第二話 誓約の意味
質の悪い映画を見ている。両親が狭い座敷にいた。汚れ、所々破れた衣服。目立つ傷跡。
どこだ? 見覚えのない場所だ。窓がない、地下かもしれない。部屋は鉄格子で閉じられ、重い錠で戒められている。その格子の外に祖母が哀しげな顔つきで立っていた。彰楽子はその隣に立っている。彰楽子からは祖母の旋毛がよく見えた。彼女はこんなに背が低かったろうか。
声は聞こえなかったが、祖母は何かを言っている。続けて彰楽子も操られるように口を開いた。やはり何も聞こえない。ただ戸惑う自分とは異なる、恐ろしく冷めた気持ちをどこかに感じる。
ひどく叱責を受けている様子はなかったが、憔悴した二人の面持ちは見る間に色を失った。俯いた彼らは、最後に会ったときよりもやつれて見えた――
*
絹の布を通したやわい光に照らされ、目が覚めた。鈍い頭痛。夢見は最悪で、ゆるやかな目覚めのわりに、鼓動が騒いでいた。びっしょりと寝汗をかいて、濡れた髪が額に張り付いている。
のろのろと身を起こし、傍らが空であることに気づく。そこに夜伏の姿はなかった。
その代わり、やってきたのは岨野だった。彼女は真っ白な顔をして震えている彰楽子に驚き、昨晩と同じように風呂へと連れた。じっくりと浸かるように指示され、一時間ばかり温まると頬に色も戻る。
上がったあとは別室で怪我の具合を確かめられる。痛みは、また格段に薄れていた。骨折による腫れはもう、ほとんど目立たない。
「治ってきておられますね」「顔色もよろしいようで」
添え木をしてくれながら女衆たちは微笑んでくれたが、彰楽子は曖昧に首を傾けることしかできなかった。
……一晩経て、風呂にも入り、頭は随分とすっきりした。もう熱もないだろう。ぼんやりと脳に掬っていた霞みは晴れて、思考回路は整然としている。
それでも彰楽子は体内に渦巻く焦りを飼っていた。それはいま、より一層濃いものへと変わってきている。夢の名残がしつこく尾を引いていた。
確信だ。
ここは、どこか、おかしい。
ほんの少し滞在しているだけで分かる、この建物の広さ、造りの異質さ。こんな屋敷が山中にあるだなんて、彰楽子は聞いていない。あるいは本当に、彰楽子が聞かされていないだけか。そもそも自分は、どこに連れてこられたのだろう――――――?
この女たちの衣装も、時代錯誤で奇妙だった。昨晩は気にしていられなかったが、冷静になってくると奇妙さばかりが目に付いた。
いつの時代だ? これは。
ずっと昔に遡行したような、着物と布を重ねた、ひらひらした。歴史の教科書の挿絵にあるような、古代の女性が着ていた衣装に、似ている。たった一人のための滑稽なお芝居に取りこまれたようなおぞましさに、吐き気がする。黙っているとどんどん恐慌は募った。
「あ、あ、――の!」
彰楽子は岨野の腕を掴んだ。
「戻らな、きゃ。わたし、村に戻らなきゃ。手当て、ありがとうございました。でもわたし、いつまでもお世話になれません。ここ、どこですか? 電話、借りることできますか? 言わなきゃ、わたし、」
岨野は虚を突かれたように黙り込んだ。困ったように眦が下がる。岨野の後ろで、うろたえた女たちのざわめきが鬱陶しい。
岨野だけが落ちついた動作で、やんわりと彰楽子の手をとる。
「主さまはサイをお連れした、とのことでしたが……。――申し訳ありませぬ。御子よ、我らはなにも申せません。それは主と相談なさっていただきませんと。しばらくすれば主もお戻りになられます。それまでは、辛抱なさって。お腹は空かれませんか? お好きなものをご用意いたしましょう」「なにもいらない。なにもいらないわ」
奥ノ津は異常な村だったが、大概この屋敷も狂っている。これはただの怪我をして動けない少女への、親切心とは質が違う。なにも告げないまま、彰楽子をここに引きとめようとしている。
気道を塞いでいく、重苦しい焦燥感。
彰楽子は髪を振り乱し、蹲った。
「戻らないと」「我らの一存では、どうにも」
「送ってほしいなんて、ずうずうしいこと言わないです。ここはどこ? 電話を貸して。迎えを呼びます」
「と、申されましても」
