f.透明な宝石
扉は大きく開かれていた。
子供の足跡がぐちゃぐちゃに乱れ、歩幅が大きくなり、廊下の壁には大きな穴が空いていた。この部屋に入った時にモンスターに襲われたように見える。文月はそっと部屋の中を伺い、モンスターがいないことを確かめてから部屋に入った。扉を閉める。
そこは寝室のようだった。扉の真前には大きな窓があり、暮れかけの真っ赤な空が覗いている。文月が入ってきたことでキラキラと埃が舞って、星が揺れているようにも見えた。
部屋の真ん中に、天蓋付きのベッドがあった。子供の足跡はそこへ続いていた。引き寄せられるように近づき薄汚れたカーテンを開けると、枕元に置いてあった写真が倒れた。かなり古い写真だ。壮年の男性と、病院服の黒髪の少女が笑って写っていた。
ベッドにはその少女が眠っていた。髪は黒くなかったが。
それはまるで夕焼けを溶かして零したように見えた。肩まである透明な髪の毛が頭から扇型に綺麗に広がり、その上に小さな頭が置かれている。細い眉毛も短く生えそろったまつ毛も、全てが透明だ。ファンデーションを塗ったように一面同じ色になった肌にはシミもくすみもなくつやつやと輝いている。薄く塗られた頬紅と桃色の小さな唇がまるで少女を生きているように見せていたが、どこからどう見てもそれはジュエリードールそのものだった。
「おいおいおい、ここの住人か? っつーか、透明……?」
埃一つ積もっていない頬に触れる。温度はない。やはりドールだ。耳には何もついていない。普通、純正ドールにしろ人間が入ったドールにしろ、体が出荷された時点で耳にはイヤーカフがつくことになっている。ドッグタグのようなものだ。それがないということは、このドールは出荷前の状態ということになる。ーーどこからか盗まれてきたのだろうか?製造年月日は30年前を示していた。盗まれたとしても、ずいぶん大切に扱われていたらしい。
文月は右耳に当てた手をゆっくりと下ろした。白いネグリジェの胸元のボタンを外すと、なだらかな少女の脇に爪を当てて、胸の扉を開ける。出荷前なら宝石は入っていないはず、だが。
沈み始めた夕日が部屋を真っ赤に染める。真っ赤な光を吸収してか、反射してか、胸に嵌った宝石は、まるで心臓のように赤く見えた。売り物より少し小さなそれは、確かに、
「透明、な、宝石?ーーーー!!」
ドスン。
ドスン、ドスン! バキン!!
足音がしたと思った瞬間、部屋の壁が打ち破られた。木片が文月に向かって飛び散る。大剣を構え振り返ると、目の前に真っ赤な犬型モンスターの宝石のような鋭い爪先が、スローモーションのように迫っていた。受け流そうと大剣を合わせるが、間に合わない。かろうじて狙われた顔を逸らすと、浅く頬から額にかけて切り裂かれた。パッと白いベッドと少女に血が飛び散る。
「ガウウウウアアアア!!」
「くそがああああああ!!」
バキャバキャバキャ! とモンスターが壁を突っ切って隣の部屋へ消えて行く。文月は切られた方の片目をつぶると、躊躇いなく大剣を振りかぶった。半ばでたらめに振った剣だったが、ちょうど振り返ったモンスターの足に当たった。ギャウン! とモンスターが悲鳴を上げ、隣の部屋に逃げ帰る。
「鎮圧だな? 指令は鎮圧だよな? 多少傷ついても殺さなきゃいいって保護法も言ってるよな?」
文月は懐から注射器を取り出すと、管の部分を片手で握り潰した。大剣にぼたぼたと液体が落ちる。モンスター用の麻酔薬だ。気絶させてから麻酔を打つつもりだったが、もういい。斬る。刃が潰れているとはいえ形は剣。気合を入れれば斬り傷ぐらいは作れるのだ。
やってやる。
「ほら来いよ、クソわんわん。こっちは手負いだ、来るだろう?」
部屋の中央に陣取り、右手で柄を持って左手を唾に添え、腰を捻る。腰を落として重心を深くして、ゆっくりと息を吐いた。立ちの居合切りの構えである。耳を澄ませば、ハッハッという浅い息遣いが聞こえた。カリカリと床を引っ掻く爪の音も。目を細め、聴覚に集中する。死ぬだなんて思わない。ただ一発入れるイメージだけを研ぎ澄ませる。
「ほらーー来い」
ーーーーバキン!!
また別の穴を開け、隣の部屋からモンスターが飛びかかってきた。ダン! と一歩踏み出し、向かってくる前足目掛けて剣を振り上げる。一閃。パシっと鮮やかな赤い血が飛び散ったーー斬った! だが浅い! 巨体は勢いと方向性を保ったまま、文月に向かって落ちてくる。
「おらあ!」
大剣を切り返し逆の腕を弾き飛ばそうと刃を向けると、剣の樋にモンスターが着地した。凄まじい重さが両腕にかかり、ぐんっと下がった大剣が床をブチ破る。文月が剣を離して前に転げるのと、モンスターが文月のいた場所に飛びかかるのは同時だった。
「チッ!」
「グアア!?」
目標を寸でのところで失ったモンスターが、天蓋を引き裂きながらベッドに突っ込む。バキバキと木じゃない何かが破壊される音がして、バチン!と火花が散った。モンスターが悲鳴を上げベッドから転げ落ちてくる。
文月は床の上で一回転すると、床から大剣を引き抜いて振りかぶった。モンスターのがら空きになった脇腹に向かって大剣を投げつける。まっすぐ飛んで行った大剣は勢いを殺さずにモンスターの腹に突き刺さると、真っ赤な血を吹き出させた。
「おーおー、生命力の強いこと。死んでないのはありがたい」
しばらくモンスターは暴れていたが、傷口から麻酔薬が入ったのだろう、少しすると静かになった。スースーと寝息が聞こえてくる。真っ二つに折れたベッドを回り込んで寝顔を確認すると、まるで子犬のようで笑ってしまった。こんなに凶暴な子犬がいたものか。
「にしてもーーああ、やっぱり」
文月はモンスターの巨体を蹴って床に転がすと、赤い血が散らばったベッドを改めて見た。少女の姿をしたジュエリードールが、喉と両腕を潰されてベッドにめり込んでいた。あたりに散らばったドールの透明な宝石が形を無くし溶けていく様は、絵画的にも見えた。
頭部はさほど傷がついていない様子で床に転がっていた。拾い上げると、まるっきり眠ったままの表情で、少女は静かに目を閉じていた。透明な髪の毛がさらさらと揺れ、折れた首からは滴のように宝石が落ちては床に染み込んでいった。
「…………」
文月は彼女の頭を持ったまま、胸部に埋まっていた宝石を盗った。窓を開け、月光にかざす。不純物はまるで見えなかった。まるっきり無色透明な粒だった。握り拳よりも小さい、けれども歴とした、 トウキョウ・ハーキマー・ダイヤモンド(クリスタル)だった。