第6話 愛でられ天使は、お腹を空かせて僕を待つ
「……やっぱり、昨日の今日で声をかけるなんて無理だよな」
お昼休みの中庭。
僕は購買で買ったパンを片手に、遠巻きに「それ」を眺めていた。
中庭の中央、大きなハナミズキの木の下。そこには、春の柔らかな日差しを一身に浴びて、まるで一枚の宗教画のように美しい一団がいる。
その中心に座っているのは、もちろん、僕の脳裏を片時も離れない「食いしん坊天使」――森園ななか先輩だった。
校内での先輩は、まさに「みんなのマスコット」だ。
ミステリアスな美貌とすらりとしたスタイル。本来なら高嶺の花すぎて誰も近寄れないはずなのに、そのどこか「放っておけない」独特のオーラが、女子生徒たちの母性本能を激しく刺激しているらしい。
「ほら、ななか。今日のおかず、卵焼き多めに作ってきたから。あーん」
「…………あーん」
……見ている。僕は今、歴史的瞬間を見ている。
先輩の友達らしき女子たちが、まるで雛鳥を育てる親鳥のような手つきで、先輩の口に次々とおかずを運んでいるのだ。
ななか先輩は、されるがままに小さな口を開け、もぐもぐと咀嚼している。
そのたびに、あの、僕が大好きな「ぷっくりほっぺ」が幸せそうに膨らむ。
「ななか、お口の横にマヨネーズついてるよ。もう、可愛いんだから」
「……んぅ……ありがと」
友達にハンカチで口元を拭われ、先輩は心底心地良さそうに目を細めていた。
その姿は、完全に「みんなに愛でられる可愛らしいハムスター」だ。
(……出る幕、ないよな)
僕は一人、ベンチの端っこでメロンパンをかじる。
昨日の夕暮れの縁側。二人きりでお団子を食べて、「伊織くん、天才かも」と笑ってくれたあの時間は、もしかしたら僕の壮大な白昼夢だったんじゃないか。そんな不安がよぎる。
あんなにキラキラした輪の中に、ただの一年生でお人好しなだけの僕が入っていけるはずもない。
僕は溜息をつき、飲み干した牛乳パックを捨てようと立ち上がった。
その時だった。
「……っ」
一団の中心にいたはずのななか先輩が、不自然なほどピクリと背筋を伸ばしたのだ。
長い亜麻色の髪をなびかせ、彼女の鋭い視線が、正確に僕の姿を捉える。
(えっ?)
目が合った。
先輩の瞳が、一瞬だけ期待に満ちたように揺れる。
友達に囁くと、彼女はいそいそとこちらへ歩み寄ってきた。
「……伊織くん」
熱を帯びて潤んだ瞳に見つめられ、鈴を転がしたような声が鼓膜を震わせる。思わず心臓が跳ねた。
「あ、ななか先輩。……お昼休み、賑やかで楽しそうですね」
僕が少し気後れしながら言うと、先輩はどこか申し訳なさそうに、ふにゃりと眉を下げた。
「……みんな、とっても優しくて。一生懸命作ってくれたから、全部美味しくいただいたの。……でも」
先輩は周囲を警戒するようにキョロキョロと見渡すと、僕との距離をグッと詰めた。モデルのような美貌が、僕の視界いっぱいに広がる。
そして、彼女は僕にしか聞こえないような小さな声で、切なげに呟いた。
「……お団子、……ないの?」
「え?」
「……朝から、ずっと考えてた。……昨日のみたらし。……あ、……もう、ない?」
すがるような視線に射抜かれ、僕は心臓が口から飛び出しそうになる。
さっきまで友達にランチを振る舞われていたはずなのに、先輩の「お団子欲」は全く満たされていなかったらしい。
「今日は……その、持ってきてないです。放課後、また工房で作る予定ですけど……」
「…………そっか」
先輩は目に見えてガックリと肩を落とした。
その姿があまりに可哀想で、僕は思わず口を走らせる。
「あ、でも! 放課後、もし時間があれば……また、うちの縁側に寄っていきませんか? 昨日よりもっと美味しいのを準備しておきますから」
「……っ!」
先輩の顔が、一瞬でパァッと明るくなった。
無表情なはずなのに、背景に大輪の花が咲いたのが見える。
「……行く。……絶対。……楽しみ」
先輩はそう言い残すと、満足げに「ぷふっ」と鼻歌でも歌いそうな足取りで、友達の輪へと戻っていった。
遠くで「ななか、今の子だれ?」「ななかが自分から話しかけるなんて珍しい!」と女子たちが騒いでいるのが聞こえる。
僕は、手の中に残った空の牛乳パックを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
どうやら僕は、自分が思っている以上に、この「食いしん坊天使」の胃袋をがっちり掴んでしまったらしい。
(よし……気合入れて作らないとな)
僕の午後からの授業は、どの科目よりも「美味しいお団子のレシピ」で頭がいっぱいになることが確定したのだった。




