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第三話 愛情の種類

――――いいですか、(あき)楽子(らこ)。お前が逃げてみなさい。今度こそこの村は終わりですよ。お前にその命が背負えますか。罪悪感に潰れずにいられましょうか。何より一番お前の血の濃い、父、母が、

やわく優しい声が耳を抜けていく。

 のろのろと歩く彰楽子の脳に、いくつもの風景が過ぎていく。

 祖母に、引き離されていた弟に再会した日のこと。

 祖母はどれほど巫女姫になることが素晴らしいことか、神聖な役割かを問いた。彼女の年老いたまなざしはかすかな曇りもなく神を信仰していて、その純粋さに彰楽子は慄いた。信仰のためには何をも厭わぬ残酷さを、彼女は有していた。

 白昼夢は終わらない。浮ついた足取りで彰楽子は歩き続ける。

夢視る彰楽子の周囲では、彼女の発する氣が白く輝きを放っている。焦点を欠いた瞳もまた白く光り、常態とはかけ離れた姿だった。

 そんな瞳が映すのは、両親が呵責されている様子、殴られている姿。そんな光景を見せて、彰楽子を責め立てる。その風景は彰楽子が実際にいる場所よりも鮮やかに目に映る。祖母は二人が容赦ない暴行を受けていても、それを止めるでもなく、とても慈愛に満ちた哀しげな表情をしていた。祖母の隣に立っているのに、彰楽子も何もできない。止めてくれと訴えたいのに、そこにいる彰楽子は当然だとも思っている。

「――失せろ!」

怒声が周囲に閃き渡った。

 どうと強い風が吹き抜けていき、勢いよく彰楽子の背を押していく。木木がざわめき、鳥たちが驚いて飛び立っていった。彰楽子はまぼろしから解き放たれる。

 数歩たたらを踏み、煽られた髪を押さえながら振り返る。巨大な生き物の存在が、そこにあった。

 圧倒的な、それでいて、どこかなじみ深い、

(――夜伏(やぶせ)、)

 その本性を見ることができたのは、一瞬だった。雄々しく美しい大蛇は鎌首を擡げ、ギョロと眼を剥いて彰楽子を睨んだ。そして溶けるように掻き消える。

 彰楽子は瞑目し、呼吸を思い出す。力の抜けた足が膝をつこうとしたとき、腕を取られた。よろめきながら見上げると、高い位置に怒りを湛えた男の端正な顔があった。息を切らせ、ざんばら髪はところどころに木葉をつけ、いつも以上に乱れている。

「どうして勝手に出歩いた!」

 頭ごなしに怒鳴られるので彰楽子はかすかに目もとを歪め、そのままふいと視線を逸らした。

 緑深い山中である。背の高い木木が空を覆い、昼間にも関わらずあたりはうす暗く湿っぽい。それでも僅かな日光でも構わないのか、雑草が地面を隠す勢いで思い思いに自生していて、それは彰楽子の腰ほどまであった。動物たちの通った跡なのか、いくつか草が踏み倒されている箇所が散見されていたが、彰楽子の通った道筋と同じく、いまは夜伏がやってきた風圧ですべて倒れてしまっている。

 そんなものを眺めたまま無言を貫く彰楽子の頬を両手で包み、夜伏は無理やり自分の方へ顔を向けさせた。

 能面のような無表情である。それでも大きな瞳ばかりが、まっさらに凪いでいながらも何かを訴えるようにじつと夜伏を見返していた。

「……どうして出歩いてはいけないの」

 平べったい言葉が、彰楽子の口から零れ落ちる。

「……翳がいる。お前も知っているだろう。そればかりではない。他にも人には危険なものはいる」

「じゃあわたし、いつまでも出かけられないの? ずっと家に閉じこもっていなければいけないなら、気詰まりだわ」

「だとしても、なにも言わずに出ていくのか、お前は。どれだけ心配させたと思っている。外出したいならそう言え。連れて行ってやる」

「ひとりがいいのよ。あなたはいらないわ」

 辛辣に彰楽子は言い放った。

 翳たちが近くにいたことは分かっていた。じつと物陰から彰楽子を見つめていた。しかし危険も何も、投げやりになった彰楽子にはどうでもいい事柄だ。それに、翳は夜伏の一声でみんな散ってしまった。

