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第六話 別離の決断

 冴え冴えと輝く刀身を振りおろしたその刹那、永遠に心臓が凍る音を聞いた。


   *


 夢を視ていた。いつの間にか視ることはなくなっていた、家族の夢。その夢を、久々に、視た。けれど今回現れたのは、いつもの両親ではなく、男性の神楽衣装を身に纏った、弟だった。

 ――やっと会えた。

直彰はひどく嬉しそうな笑みを浮かべ、彰楽子のもとへと駆け寄ってきた。

 ――あの邪神、夢を視ることもさせてくれないんだもの。迎えに来るのが遅れてごめんね。

はい、と彼は彰楽子あきらこに神剣を差し出す。

『何だ、これ……』

 声が、聞こえる。彰楽子に話しかけている。いままで視てきた夢では、誰も彰楽子を認識しなかった。

 ――吃驚した? 天津神をお喚びして、神威であの邪神を抑えたんだよ。彰楽子の気配を辿って途を繋いだ。

 弟は彰楽子に無理やり宝剣を押しつける。ずしりと肩から腕に圧し掛かってくる重み。慣れた重さだ。神楽のときに自由に扱えるよう、時折本物に触れていた。弟が寄こしたのは、梓伊那神しいなのかみ夜伏神やぶせのかみを討伐する際に使用したと言われる黒鉄で造られた宝剣だった。

 それを何故自分に渡す、今更もうこんなもの必要ないはずだ。これを彰楽子に渡して、どうしろというんだ。

 ひたりひたりと予感の手が忍び寄る。

 怯えを湛えた瞳で、いや、と彰楽子は首を振る。

 彰楽子と瓜二つの面持ちをした青年はそれを引きとめ、痛いほどの力で彰楽子の両手を握った。

 ――裏切り者。二度の背信は赦さない。俺を一人残して逃げ、また役目を棄てるというのか。

 恫喝めいた声音に、ひゅっと彰楽子は息を呑む。ぎらぎらと燃える冷たい怒りを湛えた目を見る。

 ――迎えに行くから。あの邪な神を討つんだよ。

 思念が彰楽子の中で渦を巻く。

『違うの!』

 彰楽子は必死になった。

『夜伏はそんなのじゃないわ!』

 ――絆されたの。騙されたの。

 彰楽子は呆然とした。

 そうだ。夜伏だって言っていた。お前ごときの説得が、村人の安らぐ材料になるものか、と。

 夜伏神は荒神である。

 そう決まってしまった。古い歴史の中で。

いくら彰楽子が言葉を尽くしたところで、無意味だ。

 ――滅びはしない。意思表示だ。彰楽子が縁を断ち切って拒絶すれば、追ってはこられない。

『夢でしょう……? だって、もう今さらだわ。父さんも、母さんも、もう死んじゃったんじゃ、』

 ――二人を見棄てるの、彰楽子? 二人ともまだ生きてるよ。彰楽子を通してそちらの様子が視られたから、今日の今日まで無事だった。彰楽子も、夢で視ていたんでしょう。

 彰楽子は緩慢に頷いた。

 あれは、直彰なおあきの視界だったのか。道理で違和感があったはずだ。自分が自分でないような。

『二人がどうなっていたか、視ていたわ。ただの夢だと思ってたのに、』

 ――じゃあ、やっぱり俺たちは特別だね。

 同じ胎からともに産まれた、陰と陽。血の交った姉弟。その強固な血の繋がりと霊力が、互いの夢路を繋ぐほど。双子であること、それが最後の最後、奥ノ津に戻る切り札になる。

