10 掌に残る温もり
昼過ぎ。今日もベネディクトに伴われて、ユリウスが教会の集会所へやってきた。どうやら彼が教会にいる間は、常にベネディクトが案内役を務めることになったらしい。
がらんとした広間には、長机や椅子が雑然と並び、どこか公民館を思わせる空気がある。市民が自由に利用できる場とはいえ、今日は使用予定がなく、広い空間はひっそりとしていた。
ジャケットを椅子に掛けたユリウスは、白いシャツと濃紺のベスト姿に袖カバーとエプロンをつけている。胸元のポケットから覗く金の鎖は、彼が携える緊急通信装置のものだった。
「今日はここを掃除します。市民の方にも開放しているので、どうしても汚れやすくて」
「なるほど」
はたきを手にしたイレーネが近づき、静かに会釈する。
「こんにちは、ユリウス様」
「あぁ、大聖女様。貴女も今日はこちらでしたか」
「“大聖女様”ではありません、“イレーネ様”です! ちゃんとお名前でお呼びください!」
遠くから雑巾を持ったエリナが声を張り上げた。
「こら、エリナ! ユリウス様に無礼なことを!」
ベネディクトが慌てて追いかける。
「わー! 遊んでないでちゃんとご奉仕してください、ベネディクト様!」
「お前が言うな!」
集会所に響く声に、イレーネとユリウスは思わず顔を見合わせ、笑い出した。
「まるで兄妹のようですね」
「えぇ、そうですね」
◇◇◇
「ユリウス様は、いつも同じくらいの時間にいらっしゃるのですね」
イレーネが雑巾を絞って差し出す。ユリウスはそれを受け取りながら答えた。
「あぁ。僕の仕事は殿下が大学校から戻られてからが本番です。夜遅くまで魔通信に付き合うので、朝はどうも弱くて」
はにかむように笑うユリウスに、イレーネはそっと視線を逸らした。頬がほんのり熱くなる。
「緊急通信装置は持ち歩いていますが、今のところ作動したことはありませんね」
「掃除は、なさったことが?」
「いえ。一応、男爵家の息子ですので……」
「まぁ! 男爵令息様にこんなお仕事を」
「いやいや。好きでやらせてもらっているのです。お気になさらず」
二人は並んで、静かに掃除を始めた。
◇◇◇
イレーネが壁を磨いていると、不意にユリウスが声を上げた。
「あっ!」
驚いて振り返った彼女の手を、ユリウスがとっさに掴む。
彼の視線は高い位置にあり、持っていた雑巾で何かを払った。
「あの……?」
「蜘蛛がいたので」
「蜘蛛?」
「……もしかして、蜘蛛、大丈夫でしたか?」
「えぇ、よく見かけますから」
その答えに、ユリウスの顔は耳まで真っ赤に染まる。
「イレーネ様の手の近くにいたので、とっさに……。妹たちなら大騒ぎするところでしたから」
小さなことだが、彼が反射的に自分を守ろうとしたと分かると、イレーネの胸に温かなものが広がった。
イレーネは掴まれた自分の左手を、もう片方の手でそっと包み込む。
その瞬間、ユリウスは慌てて手を引いた。
「も、申し訳ありません!」
イレーネは静かに首を振る。
「……掃除を続けましょう」
「……はい」
顔を背けたイレーネの耳までが、真っ赤に染まっていた。
遠くから覗いていたベネディクトとエリナは、無言で顔を見合わせ、そろってうんうんと頷いた。




