第四話 誓いと天秤
彰楽子はひとりで館を抜け出す。かれこれ何日も同じ行動を続けているが、岨野たちが彰楽子を咎めることはしない。彼女らは彰楽子が館を出ようとするのを見かけると「行ってらっしゃいませ」と見送ることすらあるわけで、夜伏が都度公言している通り、散歩だと思われているのかもしれなかった。夜伏がすぐに追いかけてくるが、すこしの間であれば彰楽子ひとりでも危険はない。
夜に外に出ようとすることがあれば一歩踏み出した時点で阻まれるので、どれだけ敏感なのかと彰楽子は呆れる。翳は夜になると活発さを増す。
彰楽子と夜伏の寝室は同じだ。夜伏の部屋を彰楽子が間借りしている。他に部屋が欲しかったが、進言するとにべもなく却下された。いわく、通うのが面倒、だと言う。なぜ一緒に寝るのが大前提になっているのかと彰楽子は渋面になったが、彼のなかではすでに決定事項のようだったから、ことを荒立てるのが面倒で口を噤んだ。別に、彰楽子にとって不都合な事態が起こるわけではない。
そういうわけで夜に出歩くのは不可能だった。彰楽子が身を起こした段階で夜伏も目を覚ます。手洗いだなんだと誤魔化しても、ついてこようとしたりするのでまったく油断がならない。
必然的に監視なく動き回れるのは日中だけで、彰楽子はその短い時間を有意義に過ごすしかなかった。屋敷の敷地から僅かでも抜けると、そこから翳がぞろぞろと集まってくる。彰楽子の視界に直接入ってくることはないが、木の陰草の陰から覗かれている自覚はある。日が下るごとに近づいてくるので、つまり、そういうことなのだろう。
ある程度時間が経つと夜伏が地響きとともにやってくる。お陰で蛇身もすっかり見慣れてしまった。
夜伏は朝餉が終わると出掛けていく。詮索する趣味はなかったが、理由は岨野が教えてくれた。夜伏はこの御山を守護する神なので、御山に異変がないかを巡回したり、住まうものどもをおとなったりとそれなりに忙しい立場らしい。御山は夜伏神そのもの、ある程度は察しがつくが、細かなところまで気をやるには神経を使う。だから自分の目で確かめる。神とは偉そうにしていればいいだけではないのだな、と彰楽子は思う。
サラリーマンの外回りみたいだ、と自分の想像に彰楽子はすこし笑った。見目も体格もよい男だが、かっちりとした背広は彼には似合わない。
自分の噴き出した声に彰楽子は我に返り、呆れて口を引き結んだ。
……このところ、こうして他界にいる現状に彰楽子は慣れつつあった。『散歩』に出るのは当たり前になり、しかし村に戻るための手掛かりも見つからず、偶然に戻ることもできない。そもそもどうすればいいかわからず闇雲に歩いているだけなのだからそれも当然で、夜伏に『散歩』と揶揄られても実は仕方がないのだ。
手作業化した工程に、彰楽子はもちろん焦燥を感じている。そろそろこの方法にも見切りをつけるべきで、現状を打開する新しい策が必要だ。
それでも時間の境目があいまいなこの穏やか過ぎる世界で、何に焦っていたのか、不意に忘れることがある。そして何十倍もの恐怖を伴って、身体に帰ってくるのだ。その瞬間、彰楽子は呼吸を失くして立ち尽くす。
自分がどれほど無責任で薄情か、思い知らされて。
現状に甘んじて、諾諾と夜伏の傍にいるということは、村と両親の命を裏切ることと同意だ。
もう殺してしまったかもしれない、自分が他愛ない想像に浸っている間にも。毎夜見る夢、日中のまぼろし、ちらついていた光景は、気づけば見なくなっていた。それがより、忌まわしい現実を裏付けているようだった。
