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第32話 天才パティシエにはなれない私へ。不器用な幼馴染がくれた、涙が出るほど優しい答え(ひなた視点)

 熱のせいで重だるい体をベッドに沈めながら、私は昨日の自分の振る舞いを激しく後悔していた。

 絵海里ちゃんからの手紙を見て、勝手に劣等感をこじらせて、何も知らない伊織に八つ当たりして、雨の中を逃げ出してしまった。

 看板娘として、伊織の幼馴染として、一番やっちゃいけないことだった。最低だ、私。


「……伊織、怒ってるかなぁ」


 熱でぼんやりとする頭の中は、ネガティブな思考ばかりがぐるぐると回っている。

 私がこんな風にうずくまっている間にも、絵海里ちゃんはフランスで完璧なお菓子を作っているんだろう。彼女が帰ってきたら、伊織はまたあのキラキラした職人の世界に没頭して、私のことなんて見えなくなってしまうんじゃないか。


 コンコン。

 ふいに部屋のドアがノックされ、ビクッと肩が跳ねた。


「ひなた、起きてるか? 僕だけど……入るぞ」


 ゆっくりと開いたドアの向こうには、お盆を持った伊織が立っていた。

 いつもより少しだけ遠慮がちで、どこか申し訳なさそうな顔をしている。


「……伊織。お店の手伝いは?」

「今日はもう終わったよ。それより、熱はどうだ? ほら、これ……お見舞い」


 伊織がサイドテーブルにそっと置いたのは、綺麗な黄金色をした『(あんず)のくず湯』だった。

 湯気とともに、ふわりと爽やかな甘酸っぱい香りが漂ってくる。


「……私が作ったお粥より、よっぽど美味しそうね」

「少しは食べられそうか? 熱がある時は、酸味があった方がさっぱりするだろ。はい、スプーン」


 差し出された木のスプーンを受け取り、私はゆっくりとくず湯をすくって口に運んだ。

 ――瞬間、とろりとした優しい甘さと、杏の爽やかな酸味がじんわりと広がっていく。


「……美味しい」


 ダマ一つない、完璧で繊細な口当たり。冷え切って強張っていた私の心と体が、嘘みたいに内側から温められていくのが分かった。

 私が小さく呟くと、伊織は心底ホッとしたように「よかった」と目尻を下げた。


「あのさ、ひなた」


 伊織は、ベッドの脇に置いたクッションに腰を預けると、ふと真剣な顔つきになった。


「絵海里が日本にいた、小学生の頃のことなんだけど」

「っ……」


 その名前が出た瞬間、私はビクッと身を固くした。

 また、二人のキラキラした思い出話を聞かされるの? 私が入れない、お菓子作りの天才たちの話を?


 思わず俯いてしまった私に、伊織の優しくて、真っ直ぐな声が降り注いだ。


「あの頃、僕と絵海里がお菓子作りに夢中になってる間……散らかったボウルを黙って片付けてくれてたのは、ひなただったんだよな」

「……え?」

「僕が話に夢中になって、鍋を焦がしそうになった時も、慌てて火を止めてくれただろ。それに……僕の作った和菓子を一番最初に食べて、『美味しい』って最高にいい笑顔で言ってくれたのも、ひなただ」


 驚いて顔を上げると、伊織は真っ直ぐに私の目を見ていた。


「絵海里みたいな天才パティシエには、僕を刺激することはできても、僕を『和菓子職人』にしてくれることはできない。……僕が誰かを笑顔にするためにお菓子を作れるのは、ひなたがずっと隣で、僕を支え続けてくれたからなんだ」

「伊織……」

「僕のお菓子は、ひなたが隣にいてくれないと完成しないんだよ。だから……いつも支えてくれて、本当にありがとう。昨日、嫌な思いさせてごめんな」


 ドクン、と。胸の奥で、大きな音がした。

 私は、天才パティシエにはなれない。伊織と対等にお菓子を語り合うこともできない。ただ「美味しい」って食べることしかできない、不器用な看板娘だ。


 だけど、私の居場所は、ちゃんと伊織の隣に用意されていたんだ。

 「作る側」になれなくても、私が伊織の和菓子を完成させる、たった一つのピースだったんだ。

 その事実があまりにも嬉しくて、温かくて。


「……っ、……ばかぁ」


 気づけば、私の目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 一度堰を切った感情はもう止まらなくて、私はスプーンを握りしめたまま、ボロボロと泣きじゃくった。


「えっ!? ちょっ、ひなた!? なんで泣くんだよ!」

「うぅ……だって、伊織が……っ」

「嘘、もしかしてダマになってた!? それとも杏が酸っぱすぎた!? やばい、熱が上がって頭痛いのか!?」


 私が突然泣き出したせいで、伊織はさっきまでの真剣な顔から一転、両手をバタバタと振って激しくオロオロし始めた。

 そのあまりにも伊織らしい間抜けな慌てぶりに、私は涙をこぼしながら、思わず吹き出してしまう。


「ふふっ……ちがう、伊織のバカぁ……っ。鈍感、お人好し、お菓子バカ……っ!」

「ひどい言われようだ!? 心配して損した!」

「……くず湯、すごく美味しい。ありがとう、伊織」


 私が泣き笑いしながらそう言うと、伊織はぽかんとした後、照れくさそうに頭を掻いて「どういたしまして」と笑った。


 窓の外では、まだ梅雨の雨がシトシトと降り続いている。

 でも、私の心の中にあった暗くて冷たい雨雲は、この甘くて温かいくず湯と一緒に、綺麗に溶け去っていた。


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