聞きわけのない子どもに言い聞かせるような、ゆっくりとした口調で岨野は言う。……どう伝えたらいいものかと、思案するそぶりで。
「迎えなど、ここには辿りつけないでしょう。ここは夜伏神の御領です。人の国とは違います。人の仔には山中他界と呼ばれる異界なのです」
「さんちゅう……たかい?」
「はい。人の国とは隔絶された神の世です」
「――かみ、さま……?」
彰楽子は呆然として、言葉を零すしかなかった。
内心で馬鹿にしていた問題が、切実に身に迫っているのを彰楽子は感じた。それを振り払い、無理に尖った声を作ろうとする。
本当に、馬鹿馬鹿しい。愚かしい。こんなお伽噺が、まさか自身にとっての現実になるなんて、一体誰が思うだろう。自然と口元には冴えた笑みが浮かんだ。
「馬鹿にしているの? いまは平成だわ。神様なんて、そんなお芝居、誰も信じない」
相対する岨野も、どこか憐れむ調子で彰楽子を見た。
「……誰の信仰心も、我らが神は必要としません。人に依って生まれた神ではないからです。ただ在り、自らの役目を果たすだけ。人の仔とてもそれは同じ。理に沿って、生きるのみ。……翳に、黒く蠢く生きものに遭われたはずだ、御子よ。あれを人の仔の技術で、何をかと証明できましょうか」
「……いいえ。でも、何か仕掛けがあったのかもしれない」
「そのようなことをして、我らに利がありましょうか」
それが分からない、と彰楽子はくちびるを咬んだ。なんなのだ、ここは。焦りだけがひたすら質量を増す。
「……分かったわ」
ついに、彰楽子は呟いた。「御子よ、」色がついた声を遮り、彰楽子はひとりごちた。「これは夢ね。きっとそう。わたし、気絶したままずっと恐ろしい夢を視ているんだ」
そうだ。そうでなければ、もう説明ができない。非現実が受け止めきれずに、彰楽子は自分にそう言い聞かせる。
「御子よ……そうお考えになる気持ちもお察しできないではありませぬ。されど、これは夢まぼろしとは違います。現実です」
「わたしの現実に、こんな世界はないわ」
彰楽子は頑迷に言い募った。
けれどそんな気持ちの裏腹で、これが現実なのだと彰楽子は身体に、こころに思い知らされている。夢だと否定してしまいたい、でもこのどこまでも異常な空間で、圧倒的な現実感が彰楽子を押しつぶした。
こんなものを、奥ノ津村の住人は信じていたのだろうか。こんな世界が、神の国が、あると。
(わたしは端から、信じてなかったのに)
膝を引き寄せ、彰楽子は身体を丸める。
信仰心の欠片もなかった彰楽子が、こんな場所に放り込まれるなんて。山になんて、登らなければよかった。そうすれば、何もかも諦めたまま、生きていけた。こうして自分のために誰かが死ぬかもしれない恐怖を、味わうこともなかった。
夢を思い出した。あれは彰楽子の恐れと戒めの具現だ。両親は、無事だろうか。売られたも同然の彰楽子だったけれど、こわごわと触れあうような情しか交せなかったけれど、それでも自分のせいで誰かが死ぬのは怖い。こんなに遠く隔たれても、両親は彰楽子を奥ノ津に縛り付ける強力な楔だ。
けれどきつく目を瞑ったとき、瞼の裏に浮かんだのは昨夜の光景でしかなかった。
――――手、を。手を、差し伸べられたのだ。あのとき。
いつだってすべてを諦めて、誰かの意思に諾諾と従ってきた彰楽子は、あのとき、夜伏に手を差し出されて初めて、受け入れるしかなかった運命から救われたのだ。
それが彰楽子にとっては至上の幸福だったことなんて、誰も知れないだろう。
人ではないのか、抱きかかえられたとき、彰楽子は訊いた。
それがどうした、と。恐ろしいか。
夜伏はそう答えた。
バケモノだとは思わなかったが、まさか、神さまだとも思わなかった。
神さま。
彰楽子は希うように口にした。
一度も、神に縋ったことはなかった。そんな曖昧なものが、助けてくれるはずがないと諦観していたから。いつだって自分を救うのは、自分自身でしかなかった。そうやって十五年間生きてきたのに、いまさら。
たった一度の邂逅が、ここまで自分を脆くするのか。
――恐ろしいか。
あのとき彰楽子はいいえ、と言った。
