え? 異世界なのにマンホールを通るんですか?
マンホールを降りる、というのは新鮮な体験だった。ねっとりとした金属製のとっ手を掴んで、足を滑らさないように降りる。とんとんとん、と響く足音をBGMに私達は底に着いた。
マンホールの底に着いても、当然明かりはない。真っ暗な空間を勘を頼りに歩いて行く。もっとも、一見さんの私に当てにできる勘なんてないので、女のすぐ後ろにくっついていく。
生き物の気配はしなかった。こういう場所にはネズミやらコウモリやらがいると思っていたが、どうやら違うらしい。
無言で、どれだけの距離を歩いただろうか? 私は考え事のネタも尽きて、石をまっすぐ蹴ることに集中し始めた。
「あの……」
ついに堪えられなくなった。しかし、思いのほか自分の声が強く反響したことに驚いて、声は尻すぼみになった。
「何?」
「あと、どのくらいで着くのかな、と」
「うーん、どれくらいだろうね。こればっかりは運だから」
運、なのか。そういうモノなのだろうか? 帰り道の距離というものは、運によって変わるものなのか?
「この道は魔法によって作られているの。驚く? 魔法って聞いて。そんな非科学的な、呆れる?」
「いや……」
私は初めて、本格的にこの女が何を言っているのか分からなくなった。
魔法が非科学的? そんなはずはない。この世のどんな学問よりも、哲学的な存在である。
しかし、それは言わない方が良い気がした。
女は、日本人というアイデンティティーを共有できそうな存在だ。それに、そう言った共同体に私を招待しようとしてくれている……はずだ。
せっかくの繋がりを、魔法が科学的かどうかという不毛な議論で消し飛ばす意味は無いだろう。
「魔法陣とは便利なものよ。後であなたにも使わせてあげる。どのみち、この世界で生きて行くには必要なものだから」
女は魔法を非科学的といっている。魔法とは馴染みがなかったのだろう。一方で、魔法陣なるものを便利使いしている。
魔法陣とは、魔法を使えない人間に、魔法を使わせる道具なのだろう。
「それは、楽しみだ」
私は、初めて魔法を使うことを許可された12歳の日を思い出しながら答えた。
ただ、それでも私の演技は微妙だったのだろう。
「あまり驚かないのね」
と、女は残念そうに言った。
あまり、女の感情が私には理解できなかった。私を枝切れで脅した時から、そう時間は経っていない。
なのに、女は私に様々な感情を読み取らせる。多分、女も私との距離のとり方を測りかねているのだろう。
パン屋の時も思ったことだ。女は私よりこの「地域」に詳しいようだが、振る舞いはまだ幼い。
「魔法陣とは、どういうものなのか?」
私はそう聞いてみることにした。
「私も魔法陣の仕組みはあまり知らない。ただ、誰でも魔法を使うことができるようになるの。元々は魔道適正障害者向けの介助道具だったらしいってのがなんか癪だよね」
「ははっ、確かに。私たちは魔法がないのが当然な世界で生きてきたわけで、それを障害なんて言われちゃあな」
うん、多分返事はこんな感じで良い。私のいた日本では、適切な教育によって誰でも魔法を使うことができる。
魔道適正障害なんて、歴史用語だ。つまり、この世界の魔法教育水準は、私のいた日本より低い。
ここまで私は思い出して、ハッとする。
記憶が戻ってきているような気がするのだ。もちろん、まだ曖昧で、自分については何も思い出せない。
それでも、思い出してきている。私は、本来の私になりつつある。
しかし一方で、記憶喪失なんてそんなものでは無いか? というような予感が、私の楽観を邪魔する。
私が誰か? という最も重要な記憶だけは戻らない。学んできた知識や言語だけが残る。
「どうした?」
女が振り返って聞く。考えるあまり、私は足が止まっていた。
「いや、なんでもない」
私はそう答えて、早足で追いつく。
地下道が行きどまった場所にたどり着くと、女は上を指す。私も合わせて上に目を向けると、降りてきたのとおなじ、マンホールが見えた。
私達は黙々とハシゴをのぼり、マンホールをどかして地上に上がった。
新鮮で、乾燥した空気を肺いっぱいに吸い込む。
空気の味はよくわからないが、少なくとも地下道のそれよりはずっとマシなのは確かだった。
「やっと着いたね。でも、私たちの目的地に行くためにはもう少し歩かないとね。えぇと……」
そう言って、女は街の中央に見える東京タワーを指さす。そう、どこから見ても紛うことなき、東京タワーである。
