分の目が映る気がした。戦うつもりはない。ただ、徹底するだけだ。彼女が家庭を数式に変えるのなら、自分はその数式を完璧に解いてみせる。


「さあ、始めよう。本当の平等を」


誰に聞かせるでもなく、隆史は呟いた。窓の外の空は灰色で、光はまだ薄い。しかしその静けさの中に、確かな手触りのある決意が沈んでいた。彼はそれを、そっと胸の奥にしまい込んだ。


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