29 曇る心、揺れる想い
「皆さん、今朝の祈りもきっと神のもとへ届いたことでしょう。豊かな一日のために本日も神に尽くして参りましょう。
さて、埃に塗れてしまった古経典を暫くは集中して手入れをしたいと思います。聖女、聖女見習い、司祭、助祭の皆さん、頼みましたよ。
あぁ、大聖女イレーネは奉仕者の方たちの仕事を見て周り、手が足りないようでしたら助けて差し上げてください。
それでは、聖光の導きがありますように」
ステンドグラスが朝の柔らかな光を注ぎ、聖職者たちの顔を照らす。
大司祭マルケルスの言葉に従い、一同は右手を胸に当てて礼をし、イレーネを除く聖職者たちはぞろぞろと古経典の眠る図書館の特別区域へ向かっていった。
「イレーネ様、エリナも本日は図書館でご奉仕します」
「わかったわ」
イレーネはエリナの頭をひと撫でしてやる。嬉しそうに笑ったエリナが去って行くのを見送ってから、イレーネも自分の向かうべき作業所へ向かった。
◇◇◇
特別区域――普段は固く施錠され、限られた聖職者しか入れぬ場所。
厚い石壁に囲まれた細長い空間で、窓は小さく高い位置にしかない。外光はほとんど届かず、古い木製の棚にずらりと積まれた羊皮紙や石板の影が、薄暗がりに沈んでいる。紙の劣化を防ぐため湿度は低く、空気は乾いて埃っぽい。カビとインク、燻んだ革の匂いが鼻を突く。
扉が開かれ、古い窓がきしみを上げて開け放たれると、燭台にともされた火がひとつひとつ連なり、ようやく室内に明かりが満ちていく。
「皆さん――」
マルケルスの声に、全員が顔を上げる。
「私は立ち上がることにしました。我らが親愛なる大聖女イレーネを、この牢獄から解放するのです。そのために、あなた方の力が必要です。どうか探し出してください。彼女を救う手立てを」
その言葉に皆、静かに、しかし強く頷いた。
「古いものは石板や銅板に刻まれています。重いので司祭を中心に。紙のものは聖女の皆さんにお願いします」
ベネディクトの指示に、あちこちから「はい」という声が返る。
「古い記述が写し取られ、紙に残されているものもあるはずです。一字一句、丁寧に探してください」
古語や難解な言い回しが多く、解読には時間がかかるだろう。狭く息苦しい部屋に、静かな熱気だけがじわりと広がっていった。
◇◇◇
一方、イレーネは作業所から菜園へと足を向けていた。
そのとき、小走りにやってくる影があった。
「イレーネ様!」
ユリウスだった。顔を上げ、視線が合った瞬間、穏やかな黒い瞳が優しく細められる。胸がきゅっと締め付けられ、イレーネは思わず目を逸らし、菜園の方へ向き直った。
「こんにちは、ユリウス様」
「こんにちは。ベネディクト様はいらっしゃらないようですね」
「暫くは古経典の整理を任されています」
「そうですか。それでは、イレーネ様にご一緒しても?」
服の上から、胸元に隠した真珠の首飾りをそっと握りしめる。
本当は胸が跳ねるほど嬉しい。だが――「大聖女としての自分」が、その気持ちを許さなかった。
「……はい」
二人は並び立って歩き始めた。だがイレーネは、頑なに彼を見ようとしなかった。
視線を交わせば、心が溢れてしまう。大聖女として背負わされた役割が、その想いを押し殺そうと胸を締め付ける。
「イレーネ様」
不意に、右手を掴まれた。指が熱を帯び、強く握り込まれる。
そのまま、握られた手がユリウスの唇に触れた。
「……やっと、僕を見てくれた」
驚きに顔を上げたイレーネの瞳に、真摯な黒の光が映る。
けれどその眼差しがあまりにもまっすぐで、苦しくて、胸の奥がちぎれるように痛んだ。
光を反射した小さなピアスが耳元でかすかに瞬く。――その細部さえ、彼の存在を否応なく焼き付けてしまう。
イレーネは堪らず視線を伏せ、震える声を絞り出した。
「……やめてください」
拒む言葉とは裏腹に、頬は赤く染まっている。
ユリウスの指がわずかに緩み、寂しげな瞳が揺れた。
「ごめんなさい。……向かうのは、菜園ですか?」
「……はい」
その一言で、二人の間に落ちる沈黙は決定的なものとなった。
近いのに遠い。触れた手の温もりだけが消えず、かえって切なく胸を灼いていく。
言葉を交わすことなく、二人は静かに並んで歩き続けた。