「屋敷の敷地から外へ、お前はまだひとりでは行けない」「どうにかしてよ」「祝言を上げればすぐにでもなる」

(祝言、ね)

 その招待を、夜伏が知人にばら撒いたと彰楽子はちょうど今朝がた(そわ)()に聞いたばかりだ。

 どんな知り合いなのか彰楽子は興味もないが、どうせ彰楽子の知っている者はひとりも来ない。

 こんなに清らかな巫女を貰えば、主の御威光も一層のものとなるでしょうと岨野は誇らしげだった。

喜びに満ちた彼女とは裏腹、彰楽子がどれだけ焦り、憤りを腹で滾らせたか。

 夜伏は彰楽子を心配したわけではない。確かに案じてはいただろうけれど、それはただ彰楽子の身体が損なわれることへの心配であり、彰楽子の感情には言及されていないのだ。

 夜伏が必要なのは、彰楽子の身体だけだ。

 岨野のお陰で、彰楽子はすとんと腑に落ちた。夜伏が彰楽子に執着する意味。それは、彰楽子が奥ノ津の巫女だからだ。夜伏にとっての利点といえば、それくらいなのだ。彰楽子が巫女であるということ。

――たった、それだけなのだ。

「翳に襲われたかったわ」

 彰楽子は夜伏を上目に見て、あわく嗤った。夜伏が一瞬目を細めて片頬を強張らせた。「叶うなら逃げてやろうと思っていたの。あなたもだから焦って追いかけてきたのでしょう?」

「この他界から出られるとは思わんがな」

「だからひと泡食わせてやれれば、よかったのよ」

「……そんなに、私が気に食わんか」

「好かれる要素があると?」

 彰楽子は肩をすくめ、侮蔑を向けた。「とてもおめでたいわね。素敵」

夜伏の面に不快感が滲むのが、彰楽子は愉快で仕方がなかった。腹の中に冷たい風が吹き荒れて、抑え込んでいたそれを緩めると着ている白衣の裾が、髪が、ふわりと風をはらんでひるがえる。彰楽子は巫女だからと、与えられたのは白衣に緋袴だ。こんなところでも、どんな彰楽子を夜伏が求めているかを示される。

「わたしは、天津神の巫女なのよ。あなたのものではないわ。いくら卑劣な手段を使おうと」

誓約(うけい)をした」

「ええ、あなたの卑怯な策略に嵌ってね。だから妻にはなる。身体は好きにするといい。村人がわたしにしようとしたように奪うといいわ。でも心まで捧げられるなんておこがましいこと、思わないで」

「彰楽子、」「呼ばないでよ」

 彰楽子は鋭く遮った。

「あなたなんかに呼び捨てにされたくはないわ」

「……お前は何に怒っている?」

 夜伏は当惑した様子だった。

「巫女とはいえ、お前は別に天津神を奉じていたわけでもあるまいに。私の何が不満だ。なぜそう頑なになる」

――彰楽子は息をのんだ。

「…………わからないの? ――ほんとうに?」

 思考の成立ちが自分とあまりにも違いすぎて、彰楽子は無力感に脱力した。

 この男に自分の言葉は通じないのだと、痛切に思い知る。

 確かに彰楽子は天津神を信奉してはいない。彰楽子がその神を引き合いに出すのは、言外に夜伏を貶めるためだ。夜伏のやったことがどれほど卑しいことか、突きつけてやりたかったのだ。

