a.共同生活一日目
どこからか声が聞こえてくる。
「 」
誰かが誰かを呼んでいた。初めて声を手に入れたように。初めて体を手に入れたように。目を覚ましたのだ。長い時を通り越して。
「 」
聞き覚えのない声だった。とても優しい声だった。つい全てを預けたくなるような、つい眠ってしまいたくなるような。そんな声が、どこからか聞こえた。とてもとても近いところから。
「 」
誰かが誰かを呼んでいた。その名前を、私は知っているような気がした。
「ハーク、起きろ、ハーク!」
バチン!
女にしては厚い掌がドールの頬を叩いた。胸ぐらを掴まれているので転がることはなかったが、宝石を入れられたばかりのドールは酷く驚いてーー瞬きをすることはなかった。そりゃそうだ、まぶたがないのだから。そのドールは清潔な白いジゴ袖のシャツと青いスカートを履いた一般的なジュエリードールに見えた。ただ、顔がないことを除いたら。
「痛い!」
ドールは丸い眼球をキラキラ透明に輝かせながら叫んだ。口がないから、音声は喉のスピーカーから出るのみである。女はーー文月往人はその全てを気にすることなく、ドールの胸ぐらをつかんだまま眉を上げた。
「痛い? 嘘つけ。ドールに痛覚があるもんか」
「確かに痛くなかったけど! 殴ることないだろ! ていうか、離せよ! 服が伸びる!」
「それもそうだな」
文月がドールの服から手を離すと、ドールは椅子から転げ落ちた。「痛い! ーー痛くないけどっ!」と叫んで、床に両手をついて身を起こす。床に触れた靴もスカートも両手も埃だらけだ。文月は「あーあー」と言いながら屈んでドールの両脇に手を突っ込むと、
「よし。出かけるぞ、ハーク」
「は? どこに!? 待って降ろして一人で歩けるーーってか、ハークって私のこと!?」
「うるっさ」
半開きだった部屋の扉を足で開けた。
スタスタと通い慣れた道を街に向かって進むと、隣をバスが通り過ぎていった。ドーリストが人類の過半数を占めるようになってから、人間の生活に昼も夜もなくなっている。日も出ていないのに道を人が歩いているし、バスだって通っている。ドールーーハークはそれを見ると、驚いたのか、文月の肩の上で静かになった。彼女の時代には、まだ夜が夜をしていたのかもしれない。30年も前のことだ。
ふ、と巨大な影に包まれる。水色と白が曖昧に混ざった空を見上げると、頭上を翼竜が通過していったところだった。真っ赤な鞄をつけている。郵便局のモンスターだ。ごくろうなことだな、と思いハークを持ち直すと、ハッとした彼女に胸を叩かれた。
「いてっ。お前、今はドールなんだから、あんまり強く叩くと折れるぞ。あたし」
「えっ、ごめんなさい……じゃなくって!!」
「何?」
「何じゃない! は な し て! 恥ずかしい!」
「ああ、そりゃあ悪かった」
文月はドールを地面に下ろした。紺色のローファーがゆったりと地面についた、と思ったら、ドールは勢いよく文月に背を向けた。ぶんっと両手足を振ってダッシュをきめようと一歩踏み出したところで、千鳥足になってすっころぶ。地面にぶつかる寸前、呆れた顔の文月がワイシャツの首根っこを掴んだ。
「ぐぇぇ!?」
「逃げるな逃げるな」
「逃げるわ! 何!? 所有するってどういうこと!? 私どうなっちゃうの!?」
「ああ、そういえばそこで話途切れてたな」
「そうだよ! 気がついたらあんたの家? に帰ってたし! なんなの!? 私で何がしたいの!?」
「いや別に何も。強いて言うなら宝石返して欲しい。ロック・クリスタル」
「あんたが勝手に入れたんじゃん!?」
「それ言われちゃあお終いよ」
よっこいせ、とハークを再び地面に立たせる。が、重心を間違えたフィギュアのようにバランスが安定せず、ハークは文月にしがみつくしかないようだった。ムッと(顔がないので雰囲気だけだが)したハークが文月を睨み、文月は(私は無害です)という顔で両手を上げた。
「うう……一人で立つことも出来なくなっちゃったし……私はこいつにいいように扱われた後に実験か何かに使われるんだ……」
