e.行くあてなんてない
文月は道中ずっと無言で、ハークの腕を引いていた。だから、家に入った途端に怒鳴られるかと思っていた。けれども玄関の扉を閉めるなり文月は「ただいま~」と呑気な声を出したかと思ったら、何事もなかったかのように靴を脱いだ。ぱ、と手を離されるのになんとなく放り出されたような気分になる。
謝らなくちゃ。
「あの、文月、あの……」
「ああ、お前も靴脱げよな。あ、買った奴コレ。てきとうに置いといて。服はーータンス整理するかぁ? めんどくせ~」
言葉のいちいちにハークの心がびくつく。文月はハークに靴が入った紙袋を押し付けると、後頭部をがしがしと掻いて家に上がった。ハークはとっさに片手を上げたものの、預けられた紙袋が重くて、文月を掴むことは出来なかった。紙袋から靴の入った箱を取り出して、俯く。
「てきとうってなんだよ……」
文月と二人で選んだ靴は、白い電気に照らされた玄関では安っぽく見えた。
靴箱の中と玄関に自分の靴を恐るおそる置いた後、ハークは靴箱と紙袋を持って途方にくれていた。この家に入るのは二度目だが、初めて入った時は意識がなかったので実質初めてのようなものだ。軋まない廊下を爪先立ちで歩きながら、ぼそぼそと文月を呼ぶ。幽霊のように歩き回って部屋をいくつか巡っていると、物音と共に大きな独り言の声が聞こえてきた。
「うお、高校の時の服だ~なっつ。ふっる。もう着れないな……売るか。……ちょっと待って、あたし太った?」
「あ、文月……?」
銀色のドアノブがついた、茶色い扉だった。開けると、そこはハークが目を覚ました部屋だった。入って真前にあるタンスに向かってヤンキー座りをしている文月の、長い焦げ茶色の髪が見えた。ガチャ、という音が聞こえたのか、それが振り返る。ハークはびくりとした。
「あ、終わった? 来いよ」
服の山を左側に寄せて、文月が言った。ハークが部屋に入ってくると、突然がしっとハークの腰を掴んで引き寄せる。
「ひぇっ!?」
「やっぱドールって腰細いよな……こいつ安モンだしなあ。あたしの服着れないでしょ、お前。脚も細いし長いし」
「えっ!? ど、どうかな」
「褒めてねえぞ。ドールってそういう存在だから」
姿見の前に強引に連れて行かれると、確かにハークの体は身長の割に細かった。人間を模してはいるものの、腰は高くくびれていて、太腿も文月より二回りぐらいは細い。すらっとして長いし、どう見ても人間の骨格ではない。人形を等身大に引き延ばしたような体格だ。ドールだから当然だが。
「やっぱ服買ってきてよかったな。あ、そうだ。パジャマなら着れるだろ。はい。服着替えておいて」
文月がハークの胸にパジャマとおぼしき服を何着か押し付ける。それをわたわたと乗せられるように受け取って、ハークはさっさと部屋を出て行こうとする文月の背に叫び、頭を下げた。
「あ、あのっ! さっきはあの、~~ごめんなさい!!」
一拍、間が開いただろうか。文月の長髪がさっと横に流れた。ハークとは違ってまぶたに半分遮られた目は真っ黒で、いつも以上に何を考えているのか分からなかった。
「別に、あんたが悪いんじゃないでしょ」
片手を振ると、文月は部屋から出て行った。謝罪は受け取られなかった。ぼと、と足の上にパジャマが落ちたが、ハークはしばらく拾うことが出来なかった。
気がつくと、窓の向こうは真っ暗になっていた。月が通り過ぎたようで、黒黒とした空がどこまでも深く広がっている。ハークはぼんやりと足の上に乗っているパジャマを見下ろした。白く滑らかな流木のような手でそっと拾い上げる。
(文月はどうするんだろう)
あの女性、記者だって言っていた。勝手に動いちゃった。ドーリストだってバレる。バレる。バレた?バレたら、どうなる?
『新聞沙汰程度じゃすまない大騒ぎだ』
『新聞沙汰程度じゃすまない』
『大騒ぎ』
『大騒ぎ』『大騒ぎ』
『文月はこう見えて名の売れたハンターなんだ』
窓を開ける。風が吹いてきたが、冷たいかどうかなんて分からなかった。素足のままさんに片足を引っ掛ける。身を乗り出して、
「おーい」
閉じたドアを振り返った。文月が閉めて出て行ったまま。扉の向こうから、文月の大声が聞こえてくる。
「ハーク?まだ着替えてんの?服の着方わかんねーのか?」
「ーーもうちょっとしたら行く」
ハークは窓から足を引っ込めた。音もなく窓を閉じると、揺れていた十年近く前のカレンダーがぱたりと壁につく音がした。