d.残った想い
家に帰ると、もう外は真っ暗になっていた。一日中ハークを引っ張って駆け回っていたから、文月は疲れてしまったらしい。早めに寝るわ、と言って、玄関の扉を閉めるなり服を脱ぎ出した。協会のロッカーから持ってきた黒い戦闘服をハークの方にぽいと投げて、
「悪い、コートかけておいて」
「わぷっ! はーい」
ハークはコートを腕にかけると、文月を見た。Tシャツを脱いで、下着に手をかけたところだった。
ばさ、と文月が白いタンクトップを脱ぐ。手足にくらべてずっと白い背中は透き通るような透明感があったが、そのあちこちにえぐれたような傷痕があって、ハークははっと体を強張らせた。背骨の近くに一つ、脇腹に二つ、肩に二つ、二の腕に一つずつ大きな傷が残っていて、あとは引っ掻き傷のような浅い怪我がいくつも。今日の討伐では傷は負っていなかったから、今さっきついた傷ではないだろう。けれども、一回でついた傷にも思えなかった。長年のハンター生活の痕跡は、文月がバディを持たなかったという事実と結びついているように思えた。
(文月は、私が仕事ができるって言ってくれた。助かる、って)
(でも、私は子供だ。仕事もしたことがない子供なんだ)
(もし、ロックがいてくれたら)
(文月はもっと助かるんじゃないの?)
(ロックがいればーー)
「ハーク!」
バスタオルを肩にかけた文月が、脱衣所から顔だけ出して叫んだ。
「何突っ立ってんの? 上がったら洗濯するから、お前もパジャマに着替えておけよ」
「あっ、うん」
小さく声を返して、ハークは文月の部屋にコートをかけに行った。ごちゃごちゃゴミ袋と洗濯物が溜まった汚い部屋のどうにか見えている床を爪先立ちで進み、帽子かけにかかっているハンガーにコートをかける。ぼんやりしたままところどころ煤けたコートを眺めていたが、着替えなくちゃと思ってきびすを返した。が、とゴミ袋に足をひっかける。
「わ、わ、た!」
どたん、と洗濯物に顔から突っ伏す。長い足が本棚にぶつかった、と思ったら、そこに置いてあった本がいくつか床に転げた。
「ああっ! あー、もう。私、何やってーー」
拾い上げようとした手が、止まった。
それは、アルバムだった。
中途半端に開かれたページには、たくさんの写真が貼ってあった。そこには夢で見たのよりももっとずっと小さな文月と、夢で見たのと全く同じ姿をしたロックが、親子か姉妹のように寄り添って写っていた。
「……」
ハークはアルバムを拾い上げた。ぱら、とページを捲る。目についたのは、文月の表情だ。まだ出会って数日しか経っていないけれど、文月は表情が多い方ではないことはわかっていた。けれども、どうだ、この写真たちは。文月はそこら辺にいる子供のようににこにこ笑ったり、怒ったり、拗ねたり、走ったり転げ回ったりしていた。文月の両親と思われる人たちも一緒に写っていたが、文月の目はいつもロックに向いていた。
家族に向けるだけではない、特別な感情が、その瞳には宿っている様に見えた。信頼、甘え、憧れ、そして愛情……そんなものがありありと小さな写真に切り取られていた。アルバムは埃をかぶっていたけれど、時間なんかに、この感情が覆い尽くされることはないように見えた。
「文月、ロックのこと、好きだったんだ」
ハークの小さな声は、誰にも届くことはなかった。
アルバムを丁寧に本棚にしまい、文月の部屋の洗濯物を全部洗濯機に入れ、ゴミ袋は玄関に持って行った。丁度風呂場から出てきた文月が「おお、助かるわ」と意外そうに礼を言ったが、ハークの心は動かなかった。
文月が大事にしているのはロックで、私を生かしてくれるのもロックの宝石を取り出すためで、私はなんにも関係ないんだ。そう思うと、宝石がひび割れるような思いだった。
「文月、今日は一人で寝るよ」
「そう? どっちでもいいけど」
「うん。じゃあ、洗濯するね」
「使い方分かんの?」
「傍に使い方書いてるみたい」
「……あっそ」
文月は首を傾げたが、深く言及することなく、自室に入って行った。ハークはその後ろ姿が見えなくなるまでジッと見ていたが、この気持ちをどうすればいいのかは分からなかった。
早く、私からロックの宝石が取れればいい。そうすれば、私はまた、長い眠りにつくだけ。今度こそ誰にも起こされないで、ゆっくりと寝るんだ。そして誰も入っていないロック・クリスタルが見つかったら、文月はロックに入れてみるだろう。その時、二人は再開できる。ハッピーエンド。それまで、
それまでは、……せめて。
せめて一緒にいたい。そう思うのは、ロックの影響だろうか。