いまは違う。夜伏がとても、恐ろしい。会いたくない、会ってはいけない。目覚めたとき夜伏がいなくて、彰楽子は心底安堵したのだ。
夜伏がいないうちにここを去らなくては、彰楽子は裏切りものになる。
彰楽子は痛む足を何とか折り、板敷きの床に正座した。深々と頭を下げる。
「……戻らなきゃならないです。お願いします。助けていただいたことには、感謝しています。でも、これ以上ここにいるわけにはいきません」
「顔をお上げください御子よ!」
岨野は恐恐と膝をつき、彰楽子の肩に手を掛けた。
「ですから、そのような勝手をする権限が、我らにはないのです。采配はすべて主さまにあります」
「でも、あなたも神様なのでしょう?」
彰楽子は頑なに平伏したままだった。「お願いします」
岨野は途方に暮れたようだった。
「……何か、我らがいたしましたか? お気に触るようなことでも? 御子は主さまの大切な方。非礼はいたしておらぬつもりです。確かに主さまは御子にとっては、――いいえ、でも、とてもお優しい方なのです。御子は主さまがお嫌いでしょうか」「そうではないのです!」
彰楽子は伏せたまま必死に頭を振った。
「わたしの無事を知らなければ、心配する人がいます。いますぐわたしを必要としている人がいます。長くいては、駄目なのです。待っている時間はないのです!」「ですが、」「お願いです!」
彰楽子の嘆願が、しかし叶えられることはなかった。
「――何事だ、騒がしい」
太い、男の声が聞こえた。
彰楽子は板の目を見つめたまま、目を見開いた。すっと身体が冷える。遅かった。
帰って、きてしまった。
(――――夜伏)
男が近づいてくるのが、床を伝わる振動で分かる。そして、圧倒的な、気配と。これが神威と呼ばれるものなのかもしれない。布を跳ねあげ、部屋に入ってきた男の、圧死しそうなほどの存在感に彰楽子は呼吸を細くする。夜伏の視線が、はっきりと顔を伏せたままの彰楽子の薄い背に突き刺さる。
「彰楽子」
促すように、男が呼ぶ。びくりと身体を戦慄かせ、いやだいやだと本能が拒絶するのを聞きながら、彰楽子は抗えず面を上げた。
「――は、い――」
男は、厳しい表情で彰楽子を見ていた。そこで初めて、彰楽子はまともに夜伏を見たのだと気づいた。
ここに住まうひとは皆男女を問わず彰楽子よりもはるかに大柄で、夜伏も例に漏れずそうだった。長身で、均衡のとれた男らしく厚みのある身体は誰よりも大きい。世界の縮尺が狂ったせいで眼球が痛む。
夜伏は白襦袢の上に濃灰の着物を着ているが、彰楽子の知っているものとは造りも着方も若干違った。胸元は大きく肌蹴け一見乱雑とも取れる着こなしで、帯も腰の横で長く結んで垂らしているし、下にゆったりとしたズボンのようなものも履いている。やや浅黒い肌に、荒削りながらはっきりとした顔立ちで、一切の甘さが残らない削げた顎の線が美しい。濃い藍の髪はざんばらに肩までかかっていて、同じく長い前髪を鬱陶しげに男が掻き上げれば、薄氷を刷いた切れ長の目が顕わになる。
彰楽子を射竦める眼光は鋭く、皮肉が似合う厚いくちびるが開かれる。
「……そのような格好で、足は痛まんのか」「っぇ、――え?」
身構えていたのに、予想外の問いかけに、反応が遅れた。数秒遅れて内容を解し、毒気を抜かれた彰楽子は間抜けに返す。
「そうですね……、痛いです」
「ならば体勢を変えろ。悪化しても知らんぞ」「すみません……、気をつけます」
もぞもそと動く彰楽子の身体を、猫の仔を扱う仕草でひょいと夜伏は持ち上げた。
「……ッ」「いまはいい。房に戻る」「っあの!」
「主さま!」
引きとめたのは、岨野だった。「実は、御子が」「あらかた聞いた。残りは本人の口から言わせる」
「ここで! ここで話します!」
彰楽子は夜伏から離れようと首筋に手を置いた。そしてそのてのひら越しの引き締まった男の筋肉の厚さにぞっとする。どうしようもない力の差を、そこから感じた。滅多に見ない大男と、おさない少女の絶望的な差を。昨日感じたのは、確かにその身に守られた幸福だったのに。
