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01 五割の正義

金曜日の午後八時を少し回った頃、オフィスビルの窓を叩く雨は、細かい粒になってガラスを滑り落ちていた。その規則正しい音が、隆史の神経の奥を爪でなぞるように刺激していた。フロアにはほとんど人が残っていない。蛍光灯の白い光と、パソコンのディスプレイの青が、彼の顔色をいっそう悪く見せていた。


「隆史、この修正案、週明け一番で先方に届けなきゃならん。悪いが今日中に目を通しておいてくれ。君が次期課長候補筆頭なのは、皆が分かっていることだからな」


昌幸部長の手が、遠慮のない重さで隆史の肩に置かれた。その手は温かかったが、同時に逃げ場を塞ぐ蓋のようでもあった。隆史は喉の奥で小さく唾を飲み込み、「承知いたしました」と答えた。声は思ったよりも乾いていた。ディスプレイに視線を戻しながら、彼は自分に言い聞かせる。外で泥を啜り、評価を積み上げることこそが、家族を守るための地固めなのだと。


会社を出たのは九時前だった。駅までの道は濡れたアスファルトが街灯を映し、夜なのにどこか白っぽい。満員電車の中で、隆史は吊革を握る右手の感覚が徐々に薄れていくのを感じていた。帰れば、温かい食事と、秋子の「おかえり」があるはずだ。そう考えると、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。


自宅の玄関の前に立ったとき、不意に胸の奥がざわついた。理由は分からない。ただ、空気の密度が違う気がした。鍵を差し込み、回す。カチリという音が、やけに大きく廊下に響いた。


「ただいま」


返事はない。リビングの明かりはついているのに、テレビの音も、食器の触れ合う音も聞こえない。靴を脱ぎ、廊下を進むと、ソファに座った秋子の姿が見えた。手元のスマートフォンの光が、彼女の横顔を平板に照らしている。


「遅かったね。千花はもう寝たよ」


その声は温度を含んでいなかった。事実だけを告げるアナウンスのようだった。


「ごめん、急ぎの案件が入ってさ。夕飯、何かあるかな」


「冷蔵庫。自分で温めて」


秋子はスマートフォンをテーブルに伏せると、ゆっくりと隆史のほうへ向き直った。「それより、座って。話があるの」


隆史はダイニングチェアに腰を下ろした。空腹が胃の内側を軽く引っかく。それでも、今は冷蔵庫を開ける気にはなれなかった。秋子の視線が、彼を測る秤のように正面から見据えている。


そのとき、寝室の扉がわずかに開いていることに、彼は気づかなかった。隙間から、千花が息をひそめてこちらを見ている。八歳の少女の目は、ここ数日で急に大人びた光を帯びていた。母がタブレットで「権利」や「構造的搾取」という言葉を繰り返し検索していたことも、今夜その結論が父に向けられることも、千花はなんとなく察していた。


「私たち、共働きよね?」


秋子の問いは穏やかな調子で始まったが、刃の角度を隠していた。


「うん、そうだね。秋子もパートで頑張ってくれてるし、本当に助かってる」


「その『助かってる』って言い方が問題なのよ。家事や育児が私の主務で、あなたがそれを手伝っているみたいに聞こえる。私はヘルパーじゃない」


言葉は滑らかだった。何度も頭の中で組み立てられてきた文章のように、淀みがない。


「フェミニズムの基本は、性別による役割分担の解体。女性が家事や育児を余分に担わされるのは、構造的な搾取よ。労働時間の長さや外貨の稼ぎは、家庭内の権利とは関係ない。だから決めたの。明日から、完全に五十対五十にする」


秋子は一枚の紙をテーブルに置いた。そこには一日のタイムスケジュールが細かく色分けされ、家事と育児の項目が左右に正確に割り振られている。


「どちらかが一パーセントでも多く担うのは禁止。それが真の平等よ」


隆史は紙面を見つめた。掃除、洗濯、買い物、夕食の準備、食器洗い。すべてが数値化され、均等に配分されている。合理的で、隙がない。


「わかった。協力するよ。でも、急に全部は――」


「急じゃない。ずっと考えてたことだから。それから、リビングのカメラの防湿庫、片付けておいたわ。掃除の邪魔だったし。クローゼットの奥に入れてある。リサイクル業者にも連絡したから、明日取りに来る」


心臓がひとつ、鈍く鳴った。ライカのカメラ。それは彼にとって、ただの機械ではなかった。昼食代を削り、残業の帰りに中古店を巡り、ようやく手に入れたものだ。レンズ越しに世界を見る時間だけが、彼の呼吸を整えてくれた。


「売るのか? 相談もなしに?」


「趣味は生活必需品じゃないでしょ。贅沢品を優先するのは特権よ。この家から特権を排除する。それが私の決意」


秋子の背中はまっすぐで、揺るぎがなかった。隆史は言葉を失い、廊下の奥のクローゼットへ向かった。膝をつき、奥を探ると、革のバッグが湿気のこもりそうな隅に押し込まれている。指先で触れると、金属の冷たさが伝わった。


「パパ……」


振り向くと、千花が立っていた。パジャマの袖をぎゅっと握りしめ、こちらを見つめている。その瞳には、不安と、父への同情が入り混じっていた。ママの言う「平等」が、何か大切なものを奪ったことを、彼女は理解している。


隆史は一瞬だけ目を閉じた。怒鳴り合えば、何かが壊れる。だが、壊れるのは家そのものかもしれない。彼はライカを強く握った。冷たい感触が、頭の奥をすっと冷やしていく。


いいよ、と彼は心の中でつぶやいた。君が実務をコストだと呼ぶなら、僕はそのコストをすべて引き受けよう。そして完璧に回してみせる。どこにも不備のない家を作り上げてみせる。


「おやすみ、千花。大丈夫だよ。明日から、パパもちゃんとやるから」


できるだけ穏やかな声で言った。千花は小さくうなずいたが、その肩はわずかに震えていた。


リビングに戻ると、秋子は再びスマートフォンに目を落としていた。隆史はカメラのバッグを胸に抱え、静かに寝室へ向かった。その背中はまだ人間のままだったが、何かがゆっくりと固まり始めているのを、彼自身が感じていた。等分という名の線が、床の中央に引かれた。その細い線は、やがて家全体を裂く亀裂へと変わっていくのかもしれなかった。


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