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37 最後の思い出、永遠の誓い

 豊穣祭の喧騒に包まれた街。色鮮やかな屋台の布、漂う香ばしい匂い、子どもたちの笑い声。

 時々「イレーネ様!」「大聖女様!」と声をかけられて、イレーネは微笑んで手を振り返す。

 その横でユリウスが、当たり前のように彼女の手を引いて歩いていた。


 ――今日だけは。

 そう胸の奥で何度も繰り返す。

 今日だけは、許されるかしら。最後の思い出にしてしまおう。


 ユリウスの黒い瞳がこちらを見て微笑むたび、胸が切なく軋む。


◇◇◇


 蜜がけの果物の屋台で、ユリウスは甘い香りのする一皿を買い、その一粒をイレーネの唇にそっと当てる。

 抵抗せず口に含めば、果実の甘さと彼の優しさに頬が熱を帯びる。


「甘くて美味しいです」

「食べてしまいたいくらいだ」

「ユリウス様もどうぞ召し上がって」

 イレーネが一粒掴めば、彼がパクッと咥える。少しだけ唇が指に触れて、恥ずかしくてその指を隠した。

「ははっ。美味しい」


 無邪気に笑う横顔に、胸が焼けるように熱くなる。――今日だけは、目を逸らさない。この笑顔を胸に焼き付けるのだ。


 

◇◇◇


 陽気な音楽が流れてくる。広場では人々が踊りの輪を作っていた。


「行こう」

「え!」

 強く手を引かれてイレーネも輪に入る。「大聖女様が踊ってらっしゃる!」と誰かが声をあげれば、続々と人が集まり、音楽に合わせた手拍子が大きくなった。


 ユリウスの腕に支えられ、彼の肩に手を添える。足をもつれさせそうになりながらも、二人は笑い合った。


「ははっ! これは思ったより難しいね!」

「あはは! 本当だわ」


 人々の喝采に包まれ、イレーネは生まれて初めて“ただの娘”として笑っていた。


◇◇◇


 広場の片隅。灯りがともり、夜が近づいていく。

 ユリウスが立ち止まり、イレーネを石段に座らせた。自らも腰を下ろし、両手を取る。


「今日は、とても楽しかったです」

「はい、私も」


 黒い瞳が揺れる。肩に落ちている彼の黒髪が灯りを受けて艶めき、左耳のピアスが瞬いた。


「貴女とずっと、こうしていたい」

 柔らかい、掠れた声。

 まるで宝物のように、優しく指を撫でられる。

 イレーネは静かに首を横に振った。


「今日だけです。今日で、最後」


 ぽつりとこぼした言葉が夜の風に消えていく。


「僕は、貴女と生きていきたい」

「いいえ……。それは許されないのです」


 ユリウスの大きな手がイレーネの頬に添えられる。指輪がひやりと当たり、胸がぎゅっと締め付けられた。――抗いたいのに、その冷たささえ愛おしく思ってしまう。たまらず、その手にイレーネは自分の手を重ねていた。


「僕は、貴女に惹かれている。どうしようもないくらいに」

 切なげに揺れる黒い瞳に、言葉を返そうとして口を開くが、何も言えずにまた閉じる。

「僕は、もう、貴女なしの人生なんて考えられない。そんな愚かな僕を一人にするというのか」

 目を伏せる。彼の手に重ねたイレーネの手は小さく震えた。

「ごめんなさい……」

「違う! そんなことが言わせたいわけじゃなくて……」


 ユリウスの手に力が入り、不意に、彼の唇が重なった。


「愛している。貴女を娶りたい。貴女だけが欲しい」

 畳み掛けられる言葉に、イレーネは首を振る。

「今日だけの夢なのです」

 

 ユリウスは強くイレーネを抱き締めた。

「大切にしたいのに……頑なな貴女を、めちゃくちゃにしてしまいたい」


 顔を押し付けられる胸から聞こえる鼓動。震える声。

 イレーネはそっとその背に手を回し、ずっと触れたかった温もりを確かめた。


 そして彼に顎を上げさせられ、再び深い口づけを交わす。

 触れるたびに、胸の奥が熱く軋む。

 ――このまま時が止まればいい。けれど、それは決して叶わない。


 彼の腕の温もりの中で、イレーネはただひとつ願った。

 せめて今日だけは、この夢から醒めませんように。

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