夜伏は彰楽子の手を引き、いろいろなところに連れていった。色とりどりの花が咲き乱れる野原、景色の美しい峰、愛らしい動物たちとたわむれることもさせてくれた。山中他界にはすべての四季が詰まっていた。下界は冬になろうとしているのに、彰楽子は湖で水浴びができた。
時間の概念を越えた、人の世の暮らしではなかった。彰楽子が連れて行けと言ったわけではない。けれど安穏とした幸福だけが満ちた世界は、彰楽子から使命を剥離させていく。
後から追いかけてくるくらいなら初めから彰楽子を連れていけばよいのに、と彰楽子は夜伏が上午にしていることを知ったとき、呆れて零した。もちろん実際にそれを望んでいるわけではない。岨野は笑った。
『ここらは比較的安全ですが、人の子が容易に行ける場所ばかりではありませぬゆえ』
――彰楽子は大切にされている。
それは決して自身に向けられたものだけではないけれど。
だから彰楽子は必要以上に夜伏と口を利かないように努めた。あてどなく彷徨い歩く彰楽子を見つけ、人型になり、手を絡める男に、黙って引かれていた。
そうしているあいだに、徐々に男のやり方に嵌められて、夜伏とともにいることに何の疑問も抱かなくなるのだとしたら、それはとても恐ろしい未来だった。男のことなど、これ以上何ひとつ知りたくなかった。一刻も早く、このやさしい世界から、消え去ってしまいたかった。その方法が、知りたかった。
「……」
彰楽子は意を決し、背筋を伸ばした。ぐるりとあたりを見回すと、そこここに息づく翳の蠢き。見つめるだけで体温が数度下がるような錯覚に襲われる。日中は近づいてこないと判っているから意識しなければさほどでもないが、やはり正面に据えると足がすくむ。
けれど散々山を歩き回ってなにも利益がないと判明したのだから、できる手段は講じる必要がある。
委縮する声帯から、彰楽子は無理やり声を絞り出した。決して怯えを悟られてはならない。怯えるとこいつらが喜ぶのは初めて出遭ったときに見当がついている。虚勢は尊大さを呼び起こした。
「ねえ、お前たち」
呼びかけに、ざわりと闇が容を変えた。呼ンダ? ネエ呼ンダ? と囁き交わす声。
「そうよ、翳たち。お前たちを、呼んだの」
〈ナアニ〉
「聞きたいことがあるわ」
〈……ナアニ〉
応える声が、すこうしだけ意地悪くなったような気がした。躊躇う気持ちを叱責し、続ける。ぐっと拳を握りこむと、冴え冴えとした気配が胸元に込み上げた。急激に頭が冷え、普段の自分とは違う、物事を高次から見下ろす視線が芽生える。他界に来てから時折ふっと顕れる、自分。
「人里に、下りる方法を知らないかしら。奥ノ津に行きたいの。知っているなら、教えなさい」
〈人ノ国ニ?〉
「そう。知っているの?」
〈ナニカ、呉レル?〉
〈チョウダイ、頂戴〉
「……何を?」
彰楽子は眉を顰めて訊き返した。自分の身体を見下ろすが、彰楽子は身ひとつだ。
「わたし、なにも持っていないわ」
〈持ッテル〉
〈持ッテル持ッテル〉
「……なにが欲しいの。望みがあるなら、さっさと言いなさい」
はぐらかすような口ぶりに彰楽子は苛立つ。早くしなければ、夜伏が来てしまう。傲然と彰楽子は言い放った。足を踏み出すと、仰け反るようにざわりと一斉に翳は彰楽子から距離を取る。
〈サスガ巫女サマ、〉〈情ケ深イ〉〈ケド怖イ〉
〈怖イ怖イ〉〈滅ボサレソウ〉
「何を言っているの? 言っておくけど、わたし、もう誰の妻にもなれないわよ」
夜伏の妻になるのだから。そこまでを考えたところで、でも奥ノ津に戻れば、その関係性も消滅するのだった、と彰楽子は気づいた。とはいえ奥ノ津にいるためには彰楽子は清らかなままでいなければいけないので、だれのものになるわけにもいかないのだったが。