「あの、東京タワーに行くのか?」
「そうそう、東京タワーは分かるのね」
女はため息をついて安心を表明する。
「まぁあれは、東京タワーもどき、なんだけどね。あそこが日本国異世界総督府。そこの役所で身分を得ないと不都合があるのよ」
「異世界総督府……?」
「あぁ、勘違いしないで。実際の日本政府とは無関係で、勝手に私達がそう呼んでるだけだから」
「随分と大層な名前をつけたんだな」
「たとえ形式的でも、私たちが私たちであるシンボルが必要なのよ」
言わんとすることは分かる。
ここにどれだけの日本人がいるかは知らないが、私と同じなら彼らも記憶を失ってこの場所に捨てられたのだ。
その中で唯一、覚えているのが日本人であるということだけ。
ならば当然、自らが日本人であり、彼らも日本人であり、「私達」を構成することが行われるだろう。
自然な成り行き。無政府主義者が見たら発狂しそうだが。
人は考える葦である、葦は根を張ることで川に流されずに住んでいるのだ。
「少し、この辺りで休む? 手続きも長くなるかもだし?」
女はそういうと、私の返事も聞かずにカフェらしき店に入っていく。随分と警戒されていないのだな、と改めて思う。
だからどうだ、という話でもないので私は女の後ろについてカフェに入っていった。
「なんか聞きたいのととかないの?」
女はマドラーで砂糖を溶かしながら言う。
「随分とフレンドリーになったよね。最初は間の抜けた木の枝なんて僕に向けてきたけど、どうして?」
なんでも良い、と言われたので私は嫌味を言った。
「私だって緊張していたのよ。今まであそこに人がいるなんて通報なかったから。敵意があったわけじゃないのよ、本当に。」
「通報? 誰もいなかったが一体誰が……? いや、そもそもあの街は一体なんだったんだ?」
「それは、私には言えない」
女は申し訳なさそうに言った。私としても、そこまで問いつめるつもりは無い。
どうせいつか分かるのだから。
「いや、いいんだ。それで、これから僕らはどうするんだ?」
「まずはパスポートを貰わないとね。これがないと、本当はこの街に入ることすら出来ないのよ」
「パスポート、というとこの街はほかと外交関係が?」
「ある、と言えばある。技術的な交流はあるけど、民間レベルでの行き来は存在しない。本来は、私たちに必要のないものよ。パスポートは」
でも、と続ける。
「パスポートに書かれた『 この旅行人に危害を加える者は、日本国異世界飛地総督に宣戦布告したものと見なす』の一文が、私達を私達たらしめるの。
私達は、自分に関する記憶をほとんど失っているの。君も同じだよね。
私達は浮浪者、この世界に家を建てても、精神的に浮浪者であり続ける。寄り添う場所がないのよ。
そういった私達を、私達が守ることを表明したパスボートは、私達にとってとても重要なんだ」
その説明は私にとって、ものすごく簡潔だった。というより、私の予想通りだった。
私とは誰か、の答えを失った人間は自暴自棄になるしかない。しかし、それは倫理観が許さない。ならば、誰かを自分で決める他ないのだ。
しかし、私は返事に戸惑う。一言二言の感想でどうにかできるほど、軽い話ではないのだ。
そして、テーブルに重い沈黙が降りる。
「名前どうする? 覚えてないんでしょ?」
重さに耐えかねて、女が切り出す。
「名前もないのに、パスボートなんて作れないもんな。どうするのが普通なんだ?」
「んー、適当に決めちゃうかな。この街に家柄とかもないから苗字なんて適当でいいし」
「じゃあ、その時までに考えておくよ」
私はそう答えて、カップに目を落とす。
名前を新しく得る、という事は元の私を否定する事だ。確かに忘れてはいる。でも、思い出すかもしれない。
今ならまだ、思い出せば元の私と、今の私は直ぐに同化できる。しかし、名前を変えてしまえば、そうはいかなくなる。
いや、そんなことを悩んでも仕方が無いのだ。新しい名前をつけざる得ない環境なのだから。
出来れば、記憶を取り戻したあとの自分が思い出しても恥ずかしくないものが良いな。
「私は舞花。花園舞花。花が好きだからって感じで。名前なんて、そんなもんでいいのよ。ここでは」
舞花はそういうと立ち上がった。
「さて、行きましょ」
ブックマークや感想などで励みをいただけたらな、と……。
ええ、まだ感想を残されるほどの内容ではないのですけどね。これからに期待してくだしぃ!