声を失くす彰楽子を一瞥し、あっさりと夜伏は歩き出した。行き先はおそらく、昨夜と同じ部屋だった。どこがどこだか、同じような造りばかりで見当がつかない。
彰楽子は丁寧に寝台に下ろされる。改めて見てみると、それはベッドというよりも寝台という呼称にふさわしい重厚な造りだった。
身体を休ませてくれようというのか、背中にいくつもの座布団やら腰当てやらを入れて凭れさせてくれる。ある程度明るい室内では、寝台の脇に立ち、腕組みをする男の険しい表情がよく見えた。
「――――で、」
促すように、男は言う。「お前は何が言いたい?」
「あ、あの」
居住まいを正そうとして、そのままでいい、と止められる。「あの、夜伏神、」「夜伏、と呼べ。許す。昨日はそう呼んだろう」
「だって、神様なんて、知らなかった」
男は、夜伏、としか名乗らなかった。
「知らなかったから、なんだ。夜伏でいい。それで、要件は。早く言え」
高圧的な物云いに、彰楽子は委縮する。それでも気力を振り絞った。
「も、戻りたい、です」
か細く彰楽子は答えた。
「充分お世話になりました。これ以上、ご迷惑をかけるわけには」
これは普通のことのはずだ、と彰楽子は思う。なのに言うのを憚られる、この空気はいったい何なのだ。
「戻る、か」
男の口元に、皮肉が滲んだ。想像通り、背筋が凍るほどそれは彼によく似合っていた。
「どこへ?」「どこへって、」
彰楽子は喘ぐ。
「村へ。奥ノ津へ」
「もう帰れぬ。お前はここに堕ちてきた」
軽い、口ぶり。視界がゆがむ。
「帰れない、って」
「帰れぬよ。この他界に迷い込んだ以上、翳に喰われるか、お前のように救われるか、ふたつにひとつだ」
「助けてもらったら、戻れるんじゃないんですか」
「どうして」
くつくつと男は嗤う。
「私がお前を助けたのには、理由がある。親切心からではない。そしてそれは、お前を村などに返すという理由ではないよ」「じゃあ、なんで」
「彰楽子、お前は忘れたのか。昨晩誓ったろう」
「なに、を」
訊きながら、そろそろと彰楽子は腕を持ち上げた。不利な話だと、直感がした。耳を押さえ、逃げようとする彰楽子を、阻むために夜伏は寝台に乗り上がる。
男ひとりの重みでへこんだ寝台、怪我のせいで彰楽子は容易に転ぶ。
大柄な男は彰楽子を囲うように覆いかぶさってきた。彰楽子に一切の体重をかけないようにしているのは、怪我をしている彰楽子へのせめてもの情けなのか。少女は夜伏を見ないようにして、身体を丸めた。
「私のサイになる、と」
彰楽子の脳裏で、昨夜の言葉が蘇る。
『ここで殺されるか、私のサイになるか、だ。選べ』
あのとき彰楽子は、確かになる、と言ったのだ。選んだのだ。その重要性を知らぬまま。
「だから何?」
彰楽子は過去を振りきって、戦慄く言葉を吐き出した。
「覚えてる、でもどうして戻してくれないの?」
「お前、サイがどういう意味か知っているか?」
「――――いいえ」
「サイとはな、」
――頭を撫でてくれる手はやさしいのに、どうしてこんなにこの男が怖いのだろう。
「私の嫁、と言うことだ。妻、つまり、私と婚姻する約束を、した。お前は」
(よめ? こんいん、――――婚姻)
婚姻。
それが明確な漢字として処理された瞬間、彰楽子は思わず顔を上げた。至近で見下ろしてくる男は、何やら楽しげにしている。
呆けたまま、無事な方の手で彰楽子は自分を指さし、男を指さしした。
「……婚姻? あなたとわたしが? ――結婚?」
「そうなるな」
――結婚、
「ッ無効だわ!」
その単語がはっきりと胸に落ちた途端、咄嗟に彰楽子は叫んでいた。男の逞しい体躯を押しのけ、寝台の背凭れまで後退して身体を庇った。「そんな口約束、くだらない!」
しまった、と後悔したときにはもう遅い。
ゆったりと、男はとても綺麗に、嗤った。
「――――くだらない、な」
一段低くなった、冷えた声音。
すぅ、と、男は目を細める。怒りにかきらめく光彩の色の鮮やかさに、彰楽子は全身に力を入れた。
「そう思うなら、思えばいい。だがお前が私と誓約を交わした事実は、変わらぬ。その言葉が無効になることは、決して、ない」