〈髪ノ毛、爪、歯、ドレデモイイ。血、眼ノ玉、モットイイ。欲シイ〉
要求する内容に怖気を覚えながら、彰楽子は目を眇めてそれをやり過ごした。
「……とんでもないものを欲しがるわね、お前たち」
要求は無茶なものばかりだ。だが髪と血……一体どのくらいの分量がいるのだろう。量によっては、少々痛みを我慢すればいい。
「どれくらい欲しいの。髪って、一本でいい?」
肩に掛かる髪をつまんで、彰楽子は訊ねた。
〈ダメ、モットイッパイ、束クライ〉〈ゼンゼン足リナイ〉
「そう、」
彰楽子はじっと己のてのひらを見つめた。
髪は束くらい欲しい。髪より上等なものは血。だったら一滴二滴とは言わないまでも、そこまで大量に要求しているわけでもないわけだ。
「……だったらちょっと待っていなさい」
先の鋭い小枝でもあれば、すこし指先を切って血を出してしまえばいい。そう決めた彰楽子の背中に、突如「おい」とひとの声が投げられた。「止めといた方がいいと思うぞ」「ひッ――!」
彰楽子は思わず縮みあがる。鮮明になっていた脳が、現実に帰ってくる。
声は男性のもののようだったが、それは彰楽子のよく知る夜伏のものではなかった。快活で明瞭な発音、明らかに夜伏より音域が高い。
「っだれ、です、か……」
おそるおそる振り返った彰楽子は、そこにいた人物があまりに美人だったので目を見張った。人の領分にある美しさではない。
天使だ、と瞬時に彰楽子は思い、いや神だ、と訂正し直す。だとしても、日本の神ではなく、ギリシア神話やローマ神話に出てくるような、中性的な優美さだった。
ふわふわくるくるの髪は綺麗な乳白色で、頬に掛かる程度。肌は抜けるような白い。ぱっちりとした二重瞼の瞳は深い翠色をしている。血色のよいくちびるをきゅっと引き結んで彰楽子を見ていて、すらりとした立ち姿はどこから描いても最高の傑作になるだろう。
「なんで翳なんぞに頼みごとをしとるんだ? 馬鹿か?」
身につけているのは衣一枚、それを腰帯で結んでいるだけなのに、この匂い立つような美しさはどうしたことかと彰楽子は戦慄した。質問を無視されても罵倒されても腹が立たない。ただ歩いているだけなのに、そこから芽が萌え出で、花が咲きそうだ。神ってすごいな、とそんなところで逃避しそうになっている思考が、感心した。
夜伏がその名の通り、夜を体現する容姿なら、この神は光そのものだ。
「少々……、所要がございまして……」「翳に所要!」
鼻で嗤い飛ばされた。
「奴らに聞いて、どうする。翳はそんなもの知らんよ。山中他界に迷い込んだ人の為れ果て、出口が知りたいのは奴らの方だ」
彰楽子は気持ちがしぼんでいくのを感じる。
「でも……、翳は教えてくれるって言ったんです」「本当に?」
彼はほんの少し邪気を含ませた目で彰楽子を流し見る。
「本当に奴らはそう言ったか? 翳は人の国に降りる方法を知っているとも、教えるとも、はっきりとは答えなかったはずだ。お前が勝手に思い違いをしたんだ」
そう言えば、確かに翳はひと言も明言はしなかった。
「お前を生かしておく気もなかったろう。束とはいくつだ? 一束、二束? 一束はどれくらいだ? それに見合うだけの血の量はいくらだ? 曖昧なことを言っていると貪られて死ぬぞ。死ぬのはお前が対価として寄こした分なのだから、翳に非はない。お前が生きていてこそ、聞ける答えだ」
彰楽子は咄嗟に翳を見た。
ザンネン、ザンネェン、と口口に囁きを交しながら翳は無知で無防備な彰楽子を嗤う。ぞっとして、今になってとんでもない契約を持ちかけようとしたのだと気づく。
無言になった彰楽子に、青年は慰めともつかない台詞を寄こした。