『じゃあ生きてるの……? 本当に、生きてるの?』

 肯定に途方もなく安堵して、彰楽子は膝を崩して剣に縋った。

『よかった……、よかった』

 ――でもここで役目を果たさなければ、あの人たちは死ぬ。彰楽子が、殺すんだ。

 はっとして、けれど彰楽子は言わずにはおれなかった。

『だ、けど、』

 刺す? 夜伏を? ――――この手で。

『で、できない、わ』

 ――では、彼らが死ぬだけだ。俺の目を通して、骸を視るかい。

 冷淡な言葉が降りそそぐ。その声音の温度のなさに、胸中をせめぎ合ったいくつもの感情を彰楽子は飲み込む。柄を、きつく握った。

 ――出来る、出来ないじゃない。やるんだよ。

 お前の両親ははたして生きているのか、梓伊那に訊かれたときの、身体を抉りとられるような衝撃と、こころの虚を思い出す。剣を抱き、深く俯く。こころの弱い卑怯な少女は、そう何度も家族の死は背負えない。

 梓伊那の真意は不明だったが、彼が村に何かをしようとしていることは、分かった。

 ――迎えに行く。

 彰楽子は緩慢に頷いた。

 何を迷うことがあるだろう。何よりも優先すべきものは、いつだってたったひとつだった。

(どうして、……もっと早く、)


   *


 目が覚めると、懐に堅いものを抱いていた。彰楽子はその感触に身を強張らせ、一気に脳が冴えるのを感じる。

(夢じゃなかった)

 そっと剣をとり、夜着の下深くに隠す。

 心臓が激しく脈動している。いますぐなんて、とても無理だ。手が震えて、なにもできない。共寝をしている男に思わず手を伸ばし、自分の愚かしさにへどが出た。

 なんで、いま、彼を頼ろうとする。

 自分がこれから何をしでかそうとしているか、自覚しろ。

 なのに彰楽子の気配にさとい夜伏はふっと目を開けて彰楽子を抱き込んでくる。

「どうした……眠れないか」

 眠気を引き摺った嗄れた声に、心臓が一度だけ奇妙な震え方をした。甘く崩れた声、覚束ない手つきで髪を撫でられる。彰楽子は泣きそうになる自分を叱責し、夜伏の胸板に顔を寄せた。深く息を吸い込む。夜伏の匂い、この腕の中を、居場所にできたらと思っていた。けれど今日、初めて願ったその場所を、彰楽子は永遠に失うのだ。

「夢を……視ていたの」「怖い夢か……?」

 慰めるように、夜伏は背を叩く。

「いいえ……、怖いのと、幸せなのが、一緒の、夢……」

 彰楽子はゆるゆると首を振り、ちいさくわらった。

「わたし、夜伏がはじめてだったの。いろんなことが、初めてだった。何もかも諦めてきて、諦められなかったのは、夜伏だけだった。駄目だって、知ってたのに。何かを願ったのも、役に立ちたいと思ったのも。分かってほしいと思ったのも、分かりたいと思ったのも……」

 これからもそうだと思っていた。家族や村のことを呑みこんだとき、こんな風になるなんて、思ってもみなかった。

 罪悪感を身の内に飼ってでも、夜伏と一緒にいたかった。幸せになることも、幸せにしてあげることもできない。それでも。傍にあることだけ、たったそれだけの些細を、願ったのに。

「……どうして夜伏は、奥ノ津に誤解されたまま平気でいられたの?」

「どうして? ……誰が誰を戴こうが、私がやることは変わらんからなぁ」

「さびしくないの」「さびしい?」

 夜伏はかすかに首を傾けた。

 彰楽子は手を引かれて山山を廻ったときのことを思い出していた。お互い何も話さなかった。彰楽子はずっと夜伏を誤解していた。誤解されて、嫌われて、それでも黙っているなんて、そんなのはかなしい。