 でも、彼に寸毫も通じていなかった。

 その事実がものすごく、痛かった。

「……そうね、どれほど下劣でも、神さまだものね。あなたにとって、人とは所詮その程度のものなんでしょう。従えて、当然のものなんでしょう。こころよりも言葉が大事なんだ。でも、わたしは人なの。わたしは、違うの。神でもなければ、こころない人形でもないの……」

 裏切られれば、傷つく。それが一方的な思い込みから生じた信頼だとしても。

 だから彰楽子は、誰のことも切れないのだ。事実先に切られていたのは彰楽子だとしても、誰の命も諦めきれない。

 そしてここで彰楽子を捕え、また自分を弄ぼうとする夜伏が、彼だからこそなおさら、彰楽子は我慢がならなかった。一度、完全にこころを許してしまっていたからこそ。何もかも流されてきたときとは異なり、どうしても諾諾と夜伏を受け入れることはできなかった。

「わたしに構わないで。何かを訊ねたりしないで。気に食わないことをわたしがしたなら、好きなように罰を与えればいいでしょう」

「それではお前が機嫌を損ねたままだろう」

「どうしてそれではいけないの!? 初めからあなたは人の気持ちを無視しているじゃない! なのに今更譲歩する振りなんかしないで!」

 喚いた彰楽子は感情的になってしまった自分を恥じて奥歯を噛み締めた。どうせ通じないのだから、血圧を上げるだけ、無駄だ。

 夜伏のいないところに、気配を感じないところに行きたいと彰楽子はまた歩き始めた。

こちらに来てもう一週間が経つ。足の怪我もすっかり癒えたので、彰楽子は何とか村に戻る手段を見つけようと館を抜けだしたのだった。しかし玄関から出てきたわけではなかったので、裸足の足にはいくつか細かな傷が新たに刻まれている。

「……わたし、何度も逃げるわ。あなたと話なんかしない。それが嫌なら、閉じ込めるなりなんなりすればいい」

「そんなことがしたいわけではない」「そう、」

 彰楽子は素っ気なく相槌するにとどめた。会話を続ける気はないという、意思表示だ。どんなつもりだろうと、彰楽子の不利益になることだけは分かり切っている。

 夜伏を無視して進もうとする彰楽子の手を、それよりもはるかに大きな手が包んだ。彰楽子は勢いよく振り払う。

 立ち止った彰楽子は無言で、怒りだけが燃え盛る瞳で男を睨みつけた。夜伏は困ったように眦を下げた。

「……私も行こう。散歩は好きなんだ」

 馬鹿じゃないのか、と罵声がいまにも飛び出しそうだった。くちびるを咬んで感情をやり過ごし、夜伏を視界から外す。

 駆けだそうとした彰楽子を夜伏は難なく捕えて肩に担ぎあげた。

「お前が好きにするなら、私も好きにしよう。だがまずは、足を綺麗にせんとな。まったく傷の絶えん子どもだ。沓も履かずに出てきおって。岨野から預かってきたから、先に川に行くぞ。そのあとは、お前の好きにするがいい」

「……ッ」

 暴れる彰楽子を、男は容易に抑え込む。がんがんと拳で背を叩いても、非力な彰楽子のすることなど痛くも痒くもないといわんばかりで、歩みの速度は変わらない。

 これが自分とこの男の差なのだと、こんなところでも彰楽子は失望した。

 その内息も切れてきて、彰楽子は自分の体力のなさが恨めしかった。

静かになった少女を、夜伏は川へと案内する。下りてくるときの足場などあってないようなもので、おそらく人が歩くためにはできていない。

それでも夜伏は足元など気にした様子もなく軽軽進んでいくので、擁されている彰楽子のほうが顔を蒼褪めさせなければならなかった。勝手に抱えていろ、もしくはすぐにも放せと言わんばかりだった少女もさすがに均衡を保つためには男の首に縋りつくしかない。

「落としたりせんよ」

 相好を崩す男に殺意が湧き、絞めてやろうか、と不穏な思考が脳裏をよぎる。だがやったところでこんな頑丈な男が相手ではどうせじゃれていると思われるのが関の山なので、彰楽子は膝頭で男の腹を蹴飛ばすに留めた。