「人の身で、山中他界からは出られないぞ。諦めろ。入るのは容易いが、出るのは厳しい。――まあ、方法がないでもないが」
彰楽子の耳は、はっきりとその言葉を拾った。
「あるんですか!」
「聞いたところでどうする? お前が実行できるわけでもない。無駄だよ」「それでもいいです、教えてください!」
食ってかかる勢いで、彰楽子は彼に迫る。
「面倒は嫌いだ」
きっぱりと彰楽子は跳ね付けられる。
「お前が僕のものになると言うのなら別だけれど。なんでもない奴に、力は貸せないよ」
「それは……」
彰楽子は言葉を濁す。「僕は梓伊那だ。梓伊那神。お前の、名は?」
「あ、――えっと、」
開こうとしたくちびるを、もう一度彰楽子は閉ざした。駄目だ、と本能に限りなく近い部分が警鐘を鳴らす。それは、夜伏のときに感じたものよりも、より強い、警告。ふと、空が陰った。
「――――妻に近づくな」
梓伊那と彰楽子のあいだに、蛇身の夜伏が落ちてきた。地響きに彰楽子は足を滑らせ、一瞬で人型になった夜伏に支えられる。
「――なにしに来た、梓伊那」
彰楽子を自分の背後に押しやりながら、夜伏は唸った。警戒心を剥き出しにする男とは正反対に、梓伊那はあっけらかんとしている。
「余裕がなさすぎじゃあないのか。妻娶りすると聞いたから、見に来たのだ。お前は僕に招待を寄こさなかったからな」
「ならば役目は果たしたろう。帰れ」
「つれないな。僕から巫女を奪っておいて」
夜伏の背が強張った。その意味に気づいたとき、はっとして彰楽子は夜伏の顔を覗き、続けて梓伊那を見た。
梓伊那はやわりと笑う。
梓伊那、そうだ。思い出した。神社縁起に夜伏とともに刻まれているという、彼の神の名は、確か、梓伊那とは言わなかったか。
「私の、妻だ」
語気を強めて夜伏は言った。その語尾が心なしか彰楽子には震えて聞こえた。彰楽子の右手首は、痛いほどきつく夜伏に握られている。
「そうだな。誓約をしたらしいから。でもお前のしたことは変わらないぞ。ここは僕の土地だ」
「治めているのは私だ。譲ったことをここまで後悔した日もない」
「後悔先に立たず、だ。人間も巧いことを言う」
けらけらと夜伏を笑い飛ばし、梓伊那は真顔になった。
「今更返せという気もないが――、しかしまあ、子どもは本意ではないようだぞ。翳にまで帰りかたを訊いていた。お前を引き離すのは面倒そうだが、この子どもならば骨を折ってもいいな。この上質な氣。生まれ持ったもので、これほどとはすばらしい。それに僕好みの容姿をしている」
「梓伊那!」
「怒鳴るなよ、煩いな」
梓伊那はひょいと肩を竦めた。「引きとめるなら、子どもの方だろう? ――どうだ、来るか?」
後半の台詞は、彰楽子に向けられた。彰楽子は息を飲んだ。夜伏の顔が見ていられない。軋むほど腕を握りしめられているのに、彰楽子は離して、とも、痛い、とも言えなかった。告げてしまえば、終わりな気がして。終わり? いったい何が。
ここにあるのは、何情だろう。彰楽子には夜伏が行くなと言っているように思えた。そして、自分がどうしたいのかも、分からなくなった。急なことに声が咽喉にはりついて、うまく出せない。こんなことは想像もしていなかった。突然のことに、こころがついていかない。
「わ、たし、」
目の前にいるのは誰だ。
引きとめているのは、誰だ。
自分の成せねばならぬことは何。 「……彰楽子、」
掠れた声で、呟かれた。
そのとき心臓を握りつぶされたような気がしたのは、夜伏に名前を呼ばれたからか、それとも別の要因か。そこに巣食っているのは、何の情。
お 前 は 誰 の も の だ っ た ?