底辺に怒りを湛えたまま、声を荒げることなく、静かに男は言った。
「ひ、卑怯、だわ」
彰楽子は瞳をゆがませた。「だって知らなかったんだもの。そんな意味なんて、わたし」
「いいわけにもならんな。訊けばよかった」
「そんな状況じゃなかった!」
彰楽子は涙に染まった声を張り上げた。握ったこぶしが敷布を叩く。
「訊く余裕なんて、なかったじゃない! 助けてもらえるって、わたし、そればっかり――」
「だから、無効だと? だがお前は頷いたろう」
「死にたくなかったんだもの!」
「死と、わけもわからぬ契約と、お前はそのとき天秤にかけたのだろう? そして、選んだ。今更安全になったからと、覆すのは虫がよすぎると思わんか」
彰楽子は言葉に詰まる。詰まらざるを、えなかった。そうだけど、と反駁しかけたが、その先は尻つぼみになって消えた。確かに、同意したのは彰楽子だ。切羽詰まっていたとはいえ、安全地帯に入ってから契約内容に文句をつけるのは理不尽だ。でも。
「死ぬところを助けてやったんだ。死と比べれば、どんな対価も安かろう」
安い、気がする。安く見える。命を救われたのだから、どんな要求でも呑むのが道理に見える。
でも、こころは違うと拒絶する。
「何か、別のものではいけないの? お金とか、そういうものじゃ、駄目なの?」
言い募る彰楽子に、夜伏は鼻で一蹴した。
「人間の貨幣が、我らに何の価値がある」
「そうかも、しれないけど」
ひとのような姿をしていても、確実にこの男の本性は違うモノなのだと彰楽子は思い知らされる。
他に、何か。夜伏にとって価値のありそうなもの。
「っじゃ、じゃあ、神楽、は? わたし、神楽が舞えるわ。まだはじめたばかりだけれど、それではだめ?」
「――神楽か。悪くない。私のために舞うのならな」
「じゃあ、」
表情を明るくし身を乗り出した彰楽子の、眦に溜まった雫を拭いながら夜伏は逆接を紡いだ。
「だが、一度きりではだめだ。それこそ毎夜侍って舞ってもらうくらいでなければ。そうなれば、もう妻になるも同然だろう。意味はないな」
「、そん、な」
(――っどうしよう、)
彰楽子は再び、込み上げてくるものにくちびるを引き結んだ。
どうしたらいいんだろう。現状を打開するには。彰楽子のちっぽけな脳髄では、もう何も案が浮かばない。
「……っじゃあどうすればいいの!」
「初めから言っている。私の妻になれ、と」
「それは駄目!」
間髪いれずの彰楽子の否定に、夜伏も不機嫌そうに目元を引き攣らせる。
「……そこまで嫌か」「駄目だって言ってる」
聞きわけのない彰楽子の様子に夜伏はふかぶかと息をつき、寝台に寝そべった。片肘をつき、行儀悪く彰楽子を見上げる。
「ならば、仕様がない。……もう一度訊こう、彰楽子よ」
「――――――ッ」
これが最後だ、と言う夜伏の声が、瞳がどれだけ底知れぬ昏さを湛えていることか。その眼光に曝されれば、彰楽子は呼吸ひとつままならない。瞬きすらも、ゆるされない。
視線を逸らすこともできず、彰楽子は男の眼差しを受け止め続けなければいけなかった。
それは、何気ない口調では、あったけれど。
「――『死ぬか、私の妻になるか、選べ』」
――――それは力を持つものが、その当然の権利を振った結果だった。だからこそ、彰楽子は絶望した。こんな問いかけ、もともと選択肢なんて、残っていない。
「彰楽子、私はさほど、寛容ではない。いつまでもお前の駄駄に付き合ってやるつもりもない。私の妻にならぬ人間を、いつまでもここに置くつもりはないのだよ。お前でなければ、誰であろうと捨ておいた。死にたいのならすぐにでも外に放り出してやる。夜になれば翳がお前を喰いに来るだろう」
翳、あの容なき恐ろしいモノたちの蠢きがよみがえり、彰楽子は身震いした。そうやって目元に怯えを滲ませる少女の頬を、手つきばかりは穏やかに、男は撫でるのだ。
「……それとも、私がこの場で縊り殺してやろうか。私のものにならぬなら、いっそその方がましかもしれん」
自分が救った命をあっさりと夜伏は棄てるという。彼は自分のものにならない彰楽子には、一片だって興味がないのだ。
「……ひどい……」
