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第31話 ……今日、お邪魔してもいい? 失敗作のくず湯と、過去の記憶が繋がる瞬間

 失敗したくず湯の入った鍋を前に、一つ大きなため息をついた時だった。

 エプロンのポケットに入れていたスマホが、ブブッと短く震えた。

 画面を見ると、ななか先輩からのメッセージだった。


『……今日……お邪魔してもいい?』


 いつもなら「ひなた! 先輩来るって!」と隣の家に大声で知らせるところだけど、今日はそれができない。


『すみません、今日はひなたが風邪で休みで。おもてなしできないかもですが、それでもよければ』


 そう返信すると、ほんの数分後には「……おじゃまします」と、縁側からひょっこりと亜麻色の頭が顔を出した。


「いらっしゃいませ、先輩」

「……伊織くん、元気ない」


 縁側にちょこんと座った先輩は、僕の顔を見るなり、小動物のように首を傾げた。

 いつもなら、ひなたがやかましくお茶の準備を始めるのに、今日は静まり返っている。その違和感は、先輩にもすぐに伝わったらしい。


「実は……昨日、僕のせいでひなたを雨の中で走らせちゃって。それで熱を出したんです」

「……ひなたちゃん、お熱」

「ええ。それで、お見舞いに杏のくず湯を作ろうとしたんですけど……なんだか全く集中できなくて。僕、ひなたが風邪で苦しんでるのに、気の利いたお見舞い一つまともに作れなくて……本当に情けないです」


 ポツリポツリと、心の奥に溜まっていた泥を吐き出すように、僕は先輩に打ち明けた。

 ひなたに、あんな泣きそうな顔をさせてしまった理由もわからない。ただ、どうしようもない焦燥感と自分の不甲斐なさだけが胸の中で渦巻いている。

 先輩は静かに僕の話を聞いた後、作業台の上に置かれていた失敗作のくず湯の小鉢を指差した。


「……それ、食べていい?」

「えっ、でもそれ、失敗作ですよ? 美味しくないし……」

「……食べる」


 有無を言わさない強い眼差しに押され、僕は小鉢を渡した。

 先輩は木のスプーンで白く濁ったくず湯をすくい、パクリと口に含む。

 ……いつもの、あの幸せそうな「ぷっくり」は現れなかった。


「……いつもの、伊織くんの味じゃない」


 先輩は少しだけ寂しそうに目を伏せ、そして、真っ直ぐに僕の目を見つめ返した。


「……伊織くんの和菓子はね。ひなたちゃんがいないと、完成しないよ」

「え……?」


 ふんわりとしているけれど、決して揺らがない、核心を突く言葉。

 その瞬間、僕の脳裏に、すっかり忘れていた小学生の頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 絵海里が日本にいた頃。

 僕と絵海里は、縁側でよく高度なお菓子談義で盛り上がっていた。和三盆の口溶け、柚子の香りの移し方。技術を高め合い、新しい味のアイデアに夢中になっていたあの時間は、確かにキラキラと輝いていた。

 その間、ひなたはずっと僕たちの隣に座って、ただ黙って笑っていた。お菓子作りに詳しくない彼女は、僕たちの楽しそうなやり取りを、温かく見守ってくれていたのだ。


 でも――僕が絵海里と熱中している間、一体誰が、散らかった作業台の上のボウルを片付けてくれていたんだっけ?

 僕が話に夢中になって火にかけた鍋を忘れそうになった時、誰が慌てて火を止めてくれたんだっけ?


『美味しいね、伊織!』


 一番最初に僕の和菓子を食べて、一番無邪気に、一番美味しそうに笑ってくれたのは。

 僕に「誰かを笑顔にする喜び」を教えてくれたのは、他でもない、ひなただったじゃないか。


(そうか……)


 雷に打たれたように、ストンと腑に落ちた。

 絵海里が、技術と感性を刺激し合う『クリエイターとしての同志』だとしたら。

 ひなたは、僕のお菓子に日常の温かさを吹き込み、僕が僕らしくお菓子を作れるように、根底からずっと支え続けてくれていた『不可欠な相棒』だったのだ。


 僕は一人で和菓子を作っていたんじゃない。

 ひなたが当たり前のように作ってくれていた居心地の良い空間と、あの「美味しい」という笑顔があって初めて、僕のお菓子は完成していたんだ。


「……先輩。僕、とんでもない勘違いをしてました」

「……ん?」

「僕が職人でいられるのは、隣にひなたがいてくれるからだ。……ありがとうございます、先輩。なんだか、目が覚めました」


 僕が深く頭を下げると、先輩はふわりと嬉しそうに微笑み、空っぽになった小鉢を差し出した。


「……ひなたちゃんに、最高のくず湯、作ってあげて。……ついでに、私のお団子も」

「あはは、もちろんです!」


 胸の中にあった重たい泥は、すっかり消え去っていた。

 もう迷いはない。僕は大切な相棒を助けるため、最高の「優しい味」を作るべく、再び小鍋の前に立った。


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