最大の好機がここにはあるのに、どうしてだか動けない。あんなに戻らなければと思っていたのに。
夜伏を前にして、裏切るような真似はできない。優先順位がどちらなのか、きちんと理性は知っているのに。
「――たすけて、」
俯いて、声を絞り出した。それが精いっぱいだった。
ふと腕の痛みが和らいだ。かわりに痛んだのは胸だった。慌てて夜伏を見上げると、怒りを滾らせた酸漿色の瞳が、彰楽子を見下ろしていた。
それに、なぜか彰楽子はひどく安堵した。首根っこを引っ掴まれ、肩に担ぎあげられる。
「梓伊那、帰れ!」
怒号一声、夜伏はそれ以上彰楽子にも梓伊那にも喋らせず、彰楽子を屋敷に連れ戻した。
*
家人への応対もそこそこに、彼らを散らした夜伏は彰楽子を手近な部屋へ引っ張り込んだ。板敷の床に手荒に下ろされ、彰楽子は尾骶骨に直接響く痛みに文句を言おうと生意気に顎を持ち上げる。直後にその気持ちも萎み、彰楽子はさっと目線を自分の膝に落とすとぎこちなく居住まいを正した。
――そのような場合ではなかったのだ。
裾を何度も引っ張って正し、膝を押さえて逃げ場のない自分の気を奮い立たせる。
夜伏の感情は完全に怒りの方向に振り切れていた。威圧を纏った男は、ただでさえ常人より大きな身体が余計膨らんで見える。圧倒的な体格差があり、怒気を隠そうともしないというのはもうそれだけで彰楽子にとっては暴力だ。少々荒く扱われただけで気持ちは委縮してしまう。もし殴られでもしたらひとたまりもない。
しかし、実情は想像よりも悪かったのだ。
「――梓伊那がいいか」
落ちてきた言葉に、一瞬で彰楽子の身体はすくみあがった。何を言われていたとしても、彰楽子の身体は反応しただろう。それだけ身体は正直だった。いくら彰楽子が反抗心を燃やしても、意味はない。
「答えろ、梓伊那のほうがよかったか」
腹の、深い場所に突き刺さる重低音だ。その音で、彰楽子を支配しようとしている。
彰楽子は何度も呼吸を整え、ようよう声を絞り出した。「……違う」
「何が違う」
「そういう……問題じゃ、ない」
「ではどういう問題だ」
夜伏は絶対に、彰楽子が逃げるのを許さない。追及の手は厳しいままだった。
「あのひと自身がどうだとかいうわけじゃない。でも、――わたし、は、」
どうして自分はこんなにも絶望しているのだろう。
夜伏がこうして目の前にいるのだから、梓伊那が実在していたって当然だ。喜んでいいはずなのに、あの手を取るべきだったのに、彰楽子は選択を誤ってしまった。
梓伊那は彰楽子の神だ。
実質彰楽子が梓伊那に対してどんな感情を抱こうが、梓伊那が奥ノ津の祭神である限り、彰楽子は決して夜伏を認めてはいけないのだ。
「――――奥ノ津の、巫女、だ……」
裏切ってはいけない、裏切ってはいけない、決して。この身は誰のものだ。問うまでもなく、分かり切っている。奥ノ津に縛られた、奥ノ津の。
「お前は私のものだ」
言葉の底に、なみなみと怒りを湛えた、静かな声だった。は、と彰楽子は息を詰めた。「誰にもやらん。梓伊那にも。お前を助けたのは誰だ? 私だ。梓伊那ではない」
夜伏は床に腰をおろし、彰楽子の顔を無理やり上向けた。冷たすぎる手の温度。昏く輝く光彩を間近で見た。
「――誓いは、果たしてもらう」
頬に添えられた右手が首筋を辿り、彰楽子の薄い腹を撫でる。「――や、ぶせ?」
彰楽子は上ずった声で、男を呼んだ。男は目線を絡め、やさしく彰楽子にわらいかける。酷薄さしかない、笑みだった。
全身の血が下がり、彰楽子は男から距離を取ろうとした。けれど男は薄っぺらい笑顔を張り付けたまま少女を引きもどす。
「……後戻りできぬところまで、引き摺り堕としてやる」