「お前死にたいんじゃなかったのか?」
「安らかに気づかないうちに死にたいの! 痛かったり怖かったりするのは嫌だよ!」
「真理だな」
文月に抱きついたままそーっと爪先を地面につけてみる。ちょん、と地面の抵抗を感じてほっとしてかかとをつけると、途端に膝カックンされたように下半身から力が抜けた。三度文月にしがみつく。
「……」
「なんもしてねぇよ睨むなよ。そういやお前、本来もっと小さいものな。ほれ、あっち見な」
「うわっ!?」
文月がハークの腹を抱いて、片腕に手を添え、彼女をくるりと半回転させた。
大きなショーウィンドウがそこにあった。文月が一体のドールを後ろから抱いて映っていた。今日は黒い戦闘服ではなく、白いTシャツに緑色のカーゴパンツと茶色いサンダルを合わせていた。キャペリン(女性用の唾の広い帽子)で目が隠れていて、どんな顔をしているのかは分からない。
どこにでもいるような夏の女性の服装だったが、がっしりした体格と平均以上の握力が触れられているだけで分かりどきりとした。戦う人間の体だ。ハークが人間だった時代にもモンスターハンターという職業はあったが、病弱だったこともあり、雲の上の存在だった。
ハークは自分が入っている体を初めてしっかりと見た。身長は肉体よりずっと高く、160は超えているだろう。文月よりも少し高い。背中まである透明な髪の毛は街灯の灯りを吸い込んでキラキラ光っている。広い肩幅、細い腕、ふっくらとした胸には人間のものと同じ膨らみが二つある。大人だ。大人のドールの体に入っている。露出した膝下や腕を見ると、ところどころ不器用に補修された跡があった。顔を直していないことといい、文月は意外に貧乏なのかもしれない。
(でもそうなら、こんな人形、売ってるはずだよね?)
何故このドールは文月の家にあったのかーー
「ほれ」
文月のドールに見惚れていると、文月の骨太な指がしっかりとハークの肩を支えて、片足が軽く彼女の靴を蹴った。肩をびくつかせると、「よく見ろよ」と言って、脚の内側に脚を入れて動かす。
「ほら、動いた。分かるか?感覚は指の先っぽまでちゃんとある?上手く立てない、歩けないのは、お前の感覚が体に馴染んでないせいだよ。元の身長が違うんだから当然だ。持っててやるから、ほれ、動かしてみ」
「う、動かしてみろ、ったって……や、やりにくいんですけど……」
「離したら転ぶだろ、お前。人の体は大事にしろよ」
「……」
「はいわんつー、わんつー」
「担がれてる時より恥ずかしいんだけど!?」
「お前は本当にうるせえな」
わんつー、わんつー、と繰り返し、文月がハークの体を動かす。脚をプラプラさせ、ちょっと歩いてみたり、後ろに下がってみたり、腕を上げたり下げたり、手を開いたり握らせたり。まるで踊っているようだったーー顔が、あったのなら。私に顔があったのなら、どんな顔をしているんだろう。ハークは窓ガラスに映る目玉しかない顔を見た。
「……ねぇ。このドール、その……」
「ん?」
「……」
「何よ」
「あの。……なんで顔、ないの? これ、……出荷前の状態、だよね? でも、これ、あなたのなんでしょ?」
文月は口を閉じると、くるりと窓ガラスに背を向けた。振り返ろうとすると、ごつんと頭が頭にぶつかる。長い焦げ茶色の髪を反射させ、ハークの透明な髪の毛が黄色にピカピカ光った。
「なんでだろうねぇ?」
「ーーは?」
ぱ、と文月が手を離した。ハークの両手が自由になる。わ、と転びかける踏み出した一歩は地面を滑った。瞬間、文月がハークの手を掴む。
「はい、ターン」
くるり。
横に一回転すると、次に踏み出した足はしっかりと地面を踏みしめた。ぎゅっと文月の手を握った指の一本いっぽんにも感覚がある。に、と文月が片頬を歪め、遅れて笑ったのだと気がついた。
「もう歩けるな? じゃあ行こうか、オジョーサン?」
「ーーどこに連れてく気だよ」
「そりゃあーー」
文月が帽子を押さえ頭を上げると、少し離れたところからきゃあっと歓声が聞こえた。