 これも、懐いているだけにみえるのだろうか? 彰楽子はげんなりした。

夜伏と一緒にいると平坦なはずの感情の波が些細なことで揺れて、とても疲れる。夜伏のすべてに、過敏症のように反応してしまう。

「ほら、着いたぞ」

そこは谷間に流れるせせらぎだった。切り立った崖が両岸に高くそびえていて、狭い空から太陽のきらめきが落ちてくる。岩場に囲まれ、一見しては川の所在がつかめない。むっとする緑を清める、清浄な香り。耳を澄ますとさらさらとせせらぎの音がし、ようやく水場なのだと判る。

水辺に足を浸せる、安定した岩に夜伏は腰を下ろした。足のあいだに彰楽子は座らされて、背後から抱えられるかたちになる。離れてほしくて肘で押しやったが、結局は徒労だ。

(まあ、いいか)

 何をされても放置するだけの話である。

 水は冷たかったが、すぐにその温度は肌に馴染んだ。純度が高く、泳ぐ小魚たちの姿ばかりか水底まではっきりと見える。

 背後の男の存在さえ意識しなければ、十二分に楽しい。ここに連れてきたのが夜伏だと思えばちらりと腹は立ったが、そんなことは考えても詮ないことだ。とりあえず、背もたれとしては役に立つ。意識から追い出して、徹底的に無視してやればいい。

「ふふ、」

 彰楽子は水草の陰に隠れている小魚を、足先でつっついた。驚いたように奥へ引っ込もうとしているのが愛らしい。

 水を掻きまわして遊んでいると、ふと視界に夜伏の手が飛び込んできた。身をかがめられたので、自然と彰楽子も背を丸めることになる。椅子としての役目も十分に果たせないのかと、彰楽子はちょっといらっとした。

そのまま袴の裾をたくしあげられそうになったので、慌ててその手を押さえる。

「ちょ、ちょっと、何をしているの?」

「濡れたら困るだろう」「そうだけど!」

 彰楽子は悲鳴を上げた。少女の膝までを顕わにした男は、手を滑らせて彰楽子のちいさな足裏をてのひらに乗せる。

「足を洗うのに、まとわりついては邪魔だしな」

「あなたが洗うつもり!? 待ってよ!」

 恥ずかしさと怒りに顔を真っ赤にして彰楽子はわめいた。「乙女の素足に許可なく触れるなんて、何のつもりなの!?」

 足を取り戻そうと彰楽子は躍起になって抵抗するが、がっしりと捕まえられてしまって身動きが取れない。狭い岩の上で倒れそうになる彰楽子を支えるのが、ことの原因である夜伏なのだから実に納得がいかない。夜伏の膝に横抱きにされる。

「なんのつもり、って」

 ふためく彰楽子とは対照的に、夜伏は余裕泰然としている。

「お前の夫のつもりだが?」

 その『上手いこと言った』とでも言いたげな得意げなツラを心底殴りつけたい。彰楽子は拳を戦慄かせた。

「違う! 理由を訊いているのよ!」

「私がやりたいから」

 夜伏は平然としたものだ。

「お前に触れたい。それ以外に理由がいるか?」

 親指の付け根を擽られ、ぼっと顔を赤らめて彰楽子は息を詰まらせる。流水で冷やされた足なのに、触れられた箇所からじわりと熱を持つ。

「わ、わたしの意思は無視するの?」

「お前が嫌ならな」「いや」間髪いれずに彰楽子は返す。

「……不合格だ」

 夜伏はくつくつと笑った。焦る彰楽子が、愉快で仕方がないようだった。なおも思わせぶりな手つきで足を撫でる。それに彰楽子は律儀に反応し、肩を窄めた。くすぐったい、けれどそれだけではなかった。