軽く腹を押す、その仕草にどんな意味が隠れているのか。答えはすぐさま教えられた。肩から着物を抜かれ上半身が一気に顕わになると、彰楽子は声もなく悲鳴を上げた。慌てて胸元を覆い隠し、身体を丸める。頭が混乱していて、処理が追い付かない。なんで、どうして。約束、したのに。夜伏。剥き出しの背骨を指で辿られて、彰楽子は大げさなくらい身体を跳ねさせた。
「っひッ」
そのまま夜伏はたわむれのように五本の指を背中に滑らせてくる。手触りのいいその感触を楽しむように、ゆるゆると。そのたびに彰楽子の身体は恐怖に固まった。
逃げたい、逃げられない。
かすかにでも隙を見せたら、そのときは。
「やく、そく……まも、って……」
切れ切れに彰楽子は懇願した。あの水辺で感じた予感が再び体内に蘇る。夜伏は彰楽子を奪うつもりだ。
「こんれいのひ、まで、しないって、いった……ッ」
「お前が約束を守らぬのに、こちらが守る義理がどこにある。端から私に抱かれる気などさらさらなかったくせに。お前は奥ノ津の巫女だからな。だがまだ自覚がないのが、幸いだ」
嫌味たらしく、夜伏はくちびるを曲げた。
「生娘でなくなれば、巫女の資格も消えようて。そうすればお前も諦めるだろう。めでたい日に痛みで喚かれても都合が悪い」
「そんな理由……!」
「何が悪い」
夜伏は平然としたものだった。
「私はお前が欲しい。お前を縛る鎖があるなら、壊すまでだ」
しゅる、と空気を滑る音がして、彰楽子は身体がすこし楽になったことに気づいた。前も後ろも、緋袴の帯が解けている。すとんと身体から落ちていこうとする緋袴を押さえた隙に、夜伏は今度、白衣の腰紐を緩める。阻む前に胸元が大きく肌蹴て、夜伏は最後に襦袢の腰紐まで自由にした。焦れば焦るほど空回り、襟を正そうとするとその隙に紐は完全に抜かれ、夜伏の手に渡った。
「かえっ、して!」
前をかき合わせ、彰楽子は夜伏に手を伸ばす。夜伏は素直に帯を渡してくれ、彰楽子が気を緩めたその僅かな隙に、男は簡単に少女の細腰を捕えた。
「っわ!」
彰楽子は成すすべなく夜伏の懐に転がりこむ。
夜伏の膝に乗り上げ、胸板に手を当てた自分。装束は当然乱れ切っていて、ほとんど全身を夜伏に曝してしまっている。しかも、こんなに、近くで。
彰楽子は最早、この事態に呆然とするしかなかった。夜伏が前をすこし払うだけで、かろうじて隠れたすべてもあらわになってしまう。
襦袢の下は裸で、身を守るものは何もない。あまりに無防備すぎる姿だ。
動いたら終わりだと思うのに、あまりのことに彰楽子はへたんと腰を抜かした。
ゆるく腰に宛がわれた手を痛烈に意識する。
この手が次にどんな動きをするか、想像するだけで咽喉が干上がる。
隠したい、身体が動かない。
強張った指先を精いっぱいに突き放すと、男の身体はびくともしなかった代わりに、彰楽子が後ろに傾いた。夜伏は慌てた様子もなく少女の頭を支え、己の懐に囲い込む。
誰も触れたことのない、真っ白な肌が夜伏の前にさらされた。幼すぎる躯に萎えてくれれば本望だが、その気配はなかった。白くほっそりとした太股に絡みついた緋袴の対比を眺め、目を細めただけだった。
かすかなふくらみしかない乳房と乳房のあいだを、ささくれた指が撫でていく。腹までまっすぐに滑り、臍のくぼみを引っかく。ひく、と躯が反応する。
夜伏はずっと彰楽子から視線を外さない、彰楽子も、その視線を逸らすことができなかった。じつと見つめてくる眼差しは、何の感情も湛えていない。
「……こ、これいじょう、したら、夜伏のこと、きらいになる」
彰楽子は切れ切れに口にした。しかしすぐにそんな台詞は何の抑止にもならないことに気づく。夜伏に言われるまでもない。夜伏は別に、彰楽子のことなどすきではないのだから。
「なればいい」
男の返答は明瞭だった。その明快さに、はっきりと彰楽子は傷ついた。
「口がうまい子どもだな、彰楽子。だがお前が一度でも私を嫌わなかったことがあったか? 助けたときだけだ、好意を向けられたと思ったのは。これ以上に嫌われた所で不都合はあるまいよ」