 夜伏は自分のことを何も話さなかった。彰楽子がずっと見ていた背中は、さびしい背中だった。

 言えばよかったのに。自分が何者か。そうやって、自分を上げるような真似を、夜伏は一度もしなかった。彰楽子に、常に見極めさせようとした。

「……評価されたいとは思わないの。努力の分、割に合わないわ。いくらでも名誉を回復する方法はあったのに」

「……お前はやさしい子だ」

 よしよし、と頭を撫でられる。

「さびしくはないな。そうやってお前が知っていてくれれば、私は十分だ」

「……やさしいのは、夜伏のほうだわ」

 やさしくて、さびしい。

「不当に貶められたのよ。人間に。わたしに憑いても、村に行けない」

「ああ、うん……。それは、失敗だった。お前に、辛い思いをさせた」

 彰楽子はきつく目を瞑った。瞼が熱い。けれどまだ、泣くわけにはいかない。

 こんなときでも、彰楽子のことを考えようとするのだ、夜伏は。

「神さまでも、失敗することがあるのね……」

「そりゃあ、な。我々は全知というわけではないからな」

「そうだったらよかったのに……ね。そうしたら、きっと夜伏、わたしなんか助けなかったわ」

これから起こることも、きっと察することができたのに。

「わかってよ」

(わたしを止めてよ)

 全知全能の神さまはきっと、夜伏みたいにやさしくない、怖くない。誰にも関心がなくて平等で、誰にも恋しないし、誰にも恋されない。夜伏が彰楽子の思い描いていた神そのものなら、彰楽子はこんな風に脆くならなかった。

(すきになんて、ならなかった、のに)

 気づいた瞬間どぶ川に棄てるような恋だ、これは。

 夜伏に向けていた感情の量があまりにも多すぎて、隠れて見えなくなっていた恋心。本当は最初からあったのに、目を逸らし続けてきた。それがすこしの気の緩みで顔を出し、その刹那に踏みにじる。

 要らないよ、こんなもの。なんて滑稽な、人生だ。

 こんな人生、何の意味もない。夜伏に言った。そんなことはなかった。十分すぎるほど意味があった。それまでと、これからに比べれば、余程。比べることさえ、無意味なくらい。

 彰楽子は身を起こし、夜伏を仰向けにさせ、腹の上に乗り上がる。

いぶかしげな深緋こきひを見つめ、彰楽子はわらった。

――ずっとずっと、お慕いしています。……お慕いしていました。

「夜伏はとても、やさしかったのね……。やさしくて、とても強い、わたしの神さま」

 すきだなんてもうおこがましくてとても口にできない台詞だ。

 このまま何も知らずにここにいても、どちらにせよ告げなかった言葉だが。それがせめてもの彰楽子の弔い方で、家族への愛情だ。言ってしまったら、きっと彰楽子は一生自分を許せないから。

 だからきっと、もとから芽の出ない想いなのだとすれば、諦めもつく。

 わたしの神さま、それが彰楽子のできる精いっぱいの想いの告げ方だ。

 きらきらと彰楽子の人生の中でかがやく、唯一のもの。

 ――このひとを、愛してみたかった。

「嘘じゃない」

(誰が知らなくても、わたしは知ってる)

