35 祭りの影
教会は慌ただしくも、どこか浮き立つ熱気に包まれていた。
豊穣祭の準備に、聖職者も奉仕者も総出で駆り出されている。
作業場の一角では、イレーネが花飾りを整えていた。
「エリナ、もう少し赤を混ぜてみましょうか」
「はいっ!」
エリナは嬉しそうに返事をし、籠から新しい花を取り出す。
「まあ、綺麗にできていますわ」
ソフィアも横から覗き込み、微笑んだ。
その柔らかな光景に、イレーネは自然と笑みを零す。
――こんなひとときが、ずっと続けばいい。
胸の奥でふっと過ぎる淡い願いを、イレーネはそっと胸の奥に押し込めた。
◇◇◇
大きな門の前では、司祭や助祭たちも普段の厳かな姿を忘れ、額に汗を浮かべて作業に勤しんでいた。
「そっち、もう少し上げろ!」
ベネディクトがはしごの上から声をかけると、下で支える司祭たちが「よっ」と力を込める。花の飾りがぐらりと揺れ、慌てて皆で笑い合った。
別の場所では、木の板に大きな筆で文字を描き、釘を打って「豊穣祭」と記した看板を作っている。
「真っ直ぐ打てよ」
「普段は聖典しか触らない手だからな……」
不器用な釘打ちに、仲間同士で笑いが起こる。
普段は沈んだ空気が支配する教会も、この日ばかりは朗らかな笑い声に満ちていた。
◇◇◇
一方、集会所。
机を囲んで作業していた人々の間に、いつの間にかひそやかな声が落ちていた。
「大聖女様は、皇王陛下にしょっちゅう殴られているらしい」
「伝説級の魔物に遭った時、盾代わりにされたとか」
「皇王陛下は“大聖女は私物だ”と宣ったそうよ」
裁縫の手を止め、誰かが眉をひそめる。
「……まさか」
けれど、別の誰かが囁きを重ねる。
「でも、イレーネ様がお可哀想……。あんなに誰にでも優しくて、慈しみ深い方なのに」
噂は針から針へ、口から口へと伝わり、静かに広がっていった。
◇◇◇
やがて囁きは街へとにじみ出る。
並び始めた屋台の間を行き交う商人の口から口へ。
舞台袖で踊りの順番を待つ子どもたちの耳へ。
酒樽を運ぶ男たちの間で、菓子を仕込む女たちの間で――。
最初は小さなざわめき。
けれど、それは確実に、祭りを包む華やぎの下に、薄暗い影を落とし始めていた。