そうやって彰楽子の素肌をいらう手に、少女はただ純度の高い恐怖だけを募らせた。
「や、やぶせ。ちゃんと、はなそう。こんなことしても、いいこと、ない」
「お前が手に入る。都合が悪いのは、お前だけだ」
「こんなの、ちがう。こんなの、」
彰楽子はゆるく、それでも必死に頭を振った。「ごめんなさい、謝るから、怒らせたなら、謝るから。夜伏はわたしをそんな風に見ないで……っ」
さわらないで。
そこから穢れたような気持ちになる。
夜伏のことは嫌いじゃないのに、こんな形で求められたら、どうしても錯覚するのは村人たちの視姦する眼差しだ。それが、実害をもって襲ってくるのだ。夜伏の手は村の男たちの手になる。そのときから、夜伏は彰楽子を助ける手ではなく、襲う手になるのだ。
いやだ、夜伏を嫌いたくない。
「っ夜伏は……っ、綺麗なままでいてよ、やさしい人のままでいてよ。わたしに好きだって思わせててよ! なんでそれくらいのことができないの……!」
ひどい言い分だ。けれど彰楽子は夜伏を諦められない。最初から、やさしかった夜伏など彰楽子の想像のなかにしかいない。打算で助けられた、命だ。けれどそのまぼろしに、彰楽子は一度救われてしまったのだ。
彰楽子の人生のなかで、唯一輝いたもの。そのまぼろしにしがみつくのは、そんなに悪いことなのか。
「ふざけるな!」
怒鳴られて、いままで無事だった涙腺が切れる。ぼろぼろと涙を流しながら、彰楽子は夜伏を見据えた。
「私はお前の父親か!?」
大概苛立たしさも限界を超えた様子で髪を掻き乱し、夜伏は吼えた。
「生ぬるい愛情を私に求めるな! 可愛がるだけにも限度がある! 私はお前を妻にすると言ったのだ! 娘にするつもりで拾ったのではない!」
怒鳴る夜伏に彰楽子の臨界もあっさり超えた。
「っ何よ、妻妻妻妻って! 煩いのよ! わたしの気持ちより、わたしの躯の方が大事なくせに、何が妻だ! そんなもの、奥さんなんかじゃ全然ないわよ……っ」
「いつ身体の方が大事だと言った!?」
「見ればわかる! 奥ノ津の巫女だから欲しいんでしょう。あなたはいつも人の身体ばっかりだ!」
――虚しい。
息を荒げ、黙りこむ彰楽子の心中に落ちてくる言葉。
頬を伝っていく雫が心底鬱陶しくて仕方がなかった。
だれかの妻になるということは、そういうことなのだろうか。彰楽子は違うと知っている。少なくとも、両親は違ったのだ。それが赦されなかった恋だとしても。自分にも赦されないものだとしても。
身を飾った張りぼてばかり褒められて、どうせ巫女でなければ彰楽子なんて見向きもされなかった。そんなこと分かり切っているから、なおさら凍みる。
どうせ何のとりえもない子どもだった。愛想笑いのひとつもできない、ゆがんだ子ども。だからこそ彰楽子を助けてくれたのだと思って、あのときあれほど嬉しかった。
肉欲の伴った手ならいらない。妻という役割だけなら甘んじて受け入れてもいい。でも彰楽子を自分のものにするためだけに強引に躯を拓こうとするなら、絶対に許さない。
「お前が逃げるからだろう! いつも! 今日もだ! 口先だけなると言っても、お前は逃げる! そう宣言しもしたな! そうすれば急くに決まっている! 悠長にしていて梓伊那のもとに行かれでもしたら堪らんからな! お前をいますぐ私のものにしてしまえば、心配もない。少しでもお前が私とのことを考える気配があろうものならどうとでもしようものを、それすらないのに躯だけでも繋いでおこうとして、何が悪い……!」
「わたしのせいだっていうの!?」
「そうだろう! くそ忌々しい、お前が奥ノ津の巫女でさえなければよかったものを……!」
「そんなわたしなんていらないくせに!」
反射的に噛みついたところで、ふっと息を詰めた夜伏は、なるほど、と自嘲気味に口角を上げた。