「わたしは、知ってるわ」

 彰楽子は夜伏の両眼をてのひらで覆った。

「――彰楽子?」

「目を瞑っていて、ね?」

 そっと手を離すと夜伏は言われた通り目を閉じたままだった。その素直さが嬉しくもあり、辛かった。暗くて夜伏の顔をよく見ることができなかったのが、心残りだった。

 夜着の下に隠しておいた剣を取り出す。

「あのね、夜伏」「どうした」

「夜伏はわたしの家族がどうなっているか、知っていたの?」

「いいや」

 目を瞑ったまま、夜伏は答えた。「そんな細かなところまでは分からんよ。お前のように、見ればそれがどんな人間かくらいは察せられるが」

「じゃあ生きているか死んでいるかなんで、夜伏の領分ではなかったのね」「そうだな」

 梓伊那の言葉を、確かめもせずに彰楽子は早合点していたのだ。翳の件で、学習していたはずだったのに。

「……あのね」「なんだ」

「わたしの家族ね、まだ生きていたの。死んでなかったの。わたし、二度も家族を殺したりできない」

 息を吸って、吐いて。彰楽子は言う。

「村に戻りたい」

 沈黙だった。夜伏は静かに、拒絶した。私には、出来んよ。

 そうよね、と彰楽子は呟いた。

 だったらもう、しょうがない。 しようがない。

「彰楽子、」「なあに」「何故いまそんな話をする?」

「大事なことだったから」

「彰楽子、」「なに?」

 拙いばかりの口づけを夜伏に贈る。

「……鉄の、臭いがするな」「――――ッ」

 気づかれた。気づいていたのだ。なんでもない振りをしていた。

その一言は彰楽子を震駭させたが、抜かれた刃はなめらかに鞘を滑り、闇間に光る白刃のきらめきは止められることなく深々と夜伏の腹に刺さった。

 夜伏は目を開けていた。目が、合った。

 血が飛び散り、彰楽子の白い単衣を赤く汚す。熱く錆びた血液の臭いが立ち込める。

 躊躇いなど、自由意思など持たずに生きてきた彰楽子には哀しいほど何の障害にもなれない。そうすべきだから、そうしなければならないから。それのどれほどが、真に正しいというのだろう。

彰楽子は目を伏せる。

これほどの辱めを受ける必要が、夜伏の一体どこに。

(でもわたしはあなたを不幸にするだけだから)

「……夜伏神、あなたとの誓約を、ここで正式に破棄させていただく」

(こんな誓い、ないほうがいいんだ)

「ぐ――――ッ、」

 刀身に鮮やかに浮き上がる呪が夜伏を苦しめている。その上黒鉄の剣であり、扱うのが霊的な質が高い巫女であれば。剣を媒介に引き出された彰楽子の霊力。不自然に巻きあがった風に単衣の袖が煽られ、乱れた髪が身を切らんばかりに頬を叩く。身体中から溢れ出る何かを、彰楽子は痛烈に意識した。これが、自分の力なのだ。まるで水のよう。刃へと寄り集まって流れ込み、黒鉄の毒をより強めて夜伏の身体を侵していく。

 人の肉を断つ感触を、彰楽子は夜伏で初めて知った。自分という人間が、どれだけ平坦で、温度のない声が吐き出せるかも。酷薄な微笑が面に乗る。人形に戻った彰楽子に、感情など煩わしいだけだ。夜伏の顔が苦悶に歪んでも、彰楽子の表情は変わらない。心をここに置いていく。彰楽子だったものは。

 その瞬間、凶暴な意思が自分の中身を支配した。彰楽子はぞっとする。身体が、勝手に動く。自分のものでなくなっている。頭の中に充ちる、この夜伏に対する呪詛はなんだ!?

 自分の声じゃない! わたしの意思じゃない!

(――――直彰!)

 直感した。

 止めて! 叫んだ声は音にはならない。操られるように動いた腕は、より体重をかけ、深く剣を突き刺す。腹を貫通し、その先の敷布までをも貫く。少女の細腕からもたらされたものとは思えぬ尋常ならざる怪力。彰楽子の氣に混じって漂う、彼女に近しく、けれどまったく違う霊力。

「『我らの勝ちだ。報いを受けるがいい、悪神め』」

 彰楽子の口を次いで出る、意思の伴わない言葉。

「あきら、こ……」

(やぶせ!)

 夜伏が呻く。首を振りたかった、否定したかった。凍りついた目で夜伏を見つめる。

 噛み締められた奥歯、咽喉から絞り出される呻き。腹部から溢れる血は、周囲の暗さに相まって、どす黒い。剣先を沈められた箇所から、じわじわと赤い文様が夜伏の身体を這っていく。彰楽子に向かって彷徨わされた指先に、絞殺してくれと縋りつきたかった。このまま返す刀で首を斬れたら。

 けれど夜伏に対峙する彰楽子は、夜伏を見つめ片頬で嗤う。「『いい眺めだ』」

「……まった、く、胸糞悪い、――血の因果、だ、」

 唸り、夜伏は血の塊を吐き捨てる。

 苦しげに身体を強張らせ息を詰めると、顔を上げた。やさしく彰楽子の頬を撫で、くちびるに朱を引き、肩を押した。

指はいつものように荒れた感触を彰楽子の頬に遺さなかった。ぬるついた血の感触だった。夜伏に触れた最後の記憶がこれではあんまりだ。罪は鉄錆の味がした。

「……はな、れろ。――――持たん」

 空気が重く停滞する。それはなんの合図なのか。

 柄から指が離れた瞬間、決定的に彰楽子から引き千切られた、夜伏との繋がり。身体の半分を奪われた苦痛と全身を覆った虚しさに、どれほど彼と深い繋がりがあったのか教え込まされる。こんな虚ろを抱えて、今まで自分は生きていたのか。恐ろしいほどの孤独感。どれほどのものを夜伏が埋めてくれていたか知る。

