第27話 一通のエアメール、そしてフランスからの香風
ななか先輩との縁側での時間が、僕にとってかけがえのない日常になりつつあった五月の午後。
学校から帰り、いつものように郵便受けを覗いた僕は、そこに混じっていた一通の封筒に目を留めた。
青、白、赤。
縁取りに鮮やかなトリコロールがあしらわれたその封筒は、どこか遠い異国の熱を帯びて僕の手の中に収まった。
「……エアメール?」
差出人の欄には、懐かしくてたまらない、けれど随分と久しぶりに目にする名前。
『Emiri Takanashi』。
その瞬間、鼻先をくすぐったのは、柔らかなバターとバニラの甘い香りだった。
スマホで一瞬にして言葉が届くこの時代に、彼女はわざわざ重みのある紙を選び、自分の手の温度と香りを乗せて、数日かけて海を越える「手紙」を僕に送ってきた。
(理屈じゃなくて、届いた瞬間のトキメキを大事にする――いかにも、絵海里らしいな)
僕と同じでお人好し。
お人形のようにフワフワとしていて、陽だまりのような優しさを持つ彼女だったけれど、お菓子のことになると、その瞳には職人としての純粋で誠実な光が宿る。
ふと、まだ商店街の角で『パティスリー・タカナシ』の看板が輝いていた頃の記憶が蘇った。
あれは僕たちがまだ小学生だった、よく晴れた夏の日。
近所に住む小さな女の子が、買ったばかりのアイスクリームを地面に落として泣きじゃくっていた。
お節介な僕は慌てて店のあんぱんを差し出そうとしたけれど、横にいた絵海里は僕の腕をそっと掴んで制したんだ。
「ダメだよ、伊織。あの子、今は『冷たくてキラキラしたもの』で笑顔になりたいはずだよ」
彼女は泣きじゃくる女の子の目線に合わせてしゃがみ込むと、優しくその手を握った。
「……ちょっとだけ待っててね。すぐに、もっと素敵なものを持ってくるから」
そう言って絵海里は、自宅の厨房へ駆け込んでいった。
並んでいる売り物のケーキを出すことだってできたはずなのに、彼女はそれを選ばなかった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さなカップ。そこには、急いで泡立てた真っ白なムースと、宝石のように散らされた摘みたてのベリーが、雪解けのような美しさで輝いていた。
「待たせちゃってごめんね」とフワフワ笑いながら差し出す彼女の額には、じんわりと汗が滲んでいて、そのお菓子作りへのひたむきな姿勢に、僕は子供ながらに圧倒されたのを覚えている。
『伊織のあんこは、お日様みたいに温かいね。でも、私のケーキは、食べた人を夢の世界へ連れて行くんだから!』
そう言って、お互いの試作品を分け合い、真剣に感想をぶつけ合っていたあの日々。
僕は震える手で封を切り、中の厚手の便箋を取り出した。
『親愛なる伊織へ。
パリの初夏は、焼きたてのブリオッシュみたいに香ばしい光を放っています。
伊織の作る和菓子の匂い、フランスの空まで届きそうだったよ。
あの日、二人で約束したこと、覚えてる?
「誰かを笑顔にするための一皿を、いつか一緒に」
私、もうすぐ日本に帰るね。
フランスでたくさんの技術と、美しい宝石みたいなケーキの作り方を学びました。
でもね、最近ふと、伊織の作ってくれたお日様みたいなあんこが無性に恋しくなる時があるの。
私が今作っているお菓子で、伊織を心から笑顔にできるかな。
私の感性が本当に探しているものを……伊織のそばで、もう一度確かめに行かせてね』
文字は優しく、どこか丸みを帯びている。
けれど、その行間からは、お菓子作りに対して一切の妥協を許さない彼女の、誠実で真っ直ぐな情熱が伝わってきた。
「……帰ってくるのか、絵海里」
僕は手紙を胸に当て、今はシャッターが降りたままの空き店舗『パティスリー・タカナシ』を思い浮かべた。
和菓子への「憧れ」を体現するななか先輩。
和菓子を「日常」として支えてくれるひなた。
そして、和菓子の「最高のライバル」として、感性の火花を散らすことになる絵海里。
初夏の風が、昨日よりも少しだけ、甘く複雑な香りを運んできた気がした。