「――何者でもないお前でも欲しい、そう言って、お前は信じるか?」
「っえ――――?」
はちりと瞬いた大粒の瞳から、最後のひとしずくが零れて落ちた。
彰楽子は使命感に駆られて、溺れるばかりの子どもだった。それが唯一の生存手段だった。自分では何ひとつ決定権を与えられないまま、認められないまま、家族に支配され、村に支配され、夜伏のもとへ来た。諦めだけが習性として身についていて、そのほかのことを諦めでぎゅうぎゅうに押し込んで生きてきたのだ。
芯がなく、ふらふらと小突かれた先を身の置き場にした。明確な感情を持っていては、生きていけなかった。まだおさないままの情緒が発現した先で彰楽子が求めたのが、確かな愛情と他者承認だ。
夜伏は彰楽子の髪に指を絡めた。
――あのとき。
傷つき果てて泣く姿が。
それでも意思を失わない強い瞳が。
誰も請えないそのいたいけさが、ひたむきさが。
どうしても捕えて放さなかった。この子どもが欲しい、と思ったのだ。
他の誰にもやれない、自分のものにしたいと、そう。
自分だけを請え、自分だけに縋れ。
その高潔さで自分だけを求められたら、それはどれほどの喜びだろうと、未来を、想像してしまった。巫女とは魂の本質で、神と同じく肩書きではない。ふとその本質が剥き出しになる刹那、神である夜伏すら圧倒したその眼差し。『巫女である彰楽子』に惚れたのは確かでも、夜伏はその魂を好ましいと思ったのだ。穢れのない、美しさが。
他界に迷い込んできた子どもの気配を感じたとき、そのときはまだ、どうするつもりもなかった。自分を忌み嫌う奥ノ津の巫女姫、それがどのようなものか、ひと目拝んでやろうと、その程度の好奇心。これほど惹かれようとは思いもしなかった。だが実際拾い上げてみると、幾重にも屈折した子どもはその分夜伏から与えられるものに素直に反応した。彰楽子は絶対に認めようとしないことだろうが。
抱きあげられて夜伏に全幅の信頼を寄せた、何も知らなかったあの瞬間、あれこそが真実だ。魂が重なり合う音を聞いた。だからこそ彰楽子のてのひらを返したような拒絶が憎らしかったし、強引なこともした。
「……お前の内面を知って、私はなおさら欲しくなった。面倒なところも、お前の一部だ。お前はそうなってくれと思ったろうが、私にとってはお前のどんな面も、愛おしいと思いこそすれ厭う理由にはならなかった」
もちろん腹立たしいことも多かったが、と夜伏は続ける。
「……お前を誤魔化すための方便だと思うか? だが私がお前をどう思っていようと、お前はどうせそれを許すまい。お前が欲しいのは無欲な腕だけだろう? 私の気持ちには拘るくせにな。どちらにせよ、触れられん。私は自分を押し込めてまで、父親のふりをしてやれるほどできてはおらんよ」
やさしげにわらったその下に隠された表情はいったいどのようなものだっただろう。
夜伏は開いたままだった襟を丁寧に正し、簡単に帯も締めてくれた。彰楽子は何も分かっていない目で、戸惑って夜伏を見た。硝子玉のような瞳を涙のあとで光らせていた。
「……祝言まで、無理強いはすまい。巫女が欲しいだけならいますぐ抱くが、そうではないから。だが覚悟を決めておけ。その日だけは、何があってもお前を抱く。お前にとっての私がなんであっても。梓伊那のもとに逃げるそぶりを見せても容赦はせんから、覚えておけよ。お前がどれだけ抗おうと、誓約をしてしまったからには絶対に逃がしはせん」
「……わかっ、た」
ぎこちなく彰楽子は頷いた。
身体が勝手にそう反応して、思考回路はそれほど正常に働いてはいなかった。
ひとまず艱難は去ったのだとそれだけを理解した。馬鹿な彰楽子は与えられた情報量が多すぎていっぱいいっぱいになっていた。何が夜伏をそうさせたのかにまで、彰楽子の考えは及ばなかった。それだけ感情の機微に疎い、彰楽子は酷薄な少女だった。