第28話 バターとバニラの甘い匂いは、私だけをいつも仲間外れにする(ひなた視点)
「もう、伊織のバカ。またボウル出しっぱなしにして……」
放課後。伊織が店の手伝いに出ている隙に、私はいつものように甘野家の台所――あいつの『秘密の工房』に上がり込んでいた。
幼馴染として、このだらしない和菓子バカの片付けをするのは、私の立派な日課の一つだ。
文句を言いながらふきんで作業台を拭いていた私の手は、隅に無造作に置かれていた一つの封筒の前で、ピタリと止まった。
青、白、赤。
見慣れないトリコロールの縁取りがされた、少し厚手の封筒。
そこに書かれた流麗なアルファベットの宛名『Emiri Takanashi』を見た瞬間、心臓がヒュッと冷たい音を立てた。
雑に開けられたらしいその封筒からは、厚手の便箋が半分顔を覗かせている。
見てはいけない。そう頭では分かっているのに。そこから微かに漂うバターとバニラの甘い匂いに誘われるように、私の目は、丸みを帯びた文字の羅列を追ってしまっていた。
『私、もうすぐ日本に帰るね』
「……絵海里ちゃん、帰ってくるんだ」
ポツリとこぼした私の声は、誰に聞かれることもなく、静まり返った工房に吸い込まれていった。
手紙の文字と、懐かしい甘い香りが、心の奥底に鍵をかけてしまっておいた『あの頃』の記憶を、容赦なく引きずり出していく。
あれは、私たちがまだ小学生だった頃の夏。
伊織と私、そして洋菓子屋の娘だった絵海里ちゃんの三人は、よく甘野庵の縁側に並んで座っていた。
『うーん……やっぱり、あんこの滑らかさが足りないな。舌触りがちょっと重いっていうか』
『それならさ、お砂糖を和三盆に変えてみたらどうかな? 口溶けが雪みたいにスッて消えると思うの』
伊織が作った新作の練り切りを一口食べた絵海里ちゃんは、お人形みたいにフワフワしたいつもの笑顔のまま、瞳だけを真剣な職人のそれに変えて言った。
『なるほど! 和三盆か……それなら、洋菓子のメレンゲみたいに、もっと空気を含ませる感じで練り上げれば……』
『うんうん! それに、ほんの少しだけ柚子の香りを移せば、和と洋のいいとこ取りができるかも! 私のケーキの新作にも、そのアイデア使ってみていい?』
二人の間で、ポンポンと魔法の呪文のような言葉が飛び交う。
「和と洋の融合」「風味の引き立て方」「素材への誠実さ」。
私はただ、手の中の半分食べかけの練り切りを見つめたまま、愛想笑いを浮かべて頷くことしかできなかった。
『美味しいね、伊織!』
私が言えるのは、いつだってそれだけだった。
伊織も、絵海里ちゃんも、根っからの『お人好し』だ。私を仲間外れにしようとか、見下そうなんていう悪意は、一ミリだって持っていない。
ただ純粋に、お菓子作りに夢中になっているだけ。
でも、だからこそ残酷だった。
二人の周りだけ、私には決して立ち入れない、キラキラと輝く『職人』としての時間が流れている。
「美味しい」と食べる側でしかない私は、ただの観客。二人が作り出す完璧な世界の中で、私だけがポツンと取り残されているような、強烈な疎外感。
(……伊織も絵海里ちゃんも、私がどんな気持ちで隣で笑ってたか、全然気づいてなかったくせに)
チクリと胸が痛んで、私は現実に引き戻された。
ななか先輩がうちの縁側に来るようになった時、私は焦ったし、嫉妬もした。
でも、あの先輩はあくまで『食べる側』だ。胃袋を掴まれている以上、和菓子を作る伊織と、それをサポートする私の間に割って入ることはできないって、心のどこかで安心していたんだと思う。
だけど、絵海里ちゃんは違う。
彼女は、伊織と同じステージに立てる女の子だ。
私には理解できない言葉で伊織と語り合い、高め合い、そして誰よりも伊織の『職人としての顔』を引き出すことができる。
「……また、私が入れない世界に、伊織を連れていっちゃうの?」
気づけば私は、自分のエプロンの裾を、両手でギュッと痛いほど握りしめていた。
五月の蒸し暑い風が窓から吹き込んできたけれど、私の指先は、ひどく冷たかった。




