なあ人間たちよ、ない罪を罰する者は罰せられるべきだと思わないかい
わたしはスーパーの惣菜づくりのパートながら、もう勤続十年のベテランで、チーフより仕事ができるし、頼れるリーダー格だ。
ちょっとやそっとのトラブルでは動揺しないものを、このごろ些細ながら、困ったことが。
惣菜の調理場、洗い場の蛇口は二股になっている。
もともとある蛇口スパウトと、ホースを装着できるものだ。
レバーの上げ下げで切り替えをでき、日中はほとんど触らず、夜に床の清掃をするときに上げ下げを。
床の清掃は専門の人がいて、わたしたちが退勤したあと調理場に踏みこむのだが、その彼が困ったことに、清掃を終えてからレバーを元にもどさないのだ。
すると、どうなるのか。
ホース用のは上を向いているし、その蛇口の水がでる勢いはすごいので、わたしたちはびしょ濡れになってしまう。
「栓を回す前にレバーを確認すればいいだけの話だろ」と思われるだろうものを、朝の仕事は時間に追われる忙しいものとあって、出勤してすぐに濡れ鼠になる被害者が続出。
もちろん店長には、清掃の人に注意してもらうよう頼んでいる。
にも関わらず、頑なにレバーを元にもどさないでいるのが憎たらしい。
「いやー、何回も指摘しているんだけどねー」と眉を八の字にして、同じことしか口にしない店長もむかつく。
人の顔色ばかり窺って、はっきりとした意思表明や果断な決断をしない、いつも弱腰な店長は、わたしのようなベテランパートに舐められがち。
とあって、清掃の若い男にも足元を見られて、生返事をして従わないのにお手上げなのだろう。
「ほんと、店長のくせに、これだから使えない男は!」と内心、悪態をつきつつ、店長を仲介させては埒がないと思い、直接、わたしが抗議することに。
退勤してから休憩所で時間を潰し、清掃の子がくるころに調理場に顔をだした。
例の蛇口にホースをつけているところだったから、挨拶もそこそこ「ねえ!ちょっと、あなた、どういうこと!?」と詰め寄る。
「店長に何回もいわれているでしょ!レバーは元にもどしておいてって!
元にもどしてくれないと、わたしたち朝から仕事する人たちは濡れちゃうのよ!そうなるって想像力が働かないわけ!?
それとも仕事に不満があって、こんなみみっちい八つ当たりしてるの!?どうせ、おばさんが濡れるだけだからいいだろって、笑っているわけ!?
ああ、それとも親に一回も怒られたことがないのかしら!
今時の親はきらわれたくないとか、無責任でくだらない理由で、ひたすら甘やかして、おかげで冗長した子供が、すぐに傷ついて被害者面して責任転嫁して逆恨みして発狂して、手に負えないらしいしね!
なににしろ、パートだろうとなんだろうと、注意されたことは一回か二回で直しなさいよ!
大したことではないかもしれないけど、いや、大したことでないからこそ、頑固に直さない非生産的なことして、なにがたのしいのよ!」
わたしに正論をふりかざされて、若い男はたじたじ。
ではなく、狐のような食えない顔をして、無表情のまま「俺、レバー元にもどしてますけど。なんなら最後に確認しますけど」と息をするように嘘を。
ここ一ヶ月、毎日、レバーを元にもどさないでおいて、なんと厚顔無恥な。
激怒しかけて「もしかして、知能や精神に問題が?」と思い至り「ごめんなさい・・あなた、ふつうじゃないのね・・」と一転、猫なで声ですり寄る。
「人にいわれたことを正確に理解できないか、注意されても、一時間後には忘れてしまうような、ふつうの人とはちがう脳や心のつくりをしているのでしょ?
自覚がないから、わたしにまっとうな指摘をされても、自分がわるいとは思えない・・・。
かわいそうに、今までだれも気づいてあげられなかったの?
残酷だけど教えてあげるわ、あなたは脳か心に欠陥があって、ふつうの人のように働けない。
こんな、床を掃除するだけの、だれでもできそうな単純作業も、あなたには重荷だし、悪気なくまわりに迷惑をかけてしまうのよ。
これ以上、まわりを困らせないためにも病院に行ったり、施設にお世話になって、ふつうでない人間として生きる道を模索しなさい、この仕事は辞めて、ね?
