f.一人じゃない夜
文月の、丈が短くぶかぶかなパジャマを着てまた家の中をウロウロしていると、ダイニングキッチンにその姿を見つけることができた。紺色のスウェットのズボンと白いTシャツを着ていて、アイスを咥えながら皿を洗っているところだった。
「あの、やろうか……?」
「んあ? むあ、ももうわ」
水を止めると、ジャッと文月が手の水を切った。上を向いてアイスが落ちないようにしながらかけてあるペーパータオルで手を拭く。片手でゴミをゴミ箱に放り投げると、見もしないのにちょうど真ん中に入って、ハークは感心した。さすがモンスターハンターだ。
「もう終わった。……まあ、似合ってんじゃん?」
「全然合ってないよ」
「そいつに着せるの初めてなんだから許してよ。じゃあ明日はパジャマ買いに行くか~」
「えっ。その、……悪いよ。私、ドールだから、そんなに服要らないよ」
もごもごとしゃべると、文月は「まあ確かに?」と首を傾げた。
「代謝がないから必要ないっちゃないけどさ……でもお前、女の子じゃん? じゃあやっぱり、服とか気になるんじゃないの」
ハークはギョッとして、ゴミ袋の口を閉じている文月の背中を見下ろした。文月の口から気遣いの言葉が出てくるとは思わなかった。勝手に人の体を壊して、勝手に人を目覚めさせて、勝手に所有するとか言って拉致してーーああでも、文月は必要なものは与えようとしてくれた。体、名前、服、常識、知識。ハークの中のロック・クリスタルの取り方が分かるまで、それまでしかたないから所有するって話なのに、文月はハークを宝石のままにしておこうとは全く考えていないようだった。ーーちゃんと人間扱いしてくれる。人間だったらきっと顔が赤くなっていただろう、と思って、ハークはパジャマを握り締めた。
「あ、あの、ありが」
「ああ、お礼とかいいから。それより、あたし寝るけどあんたも寝れば?ドールもスリープモードにはなるでしょう?」
「え、う、うん……」
「悪いけどあんたの部屋ーーあー、さっきの部屋ね。あそこにベッドないから床で寝てね。さすがにベッドをポンと買えるほどの財力はないから」
「い、いいよ! そんなの! 大丈夫!!」
身を乗り出して叫んだハークを見て、文月は片方だけ眉を上げた。
「じゃあいいけど。ほらほら布団出すから。退いて」
「て、手伝う!」
「はいはい」
のしのしと歩く文月の背を追いかけて、小走りでハークはダイニングキッチンから出た。
「温度感じないんだしこんなもんでしょ」
文月は敷布団を二枚、ベッドパッドを一枚、羽毛布団を一枚敷いた布団を見下ろして腕を組んだ。ハークが持っていた枕を頭の位置にそっと置くと、ハークの寝床の完成だ。
「それじゃああたしは寝るからね。おやすみ」
「うん、おやすみ」
文月が部屋を出て行って扉を閉めると、中からゴソゴソ布団に潜る衣擦れの音が聞こえてきた。あの部屋に誰かがいるなんてーーそれも、あいつの顔で、中身は知らない人間だなんて。何してんだかなあ、あたしは。文月が頭を掻くと、指に長髪がぐるりと巻きついた。さっと払うと、空気に溶けるように散っていく。
パチリパチリと廊下の電気を消していく。すぐに人のいない部屋の温度は下がり、文月が自室に引っ込むと、家は真っ暗で静かになった。
目を閉じられない、ということがこんなにも不快なことだとは思わなかった。ハークはむっくりと身を起こすと、羽毛布団を握り締めた。辺りは真っ暗で、でもジュエリードールの目にはどこに何が置いてあるのか、タンスの上の埃まではっきり見えた。
(寝られない……てか、スリープモード? の入り方が分からない……)
これは重大な問題だった。朝になるまでの何時間もの間を一人でずっと過ごさなくてはいけないのは、どう考えても苦痛だ。かと言って暇つぶしの道具なんてハークは持っていないし、テレビでも見ようかと思っても、他人の家だと思うとどうにも好きに振舞えない。多分今日一日で数万円使わせてしまっただろうし、世話になっている間は出来るだけいいドールでありたかった。
(散歩……うん、散歩しかない)
