17 白珠の想い
市場の喧騒。曲がりなりにも貴族の令息であるユリウスは、その目まぐるしさに黒い瞳を輝かせる。
今日は教会に顔を出す予定の日だった。魔物との遭遇による混乱もようやく落ち着いたと聞き、道すがら少し早めに邸宅を出て、市場に立ち寄ってみたのだ。
屋台に積まれたりんご。イレーネ様はりんごはお好きだろうか。
積まれた焼き菓子。妹たちは好きそうだが、イレーネ様は甘いものはお好きだろうか。
花屋のバケツいっぱいの花々。イレーネ様にはやはり凛として可憐な花がいい。
はたと立ち止まる。
「イレーネ様ばっかりだ」
空を流れる雲を見ても、走り回る子どもを見ても、思い出すのはイレーネのことばかり。
この気持ちは、聖職者である彼女には負担になる。
大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
ふと目についた、屋台に並ぶアクセサリー。小さな真珠が一粒だけついた安価な首飾り。このくらいなら受け取ってもらえるだろうか。
少しだけ。ほんの少しだけなら、許されるだろうか。
◇◇◇
午後、真珠の首飾りをポケットに忍ばせて、ユリウスは教会を訪れた。
いつも通りベネディクトについて歩く。
「その……今日はイレーネ様はどちらに?」
ベネディクトはきょとんとしてから、ニヤッと笑った。
「今日は図書室です。もうお元気なんですけど、みんなが心配して、体に負担のかかる菜園や果樹園の仕事はやらせないようにしているんです。それで今日は破れた本の修復をして頂いてます」
図書室に入ると、イレーネは情けなく眉を下げて作業していた。
「ベネディクト様、ほとんど修復すべき本がないではないですか」
「あれぇ? そうだったかなぁ? そうしたら今日はここで本でも読んで過ごされたら如何ですか?」
「そんなこと許されないわ」
ふと顔を上げたイレーネが、扉の近くに立つユリウスに気づく。
「はっ! ユ、ユリウス様!」
その声に座り込んで作業していたエリナも顔を上げた。
「あ! ユリウス様だぁ! こんにちわ!」
「こんにちは、イレーネ様、エリナさん」
ユリウスが軽く頭を下げると、つられるようにしてイレーネも頭を下げた。
エリナは棚から出した本を整理しているようだった。イレーネは彼女のそばへ行き、しゃがむ。
「エリナ、私も整理をするわ」
「ブッブー! ダメですぅ! 本日のイレーネ様の仕事は本の修復です。私の仕事をとるのはイレーネ様でも許されません!」
「そ……そう」
イレーネは情けない顔で元の席に戻ると、修復済みの本を撫でていた。
「俺は本棚の掃除をします。ユリウス様は本の修復をお願いします」
「え……でも」
ベネディクトは下手くそなウィンクをしてさっさと奥へ入って行った。
ユリウスも仕方なくイレーネの隣に腰掛ける。
「僕はここの本を見ても大丈夫ですか?」
適当な一冊を手に取り、ユリウスはイレーネに見せた。彼女の視線が釣られるように本に向く。
「図書室への入室は許可されていますので、問題ないと思いますよ」
イレーネの穏やかな微笑みに、ユリウスは思わず胸が高鳴る。
それから、ユリウスはしばらくは手持ち無沙汰で本を読んでいた。いや、読んでいるふりをした。
「あの……。街を歩いていたら、貴女をどうしても思い出してしまって」
椅子に横向きに座り、イレーネの方を向いた。ポケットからネックレスを取り出し、手の上に乗せてイレーネに差し出す。
「え?」
「戒律の厳しい教会ですから、こういうものは持っていても大丈夫かどうかわかりませんが。
この艶やかで穢れのない真珠の姿が、貴女によく似合うと思ったのです。
愚かな僕は貴女にどうしても贈りたくなってしまった。
安物ですが、受け取っていただけませんか?」
ユリウスは緊張してイレーネの目は見られず、じっとネックレスに視線を落としていた。
イレーネは小さく躊躇い、やがてその手を差し出した。
「……付けても?」
「はい」
ユリウスは静かに立ち上がり、イレーネの背後へ回った。
そっと鎖を開き、肩越しに身を屈めて首筋にかける。冷たい金具がうなじに触れた瞬間、イレーネの心臓が大きく跳ねた。指先がほんのわずかに髪をかき分け、留め具を閉じる。
ごく短い仕草なのに、息が詰まるほど長く感じられた。
着け終えるとユリウスは束ねられた黒髪を揺らしながら彼女の横に戻り、じっと喉元を見つめた。
白珠は柔らかな光をまとい、イレーネの白い肌を一層際立たせている。
「……やっぱり似合う。良かった」
小さく呟くと、ユリウスは衝動に抗えず手を伸ばし、真珠をつまみ上げた。
そして照れくさそうに、けれど誰よりも優しい微笑みを浮かべた。
イレーネは耳まで真っ赤に染め上がった。