「お前のいや、は羞恥だろう。嫌悪ではない。止める理由にはならん」

「け、嫌悪よ。虫唾がはしる……」

「そうか? お前の顔は、そうは言うておらんがな」

「顔で、何が分かるっているの」

 そう反抗しながら、彰楽子は夜伏から顔を背けた。どんな表情をしているのか自分では判じかねたが、不利になることは避けたい。

「分かるぞ、色色とな」

 夜伏は足を解放してくれたが、かわりに顎を掬われた。左右に振られ、頬や額にかかっていた髪を払われる。彰楽子は夜伏に鋭い眼差しを向けた。

「……ほら、な」

 満足そうな咽喉声。

「……頬が真っ赤だ。目を潤ませて、――ほんの少し触れただけで震えて。口づけも交わしたことも、その下の肌に触れたこともあるのに、足ごときで恥ずかしがる理由が分からんな」

「あれはっ、……あなたが勝手にしたんだ――」

 出逢った夜の記憶がぼんやりと滲み出し、彰楽子は羞恥の色を濃くして反駁した。夜伏の顔が見ておられず顔を隠そうとする腕を、男はやんわりと払う。

「ならば、勝手は許してもらえるというわけだ。――そういえば、お前はそんなことを言っていたな」

「……まって。ねえ、ちょっと、足を洗うって話じゃ、」

 どうしてこうなった!?

 彰楽子には見当もつかない。

 顔を寄せてくる男が何をするつもりか、彰楽子は当然もう察しがついている。哀願する声も、阻もうとする手も、逃げを打つ身体も、やすやすと男の支配下に引き摺り戻される。「――っや、ぶせ、まってよ、ねえ、やだ」

がっちりと頭と腰を支えられ、彰楽子は動けなくなった。いやいや、とかろうじて首を振ったが、聞き入れられることはない。彰楽子は高速で頭を回転させ、夜伏を思い止まらせようとした。しかし手立てが思いつかない。

近づいてくる顔の精悍さに耐えきれず目を瞑ろうとしたとき、ふと夜伏は鼻先が触れあう位置で訝しげに眉を寄せた。身体を起こし、彰楽子の顎に指を掛けて引き起こす。冷たいものを身に纏わせ見下ろす彼の眼差しは、真っ直ぐに彰楽子へと注がれている。「な、何……?」

男はひとりごつ。

「嗚呼――、小賢しいものが、一匹潜んでるな」「わた、し?」「(いや)、」

夜伏はおざなりな返答をした。答えるつもりで応えたわけではないのだろう。

「、――実に、忌々しい、血だ」

切れ長の目尻に険が宿り、すぅと細まる。意図的に垂れ流された神威に、彰楽子は咄嗟に夜伏の着物を握りしめた。びりびりと肌を突き刺す、怖ろしい冷気。

自分の中で、何かがこそりと動く。それは、彰楽子によく似た、気配を持った、

「ミるな」

 目を掌で覆われ、地を這う黒黒とした恫喝が、夜伏から発せられた。「――――失せろ」

それは彰楽子に向けられたものではなかった。夜伏は彰楽子を見ているようで、どこか違うものを見ている。それでも否応なしに身体が強張った。男の神通力だけがその場が覆われて、他の一切を感じ取れなくなる。なにかとても重要な感覚を切り離された感覚。

 しばらくすると夜伏は張りつめさせていた雰囲気を和らげ、ようやっと彰楽子を見た。安心させるような慈しみに満ちた目に、少女はほっとしてへにゃりと泣き笑う。「……やぶせ、」

「――誘っているのか?」「――ぇ?」

 先ほどまでのやりとりを、思い出すまで一秒もいらなかった。言葉は、くちびるごと飲み込まれた。舐められるとぶるりと躯が震えて、うっすらと開いた隙間から、舌が差し込まれる。睫毛の数が数えられそうなほど至近にある整った顔を見て、耐えきれず彰楽子は目を瞑った。