ハークは無言で頷くと、手早く布団を片付けた。散歩とは言っても、勝手に行くのは憚られた。自分は文月の大切な体と宝石を預かっている身分なのだ。これが傷ついたらとんでもない。何かーーメモでも残せればいいんだけど。与えられた自室を探してみるも、そのようなものはなかった。
(埃臭い、部屋だ)
長い間手入れがされていないように見える。立派なタンスには今は文月がくれたパジャマとハークの新しい服しか入っていない。姿見はずっと磨かれていないようで曇っているし、カレンダーは10年も前のものだ。ーーここはきっと、ロックの部屋だ。ロックが壊れてしまってから、文月は入るのをやめたんだろう。だからベッドもないんだろう。寂しい部屋だ、と思った。胸に隙間風が入ってきたような冷たさを感じた。
ダイニングキッチン、リビング、玄関、を見てみても、筆記用具や紙は置いていなかった。何だこの家、何もない!? こうなったら文月の部屋に行くしかない。そろっとドアノブをひねると、思ったよりも大きな音が出てハークは飛び上がった。ばっくんばっくん鳴る心臓もないくせに、緊張で宝石が煮だったような心地で数拍黙っていたが、文月の反応はなかった。
(お邪魔します……)
そこは、ハークの想像する年頃の女性の部屋からはかけ離れたものだった。紺色のカーテンと布団が目立つ海底のような雰囲気。緑色のぺちゃんこな座布団が二つ。黒っぽい茶色のタンスが1つあり、本棚が2つあった。そして床を覆うゴミ袋と洗濯前か後かよく分からない服の山。
(きったな……)
帽子かけには帽子だけじゃなくてハンガーがいくつも無造作にかけられていて、一番上に黒の迷彩服がかけてあった。部屋の中央には布団を抜かれたコタツが机代わりにでんと置かれていて、書類やメモ帳、筆箱が置いてあった。
(あった!)
扉を開けっぱなしにして爪先立ちで部屋に入る。コタツに近づいて筆記用具を手に取ろうとした瞬間、
「何してんの? お前」
「きゃあああ!」
キーン、とハウリング音が辺りに響いて、文月は耳を押さえた。
「うるっさ。ほんとに何してんの?」
「あ、文月……ご、ごめんなさい、起こして」
「いやいいけど。何、奇襲?やんのか?」
「ちが、やらないよっ!」
片手で喉を抑え、片手を振る。つまらなそうな顔で「ふぅん」と鼻を鳴らした文月は、「じゃあなんなの」と眠そうに瞬きした。
「あーーえっと」
散歩に行きたい。眠れないから。逃げるつもりはない。ちゃんと戻ってくる。そう、言えばよかった。ただ、真っ暗な中で針でついた穴のように見える文月の黒目を見ていると、なぜか言葉が出てこなかった。
ーーああ、そうか。多分私は、眠れないんじゃなくてーー
文月はぼんやりした目で立ち尽くしているハークを見ると、納得がいったように顎に手を当てた。
「ああ、分かった。お前、眠れないんだろ。……何、一緒に寝る?お前、ガキだもんな」
「えっ」
文月はでかでかとあくびをすると、目と口をしょぼしょぼさせながらベッドの端へ体を寄せた。にょっきりと白い腕を布団から出して、ベッドを叩く。かと思えば、興味が失せた様子でハークに背中を向けて口元を布団に突っ込んだ。
「ふぁい、どーぞ。んじゃ、おやすみ……」
「えっえっ? あ、文月? あの? ちょ、寝たの……?」
ベッドに近づくと、カーテンがかけられていない窓から入る月明かりでハークの髪が闇色に光った。ベッドに乗り上げて文月を見下ろすと、すー、すー、と意外に静かな寝息が聞こえてくる。再び起こすのは躊躇われた。目の前には半分空いたベッドがある。
「……子供扱い、すんなよな……」
そろ、と海底のような色の布団をめくり、真っ白な脚を差し込む。体も入れると、成人女性二人ではベッドは窮屈で、ハークはドキドキしながら文月に倣って背中を向けた。丸いお尻や硬い肩が触れ合うも、文月は何の反応もない。首を竦めて布団の中に顔を突っ込んで、ハークは温度が分からないことを残念に思った。きっと布団は、人の体温で温かかっただろうから。
ハークはまぶたがない。だから目を閉じられない。けれども布団を被ると、それは一人でいた時と全く同じだろうと思うのに、柔らかな暗闇に解けるように、意識がまどろんでいくのが分かった。あ、眠るな、と思った瞬間にプツンと意識が途切れ、ハークは眠りに落ちていった。