 顔まで侵蝕しようとする赤の紋様、がぼりと流れ出る血。身体が変形して鱗が浮き、ぼろりと崩れてはまた生える。

 闇間に映える深緋の瞳が歪められ、逆流した血が口端から溢れる。

「やぶせ、」(死んでしまう)

滅びてしまう。あんなに深く刺してしまった。凪いだこころが束の間動く。引きとめる力よりも、彰楽子の意思が勝った。

「ッ夜伏!」

追い縋ろうとして、強い力で突きとばされた。半眼で彰楽子を睨みつける男。突き放されたような気がして、呆然とする。

「まきこま、れる、ぞ……」

 押さえが効かないほどの神威が、徐々に夜伏から漏れ出していく。耐えるように夜伏が瞼をきつく閉ざした瞬間、彰楽子の心は抑え込まれた。彰楽子の躯は部屋を飛び出した。女衆とぶつかりそうになる。背後で起こった爆発。建物中が振動し、壊れる。

 近くで落雷が起こり、一瞬鮮烈な白が視界を焼いた。はっと彰楽子は我に返る。

「ッ何事です、御子よ!」「その血は!?」「まさかお怪我を!」

「……ごめんなさい」

 抑揚なくそれだけを口上し、彰楽子は誰の顔も見ずに走り去った。会わせる顔がどこにもなかった。

庭から木戸を潜って森にでる。初めのころはどこがどこだかさっぱりわからなかったのに、いまでは最短距離さえ知っているのだ。

 壊れた館から現れた夜伏の蛇体を、彰楽子は一度も振りかえらなかった。見れば自分が保てなくなりそうだった。

 空は稲妻の輝きに埋め尽くされ、豪雨が降りそそぐ。

 叩きつける雨のなか、そぐわぬ美しい声が息を荒げて走る彰楽子を引きとめた。

「やはり、お前はそちらを選んだね」

大声で呼ばれたわけでもない、それでも自然に泥を跳ねる足は止まり、その神に向き直る。

梓伊那神しいなのかみ……」

 荒れ狂う嵐のなかにいても、梓伊那はすこしの影響も受けることなくそこに立っていた。透徹とした眼差しを受け、彰楽子は爪先に視線を落とす。

「夜伏と生きるんじゃなかったのか」「家族を、……二度も見棄てられません」

 彰楽子の声に覇気はない。濡れて頬に張り付いた髪を、払いのける気力さえない。

「わたしみたいにただ流されるだけだった人間が、何かを望むなど過分なことだったのです。卑怯なのです。不幸にしかなりません。大それた夢を見てきました……」

「お前、夜伏以外のものになる気なの」

「村がそう言うから、そうなります。……そもそもあなたが夜伏を抑えているから、わたしがこうしていられるのだと、聞きました」

「興味を持ってしまったからね、お前に。気になって色々と手を出してしまう。お前がどうするか、試したんだよ」

「……そうですか」

ふいと彰楽子は歩きだした。その背に、梓伊那の声が投げられる。

「真摯に祈りなさい。その祈りが真実であれば、叶うだろう」

 彰楽子は返事をしなかった。もう彼は、縋ってもいい神ではないのだ。夜伏は。彰楽子の唯一は。

ふらふらと覚束ない足取りで、荒れた山のなかを歩いた。裸足の足がいくら傷ついても、すこしも痛くはなかった。夜も深い時刻、翳は彰楽子を喰おうと追ってきたが、少女にとってもうそれは畏れるものではない。皮肉にも、夜伏と対峙してはっきりと知ってしまった。自分が巫女であることを。その力の奔流を。その力がどれだけのものを祓えるか。