「――んぅ」

彰楽子の狭い咥内は夜伏が入ってくるといっぱいになって、どうしていても男に触れる。器用に舌をまさぐられ、絡められ、互いの唾液が混じってもう夜伏の味しかしない。溢れそうになる唾液を夜伏がすくって飲み込むから、咽喉の鳴る音の艶めかしさに気絶しそうになる。

 酸素が足りない。

 夜伏が作ってくれる呼吸の合間に必死に息をしながら、その巧みさに溺れていく。

 歯列を辿られるとそこから痺れて躯が崩れそうで、感覚の乏しい指先で男に縋る。力強く支えてくれる腕に途方もなく安堵する。

 怖くて止めてほしくてそれなのに戸惑うように心臓に燻る熱の甘さは何。思わずすり寄ってしまいそうになるこの心地よさは。普段は何も感じない箇所なのに、夜伏が触れていくたびに未知の感覚が芽吹いていく。口蓋の柔らかな部分を舐められて、背筋に伝っていく何か。

「ん――――っ」

「……気持ちよかろう?」

 夜伏はくちびるの上でささやいた。「もう、怖くないな?」

 何を訊かれたのかも判然とせず、半ば朦朧としながら彰楽子は頷く。そうすると夜伏がひどく嬉しそうにするので、なんとはなしに彰楽子もはにかむ。

 とろりと溶けた眼差しは、夜伏を拒む鋭さなど欠片もない。くったり力を失った躯はすっかり体温を上げている。まなじりから零れた涙が、深い快さからくるものだとは、まだ情緒のおさない彰楽子は気づいてはいない。

口づけを解いたあとも、真っ赤に色づいたくちびるはまだ夜伏を誘うように濡れていた。

夜伏は先程の彰楽子の様子を思い出した。少女の纏う、ぞっとするほど透徹とした空気。誰もが持ちえるものではない、巫女の資格。彰楽子が無意識に撒き散らした氣。あれを意識してやられ、拒絶されたら、夜伏は今のように彰楽子に触れることは出来なかっただろう。気づいてくれるな、と夜伏は思う。自分がいかに尊いかを。気づかれれば、触れられない。

夜伏は彰楽子を眺めおろしながら小気味よげに肩を揺らす。そこに先ほどまでの冷徹さは欠片もない。

「――――これで私にいだくのが嫌悪なら、余程お前は阿婆擦れだな」

彰楽子は口づけのせいで弛んだ口元をだるそうに動かした。二度三度瞬きし、ようようその瞳にも理性の色が戻ってきている。

「あばずれで、結構……」

 髪を耳にかけられる動作にすら脈拍が上がるのを感じ、彰楽子はそれを悟られないよう浅く息をした。触られてもいない頭皮が、ひりつく気がした。

「口の減らないがきめ」

 詰る声音が甘く、彰楽子は身震いした。熱を孕んだ、瞳が自分を見ている。

「そのがきにあなた、なにしてるのよ……」

 口を拭うでもなく、余韻に浸るように下くちびるを撫でる仕草に、どれほどその先の欲が煽られるか彰楽子は気づかない。けれど彰楽子はようやく自分がされたのがどういうたぐいのことか思い至った。

 いまさらはっきりと自覚した。夜伏は、男なのだ。

自分にキスをした。それも、二度目だ。そんな男と二人っきりだ。彰楽子はもっと警戒すべきだったのだ。今まで人々の視線すらおぞましかったのに、どうして夜伏を相手にここまで無警戒になれたのか。一番実害を持っていたのがこの男なのに。夜伏は自分の思い通りに、ものごとを運ぶだけの力がある。対して、彰楽子はなにもない。嫌だ、と夜伏についていけなくて混乱する彰楽子が言っても、夜伏はやりたいように押しとおした。

 多分、躯もそんな風にして奪われるのだ。

 嫌だと泣いて抵抗する彰楽子を、それはそれはやさしく夜伏は扱ってくれるだろう。でも絶対に、待ってはくれない。気持ちだけは慮ってくれない。そのときが来れば、どれだけ言葉を尽くしてもきっと無駄だ。

