第29話 シャッターの前の雨宿りと、雨音に消えた静かな絶望
六月に入り、空はすっかり梅雨の重たい雲に覆われる日が多くなっていた。
放課後、商店街の組合の寄り合いに書類を届けるというおつかいを頼まれた僕とひなたは、二人並んで家路についていた。
「……あ、降ってきた」
ポツン、と鼻先に冷たい水滴が当たったかと思うと、空はあっという間にバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨を降らせ始めた。
「うわっ、ひなた、走ろう!」
「きゃっ……! ちょっと伊織、待ってよ!」
傘なんて持っていなかった僕たちは、頭を鞄で庇いながら、一番近くにあった建物の軒下へと咄嗟に駆け込んだ。
「はぁ、はぁ……すごい通り雨だな。濡れなかったか、ひなた」
「……うん。なんとか」
服の裾をパタパタと払うひなたの声は、雨音にかき消されそうなくらい小さかった。
ふと見上げると、僕たちが雨宿りに選んだ場所の頭上には、色褪せたオーニングテントと『パティスリー・タカナシ』という古い看板が掲げられていた。
「あ……。ここ、絵海里んちのお店だ」
降りたままのシャッター。すっかり見慣れてしまったその景色が、今日はなぜか少し違って見えた。
そういえば、と先日届いたエアメールのことを思い出す。
「奇遇だな。実はさ、この間絵海里からエアメールが届いたんだ。あいつ、もうすぐ日本に帰ってくるんだってさ」
「……え?」
「向こうでパティシエの修行、すごく頑張ってたみたいなんだ。フランスでどんな洋菓子作ってるのかな。僕も和菓子の新作作って、あいつを驚かせてやらないとな」
かつての幼馴染であり、お菓子作りの同志。彼女の帰還を想像すると、自然と職人としての血が騒いだ。
僕はワクワクしながら、隣に立つひなたを振り返った。
いつもなら、ここで「あんたは本当にお菓子バカね!」と呆れ顔でツッコミが飛んでくるか、すねを軽く蹴り飛ばされるところだ。
けれど。
「……そうだね」
返ってきたのは、拍子抜けするほど静かで、力のない声だった。
ひなたはシャッターを見つめたまま、微かに震える唇で、寂しそうに微笑んでいた。
「きっと、絵海里ちゃんなら……すごいお菓子、作るんだろうね」
(……え?)
胸の奥が、ざわっとした。
いつもの気の強い『看板娘』の面影はどこにもない。どこか遠くの世界を見つめるような、諦めきったようなその表情。
ゴールデンウィークのあの夕暮れ、僕の心臓をひどく跳ねさせた無防備な笑顔とも違う。
それは、純粋な絶望に近い、痛々しいほどの弱さだった。
「ひなた……? どうしたんだよ、なんか元気ないぞ。雨に濡れて寒かったか? ほら、僕の上着……」
僕が慌てて上着を脱ごうとした、その時だった。
「……ごめん。私、帰るね」
ひなたは、ふらりと軒下から冷たい雨の中へと足を踏み出した。
「おい、待てって! まだ土砂降りだぞ!? 濡れるから……!」
「いいの。……ほっといて」
振り返ることなく、ひなたは雨の中を駆け出していった。
いつもなら、僕の世話を焼いて絶対に一人で帰ったりしないはずの幼馴染が、僕を置いて、雨の向こう側へと消えていく。
「ひなた……っ!」
伸ばしかけた手は、虚しく宙を掻いた。
どうしてあんな泣きそうな顔をしていたのか。僕が何を間違えたのか、いくら考えても全く分からない。
ただ、あんなに小さく見えたひなたの背中がどうしても脳裏から離れず、胸にぽっかりと穴が空いたような強烈な焦燥感だけが残されていた。
僕は一人、激しい雨音の中、シャッターの前で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




