h.忘れがたき女性、ロック
普通に歩いているはずだったのに、気がつくと小走りになっていた。息が乱れない程度の速さで、文月は自分の家の玄関に駆け込んだ。
中に入ると、当然だが、誰も待っていない部屋は真っ暗だった。文月は電気をつけることもなく、すたすたと暗い廊下を進んだ。二階の一番奥にある部屋の扉を開く。埃臭い空気が流れ込んできて、電気をつけると、キラキラと埃が宙を舞った。
そこには、一体のジュエリードールがいた。
黒いベールを被り、大人びた白いジゴ袖のシャツと青く長いスカートを履いて、ちょこんと子供の学習椅子に座らせられている。後頭部の高いところで結った髪の毛は透明で長く、細い指先も女性的だ。右耳につけた赤いイヤーカフが彼女を少し可愛らしく見せている。
文月は音もなく近づき彼女のそばに跪くと、そっと、切り傷の治療痕が残る冷たい手を両手で挟んだ。
「ロック」
そして彼女の顔を見上げる。そこには、およそ顔と呼べるものが何もなかった。鼻も唇もない、顔の前半分を切り取ったような平たく灰色な顔面に、ギラギラと輝くまあるい目玉だけが露出している。子供が夜に見たら泣き出すような顔だ。けれども、文月には怖くもなんともない。
無言で彼女のシャツのボタンを外す。大人の成熟したやわらかな乳房を曝け出すと、脇に爪をはわせ、胸の蓋を開けた。ーーそこには、宝石が入っていなかった。空っぽの胸。心臓のない体……
「色が近いエネミーモンスターがいつ現れるかなんて分かんねえ、か……その通りだなあ。まさか宝石が手に入るとは」
ポケットから取り出した、廃墟のドールの宝石を掲げる。
これが透明な宝石でなければーートウキョウ・ハーキマーダイヤモンドでなかったのならーーロック・クリスタルでなかったのなら、文月はこんなことはしなかっただろう。文月が左耳に囲っている、この、彼女と同じ種類の宝石でなかったのなら。
ハーキマーダイヤモンドの表面を一度撫でる。やはり、ドールの胸部の穴よりは一回り小さい。文月は首を傾げて、左耳のピアスを外した。金色の枠の中からトウキョウ・ロック・クリスタルを取り出す。じ、とそれを見下ろした後、ハーキマーダイヤモンドにぐっと強く押しつけた。
宝石が沈む。
とぷん、と飲み込まれ、ハーキマーダイヤモンドの中心に転がっていったロック・クリスタルは、ただの気泡のようにも見えた。何万年もそこにあったように……文月はそれを天井についた安っぽい電灯に透かして目を細めると、彼女の空いた胸に嵌め込んだ。カチリ、と音がする。身体中に張り巡らされた管に透明な液体ーー宝石のエネルギーが流れ込んでいくのが見えた。ただ透明なだけだった髪の毛が硬い輝きを取り戻し、ダイヤモンドカットを施されたように白と黒に煌く。それはーーまるで夢のような光景だった。
「10年だ。お前ーー」
白いカーテンの隙間から、濃紺色の夜空が覗いていた。二人の手が窓ガラスに写る。文月が片手で平面的な彼女の頬をそっと撫でた。
丸い虹彩にもとろとろと宝石が流れ込んでいき、瞳が意識を取り戻した。瞼のない目に光が宿り、彼女が確かに文月を見た。文月の焦げ茶色の瞳に彼女が写る。ぶるり、と目玉が震えると、
「きゃあああああああ!!?!???」
それは文月を張り飛ばした。