 夜伏を、初めて男として怖いと思った。

 それは別次元の恐怖だった。夜伏がこれまでとは全く異質に映った。

 神で、男で。

 神としての夜伏に抱いていたのは畏怖だった。いまの夜伏から感じるのは、もっと生々しい男の性だった。

 嫌悪でなかったら、羞恥だったらなんだというの。

 いやはいやだ。いくら気持ちよくったっていやだ。だからこそ、いやだ。こころが追い付いていない、充分に言葉が交わされていない。

 ついさっきまで何事もなかった振りをしてそんな素振りなど欠片も見せずに保護者然としていたくせに、急に眼差しを切り替えて彰楽子を見る。

 彰楽子は夜伏がどういうつもりなのか、分かれない。

 儀礼的な妻だと考えていた。夜伏も彰楽子を好きではない。巫女だから妻にした。性交渉に及ぶとしても、それは婚礼の、一夜だけだ。つまり、このキスは、まったく不要のはずなのだ。

(そんな目でわたしを見ないで)

 神さまはもっと崇高な、彰楽子たちには想像もつかないほど崇高であるべきなのだ。

 性の臭いを、彰楽子は強烈に嫌忌する。

 そんなもの、夜伏に感じたくはない。そんなところまで、(村の人たちと一緒にならないでよ)

 茫洋とした彰楽子の瞳に、強い色が灯る。「――ねえ、」

「なんだ?」

 肩ほどで揺れる髪の毛先で遊ぶ男の手を、彰楽子は叩き落した。きっと夜伏を睨みつける。男はふと息を詰めて彰楽子を見つめた。彰楽子ばかりが気づかない、他者を跳ね付ける清浄な氣が漏れ出す。

「今度わたしにそうやって触れたら……赦さないわ。今回のこれは、冗談でしょう? だったら今回は見逃してあげる。お願い、いやなの。……ほんとに、いやなの。ひとつくらい、許してよ。こんな風に、あなたに触られるのはいやだ……」

 哀しかった。だんだん声が撓んでいく。意地を張れていたのは途中までだった。全身から放たれていた敵意はふっとその矛先を失って、落ちる。

 涙が溢れて初めて、少女は気づく。自分が哀しかったのだということ。

 触られること自体は嫌いではない。抱きしめられると落ちつく。でもそれは、彰楽子を守ってくれるものだからだ。彰楽子を脅かす腕は要らない。肉欲の伴った手なら要らない。村の男たちの卑下た視線は、それほど彰楽子にひどい内傷を負わせていた。

「祝言の日は、我慢するわ。でもそれ以外は、いやだ。夜伏を嫌いにさせないで」

 揺らぐ視界の向こう側で、夜伏が一瞬苛立った顔をする。彰楽子は怯まずなおも言い募った。

「こういうことは、好きあったもの同士がするものでしょう。そうであっても、あなたみたいに無理やりなんて許されない。わたしとあなたには必要ない」

 ふと男は真顔に戻り、軽く視線をよそに投げる。その仕草にどれほど深い意味があったのか、彰楽子は考えようとも思わなかった。

夜伏は目を上げる。僅かに躊躇った指先はそのまま伸ばされ、慰めるように彰楽子の背を叩く。

「……お前の言い分は、分かった。聞いておく。だからもう、泣きやめ。どうしていいかわからん」

「あなたが泣かせたの……っ」

「そりゃあ、すまなかったな」

 泣く子には敵わない。ぐしぐしと泣き続ける彰楽子に辟易したように夜伏は長息し、ぐいと彼の胸元に彰楽子の顔を押しつける。

「ならば存分に、泣け。待っていてやる」

 やさしく彰楽子を抱きしめ、背中を撫でるこの手のままでいてくれればいいのに、いてくれますように、と彰楽子は泣きじゃくりながら願った。目の前の男に。


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