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第38話 星空の水羊羹より甘い余韻。……夜風がさらった、一番近くの恋心

 虫の声が、急に遠くなったような気がした。


「……ねえ、伊織」

「ん?」


 ひなたは手元の水羊羹を見つめたまま、夜風に溶けるような、小さな声で口を開いた。


「私ね……やっぱり、伊織の隣がいい」

「……え?」


 予想外の言葉に、僕は思わず目を瞬かせた。

 ひなたは膝の上でお皿をきゅっと握りしめ、ぽつりぽつりと紡ぐように言葉を続ける。


「絵海里ちゃんみたいに、すごいお菓子を作って伊織を驚かせることはできないけど。……でも、伊織のお菓子を一番最初に食べて、一番近くで応援するのは、私がいい」


 それは、ただの幼馴染や相棒としての宣言というよりも。

 もっと切実で、女の子としての柔らかい感情が滲んでいるように聞こえた。


「ひなた……」


 僕が名前を呼ぶと、ひなたはゆっくりと顔を上げた。

 夜空の月明かりに照らされたその頬は、夏の夜の熱のせいだけじゃなく、ほんのりと朱に染まっている。

 普段の勝ち気で騒がしい看板娘からは想像もつかないくらい、無防備で、大人びた表情。


 ドクン、と。僕の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。

 ゴールデンウィークのあの夕暮れに感じた以上の、強烈な鼓動。僕は今、幼馴染のひなたを、はっきりと一人の『女の子』として意識している。

 ひなたの潤んだ瞳が、僕の目を真っ直ぐに捉えた。


「私ね、伊織のことが、す……」


――ブブッ!!

 ひなたの唇がその先の言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間。

 僕のエプロンのポケットで、スマートフォンのバイブレーションが容赦なく、そして空気を切り裂くように盛大に鳴り響いた。


「ひゃっ!?」


 ビクッと肩を跳ねさせたひなたは、魔法が解けたように我に返り、顔をボンッと音を立てんばかりに真っ赤に染め上げた。


「あ、ご、ごめん! ちょっと待って」


 僕も慌ててポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。

 そこに表示されていたのは、この絶妙すぎるタイミングで到着した天使からの、短いメッセージだった。


『……いま、門の前』

「な、ななか先輩だ! もう着いたみたい!」

「っ〜〜〜〜〜! この、バカ伊織!!」


 ひなたは真っ赤な顔のままガタンッと立ち上がり、僕のすねをポカッと軽く蹴り飛ばした。


「いってっ! なんで僕が蹴られるの!?」

「あんたのスマホが空気読まないからでしょ! もう、何でもないっ! 今のは全部忘れて! ほら、早く先輩を中に入れてあげなさいよ!」


 言うなり、ひなたは自分のお皿と僕のお皿をひったくるように回収し、逃げるように台所へと引っ込んでしまった。


「ええっ、ちょ、待ってよひなた……!」


 伸ばしかけた手は空を切り、縁側には僕一人だけが取り残される。

 夏の夜の甘くて少しだけ張り詰めていた空気は、一瞬にしていつものドタバタとした日常に引き戻されていた。


「……心臓、爆発するかと思った」


 僕はバクバクと五月蝿く鳴り続ける胸を押さえながら、小さく息を吐いた。

 彼女が何を言おうとしていたのか、その答えは夜風の向こうに消えてしまったけれど。

 僕の隣には、やっぱりあいつがいてくれなきゃ困る。

 その想いだけは、僕の中でもはっきりと確信に変わっていた。


「……お待たせしました、先輩!」


 僕はパンッと両手で頬を叩いて気合いを入れ直すと、大切な先輩の(もと)へ走り出した。


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