だいじょうぶよ、すぐに辞めても、人手不足の穴埋めは店長自らするから」
「店長にいいづらかったら、わたしが代わりに報告してあげようか?」と人がせっかく親切心から申しでたというのに、腕を触ろうとしたら邪険に振りはらわれた。
かっと頭に血をのぼらせるも「まったく・・・人間とは不可解なものよ」と冷ややかに見おろされ、若造らしからぬ、いや、人間らしからぬ厳かな威圧感を覚え、身をすくめて息をつまらせる。
「真面目に働いている者に、ない罪を問うて罰しようとするとは、そなたこそ迷惑千万ではないか。
しかも無自覚というから、呆れるのを通り越し、おぞましいほどよ・・・」
「ない罪を問うて罰する」とどこまでも、おこがましく偉そうに語るのに苛だつも、恐怖のあまり、全身が痺れているように動けず。
首を絞められているかのように喉をひきつらせて、かろうじて呼吸しているわたしに、額と額がくっつかんばかりに接近し「わたしに噛みついたのが運のつきだな」と細めた瞼から、底なし沼のような黒々と濁った瞳を覗かせた。
「この世では、ない罪を罰した者は報いを受けないようだが、わたしの世の理では、そうはいかぬ。
わたしだけでなく、ほかの者を我欲で不当に貶めた罰を、正当に受けるがよい」
獣の牙のような犬歯を覗かせて笑ったなら、あっさり身を引いて、なにごともなかったように床の清掃を再開。
説教しにきたはずが逆に説教されるような形になり、屈辱でたまらず「社会不適合者の負け犬が!いくら遠吠えしたって、痛くも痒くもないんだよ!」と激昂して、でも、再び向きあうのは御免で調理場からそそくさと退散。
決着をつけられなかったのが悔しく、怒りを燃えたぎらせたまま、夜は一睡もできず。
翌朝、調理場にいくと、やっぱりレバーは元にもどっていなかった。
寝不足もあって怒る元気もなく、ため息をつき、レバーに手をかけようとして止める。
「栓をめいいっぱい回して、すさまじい水圧の噴射をまともに浴びてやろうか」と。
弾丸のように噴きだしのを胸に受けて転倒して床に頭を打ち、怪我をすれば、ナメクジのような軟弱店長も、あの現代の失敗作のような若造を辞めさせるのではないか。
ほくそ笑んだわたしは、手に力をこめ、思いっきり栓を回して、そして・・・。
休日明けの出勤、同僚の青果のチーフが「ねえねえ!昨日、たいへんなことがあったのよ!」と抱きつく勢いで話しかけてきた。
わたしは仕事とプライベートを完全に分けるタイプで、休みの間、職場の人と一切、連絡をとらず。
だから「たいへんなこと?」とあまり深刻にとらえなかったのが「惣菜のパート、あの問題児の榊原さんが硫酸を浴びたのよ!」と信じられないような発言。
「ほら、惣菜の洗い場のレバー、前から問題になっていて榊原さんぎゃあぎゃあ騒いでいたじゃない?
店長が掃除の子に何回も何回も注意しても直らなくて、それで怒りが限界にきたのかな?
勢いよく栓を開けて、わざと水をかぶろうとしたようだけど、なんと噴きだしたのは硫酸!
榊原さんは命が助かったものの、顔から胸にかけて溶けたようになったとか・・・。
で、今は惣菜の調理場が閉鎖になってて、明日から調査されるようだよ。
つってもさあ、どういう仕掛けで硫酸がでるようになるのかさっぱり分からないし、現実的には不可能に思えるじゃない?」
「だから、悪行をしただけしっぺ返しを食らったんじゃないかって、いわれているの!」と人の不幸を、包み隠さず嬉々として語るのに、すこし怯みながらも「悪行?」と気になる。
「もー!ほんと、あんたは噂に疎いんだから!」となぜか叱りつつも「榊原さんと店長は不倫してたんだよ!」と寝耳に水だらけの情報を教えてくれた。
「ただ、店長の奥さんが身ごもってから捨てられたらしいの。
それから榊原さんのいやがらせがはじまった。
ほら、うちの店、万年人手不足で、どうしても穴埋めできないところをお人好しの店長が肩代わりしているじゃない。
もちろんそのことを知っている榊原さんは、嘘のいちゃもんをつけて人を辞めさせて、店長を穴埋め動員として忙殺させていたって、これが噂よ。
理由は単純かつ残酷なもので、生まれたばかりの子供に会わせないため。
ふつうさー、職場不倫していた挙げ句、捨てられたら、気まずくなって辞めるものだけど、ほんと見あげた根性だよねー。
でさ、今回のことも自作自演じゃないかっていわれているのよ。
掃除の人がレバーを元にもどして帰ったあと、深夜にスーパーに忍びこんで工作していたとね。
なにせ不倫していたころ、店長に店のセキュリティーキーをもらって、今も持っているらしいから、工作が可能ってことで自作自演説はけっこう憶測でもなくて・・・」
不倫も初耳だっただけに、すぐに飲みこめず、衝撃を受けたのを引きずり、退勤するまでぼうっとしていた。
頭の整理がついてきたところで、理解しがたい話だ。
何回か、榊原さんが店長に文句をつけているのを見かけたが「レバーを元にもどしてくれないから今日も濡れたじゃない!朝からいやになる!」と被害を訴えるさまは真に迫っていて、とても演技には思えなかったもので。
自分が工作したことを忘れられるくらい、都合よく記憶をねじ曲げられるものなのか。
「わたしも同じようなことをしてること、あるのかな?」と心配になりつつ、更衣室に向かおうとして、例の清掃の男とすれちがった。
結局、榊原さんの工作は失敗して、自分が退場することになり、彼は屁でもないように出勤。
開始時間の十分前に出勤していることや「おつかれさまです」とかるく頭をさげるのを見るに、榊原さんが「今時の若者は!」と吠えるような非常識人とは思えない。
ただ「おつかれさまです」と返して、目を合わせたとき、にわかに裁判所の証言台に立たされたような感覚、判事に冷徹に見極められているような錯覚が。
一瞬のこととはいえ、思わず背筋を伸ばしたほど、体に緊張が走って冷や汗がどっと噴きだした。
息を飲んで突っ立つわたしを尻目に、涼しい顔をしたまま、清掃用のカートを押して去っていく狐顔の彼。
振りかえりたいのを堪えて「彼女のように筋の通らないことはしないでおこう」と身を引きしめ、あらためて職場へと向かったのだった。




