10 地均しを終えた朝
離婚調停から一ヶ月が過ぎた。秋子は、駅から徒歩七分のマイホームにひとりで暮らしている。名義は彼女のものになり、通帳には数百万円の残高がある。隆史と千花は、調停が終わったその日、必要最小限の荷物だけを持って家を出た。引っ越しの朝、隆史は何も言わなかった。ただ、鏡のように磨き上げたシンクを指先でなぞり、整然と並ぶ棚を一瞥し、静かに鍵を置いた。
「ようやく、本当の自由が手に入ったわ」
秋子は誰もいないリビングのソファに深く腰掛け、そう呟いた。静かな部屋は、思っていたよりも広い。テレビをつけると、音だけが浮いて聞こえる。彼女はスマートフォンで不動産登記の変更通知を確認し、通帳アプリを開き、数字を確かめる。自立。勝利。そんな言葉が、頭の中で整列する。
しかし、翌朝から生活は静かに軋み始めた。
目覚ましが鳴っても、キッチンからコーヒーの匂いはしない。冷蔵庫を開けると、食材はあるが、組み合わさる気配がない。クローゼットには、アイロンのかかっていないシャツが重なっている。秋子はそれを見て、眉をひそめた。
「洗濯なんて、ボタンを押すだけでしょう」
そう言いながら洗濯機を回す。けれど、素材ごとの水量や洗剤の分量、乾燥の時間を考えたことはなかった。数日後、洗濯物はかすかな生乾きの匂いをまとい、乾燥機はエラー音を鳴らした。フィルターを開けると、糸屑がぎっしり詰まっている。隆史が毎晩、無言で掻き出していたものだ。
郵便受けに届いた光熱費の請求書も、秋子を黙らせた。数字は現実的で、容赦がない。電気代、水道代、ガス代。これまでと同じ生活水準を維持するには、思っていたよりもコストがかかる。住宅ローンの返済予定表を見つめながら、彼女は計算をやり直す。パート代と貯金の減り方。固定資産税。思いつきで増えた外食のレシート。
かつて自分が言った言葉が、ふと蘇る。「あなたは家庭にとっての負債なのよ」。いま、キッチンのくすんだシンクを前にして、その響きは少しだけ形を変える。隆史が捨てていったのは財産ではなく、生活を回すための膨大な手間と時間だったのではないか。だが、そう考えかけると、秋子は首を振る。感傷は生産的ではない。
一方、街の反対側。築三十年のアパートの二階、六畳一間と小さなキッチン。窓は南向きで、朝日が素直に差し込む。豪華さはないが、空気は軽い。
隆史は、目覚ましより少し早く目を開けた。隣のキッチンから、卵を割る音がする。
「お父さん、ご飯できたよ」
千花の声は、以前より少しだけ大人びている。テーブルに並ぶのは、少し形の不揃いな卵焼きと味噌汁、トースト。味噌汁の具は豆腐とわかめだけだが、湯気はまっすぐ立ち上る。
隆史は椅子を引いて座る。誰かの検閲を気にする必要はない。立ったまま急いで流し込む必要もない。
「いただきます」
味噌汁を一口飲む。塩加減は少し薄いが、喉を通って胃に落ちる感覚がはっきりしている。空腹を抑えるためではなく、満たすための食事だと身体が理解する。
「どう? 味、変じゃない?」
「うん。ちょうどいいよ」
千花はほっとしたように笑う。その笑顔を、隆史は静かに見つめる。以前のように、何かを削って守る必要はない。少なくともいまは。
部屋の隅の段ボールから、隆史は一台のカメラを取り出す。手放さずに持ってきたものの一つだ。レンズにうっすらと埃が乗っている。シャツの裾でゆっくり拭う。
「また撮るの?」
「ああ。練習だよ」
ファインダーを覗く。朝の光が、千花の頬に柔らかく当たっている。卵焼きを口に運ぶ瞬間、少しだけ目を細める癖。シャッターを切る。小さな音が、部屋に吸い込まれる。
高価な風景でも、誰かに評価される作品でもない。ただ、ここにある朝の記録だ。
食事を終え、ふたりで食器を洗う。シンクはまだ新しくはないが、光をきちんと返す。隆史は無理に磨き上げない。ただ、水滴を拭き取るだけにする。
窓を開けると、春の風が入ってくる。強くはないが、確かな流れだ。その風が、洗剤で荒れたままの隆史の手に触れる。ひりつきはまだ残っているが、痛みは以前ほど鋭くない。
地を均し終えたあとに残るのは、派手な達成感ではなく、静かな空白だ。その空白に、少しずつ何かを植えていけばいい。隆史はそう考える。
「お父さん、今日、帰りにスーパー寄ろうよ。特売日なんだって」
「そうか。じゃあ、メモを作らないとな」
ふたりは顔を見合わせ、小さく笑う。かつての戦場のような緊張はない。あるのは、慎ましく、しかし確かな生活の手触りだ。
春の風は、冷たさを残しながらも、確実に季節を進めている。隆史は深く息を吸い込む。少し荒れた手のひらを、風が静かに包み込んだ。