 しばらく行くと、久方ぶりに会う弟に行きあたった。手には長く編んだ縄を握っている。長く伸びた先はふつりと闇の中に消えていた。

「無事で、彰楽子」「うん……」

 手首を、取られながら彰楽子は短く返事をした。「よく帰って来たね。皆、彰楽子が逃げたとひどく怒っていたよ。もう少し遅ければ本当に二人は殺されかねなかった」

「……逃げたわけじゃない、わ」

「……知ってるよ。夢で、視た。抵抗しようとしていたのも、知っている。でも段々絆されていたでしょう。あの人たちが死んだと聞いてやっと、また夢を視たいと思うなんて。まあそちらからあの邪神の結界を祓ってくれたお陰で、俺はこちらに来ることが出来たわけだけど」

 何を視たの? と直彰は嗤う。

「よほど都合のいいものを視ていたみたいだね、彰楽子」

 直彰は雨をよけるように目もとに手をかざしながら、空を見上げた。

「……すごいね。神というのは。こんな天変地異が起こせるんだ。神と言うより、まるで悪鬼だ。鬼神かな」

「……苦しんでいるの」

「当然だよ。彰楽子を奪ったんだ。それ相応の覚悟はしてもらわなくちゃ。滅びてくれれば本望だ。彰楽子が無理強いされそうになったのを見たときは、焦ったよ」

「……大丈夫だったわ」

「うん。でも危ないところだった。あんなものに穢されていい彰楽子じゃないだ」

「直彰、……変わった。なぜ。どうして……夜伏、を!」

 そんな卑下た口の聞き方をする弟ではなかった。あんなひどいことを出来る子では。

 直彰はくちびるを曲げて哂う。

「変わった? 彰楽子が俺の何を知ってるって言うの。ずっと俺を放って、覚えてすらいなかったくせに」「っそれは……」

 ぐっと手を握りしめられる。乱暴に腕を振るわれ、彰楽子は俯いていた顔を上げた。

「それに、刺したのは彰楽子だ。俺はそれをほんの少し手伝っただけ。二度と彰楽子に手出しできないように」

 その言葉に姉の瞳が幽かに歪み、身体が震えたのを直彰は知る。

「……彰楽子も変わったね。俺はずっと彰楽子を知ってた。ずっと視てた。離れてるあいだも、ずっと。何にも興味ない顔をしていたくせに。まさかあれを愛してるなんて言わないよね」「……あれって、言わないで」

「それは肯定!? 彰楽子、自分が何なのか分かってる? 天津神の巫女姫だ! 清らかでいてくれないとダメなのに、あいつにキスさせたろ!」

「ふ、不可抗力、で……」

 腕を掴まれながら、彰楽子は身を引いた。怖い。ぼんやりとしていた脳が、覚醒する。ずっと視てた? どういうことだ。激昂する弟の目に燃える炎の種類に見覚えがある気がして、そんなはずはないと瞬時に否定した。「痛い、直彰……」

 彰楽子は声を絞り出した。直彰は顔を背け、力を緩める。

「まあ、いいよ。奥ノ津に帰ってしまえば、もうあいつに手出しはできない。まあ、自分を刺した女なんて追いかけてきたりしないだろうけど」

「……こ、ここからは、出られないって」

 直彰は嗤って手にした縄を持ち上げる。

「本当は出たくないんじゃないの。……何にも手を打たずに、来たわけじゃない。この縄には呪がかかってる。間違いなく、他界に迷っても帰ってこられるよ。人間だって、いくらでも神に対抗できる。彰楽子がそうであるみたいに。俺だって男だけど、巫女の血を引いてるんだ。――帰るよ、彰楽子」

 たたらを踏むように数歩進む。土砂降りでぬかるんだ地面を、足を引きずりながら彰楽子は歩いた。黙って腕を引かれたけれど、彰楽子が終と決めたのは、本当はこの異界のはずだった。まだそんなことを考えている自分が、愚かしくておかしい。

 けれどもしたったひとつだけ願えるなら、いますぐ夜伏がこの場に現れて、彰楽子を喰い殺してくれればいいのにと、ずっとそんなことを思っていた。




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