彰楽子はようよう言葉を絞り出した。
「ひどい?」
夜伏は心外そうに片眉を跳ねた。
「ひどいのはお前のほうだ。お前は私を利用するだけだ。彰楽子、あまり私を苛立たせるな」
「こんな、人の弱みにつけこんで」
「なにが悪い。それだけ立場の弱い場所に、お前は来たんだ。お前の不注意だろう。文句を言うのはお門違いだ。親切心だけで人助けができるほど、神は暇ではない」
「っええそう! 分かりました、よぉっく分かりました!」
――彰楽子は、とんだ勘違いをしていたのだ。
「……っ妻になる。いいんでしょう、それで、満足なんでしょう」
精いっぱいの冷静さを持って、彰楽子はつぶやいたつもりだった。握ったこぶしが、ぶるぶると震えていた。「――言ったな?」
俊敏な動作で、夜伏が起き上がる。彰楽子の顎に指を掛け、その瞳に偽りがないか確認するように見つめる。
「一度受け入れたのだ。反故にするのは、赦さない。お前は神を相手に誓ったのだ」
「……ッ」
ちいさな彰楽子がいっぱいいっぱいになっているというのに、その上夜伏は追い打ちをかけてくる。彰楽子は堪らなかった。感情の糸が切れる。
「っあなたのこと、いいひとだと思ったのに! 助けてくれるんだって! わたし、初めて!」
喚きながらぼろぼろと涙をこぼして腕を振り回す彰楽子の手首を、夜伏はやすやすと捕まえてしまう。
「ひとではないからな」
飄々と嘯く夜伏に、感情は振りきれるばかりだ。
「そういうことを! 言ってるんじゃないの!」
なんで分かってくれないの。彰楽子は悔しくてみじめでたまらなかった。
「交換、条件、なんて……っ」
ではあのとき伸ばされた手は。それに感じた歓びは。初めて救われたと思ったのに、生まれて初めて心の底から安堵した腕のなか。誰かが彰楽子を思いやってくれたと思った、あの気持ちはどこに行けばいいのか。
「うれしかった、のに……っ」
これでは、一緒だ。結局、同じだ。このまま夜伏のいいなりになって彼の妻になるなら、流されるまま生きてきたいままでと何も変わらない。
どこからも逃げられなかった、いままでと同じだ。
幸せだった思い出をよりによって本人に踏みにじられて、彰楽子は途方に暮れた。
多分、夜伏に罪はない。彰楽子が辛くてやるせないのは、彰楽子だけのちっぽけな都合だ。
優しさを、安心を。孤独な少女が与えられて、その人に惹かれないわけが、ないのに。
見返りを求めるのも、理性では納得できるのだ。でもその見返りが、彰楽子自身というのなら、それは対価が大きすぎる。それでは、奥ノ津の連中が彰楽子に強いようとしていることと、なんら違いない。
この人は、駄目だ。
彰楽子ははっきりと悟ってしまった。
助けてもらった。それは事実だろう。でも。
「――あなたにこれから縛られるなら、そんな人生、すこしも意味がない……っ」
彰楽子は悲痛に声を掠れさせた。
振り上げたこぶしを夜伏に受け止められたまま彰楽子は項垂れた。嗚咽するたび、ぱたぱたとむなしく涙が落ちる。
「どうしてわたしなの。神様なら、もっと選び放題でしょう。わたしじゃなくてもいいはずでしょう……」
彰楽子は、とりわけ優れたところがある少女ではない。目が醒めるほど美しい容姿をしているわけでもなく、至って平平凡凡。その分社交的で明るい性格をしているならまだ好かれようもあっただろうが、平素は無表情無感動無口といったもので、何を考えているのか分からない、と遠巻きにされた。そんな何の取り柄もない自分を、彰楽子は重重自覚している。そんな歪なところがかえって人目を引いていたのだろうか。村に来る前から、彰楽子は好奇の視線にさらされ続けていた。
そんな不完全な人間を、わざわざ神ともあろうものが妻にする必要はないはずだ。
「誰でもよかったのなら、お願いだから村に戻して。こんなことをしている時間はないの……!」
――いまに。
彰楽子がこんなところに迷い込んだばっかりに両親は殺され、彰楽子への見せしめと、せめてもの慰めとして捧げられる。舞い手のいない神楽に神が憤ることのないように。
夜伏はそんな、冷酷な神なのだ。
彼のための、祭りなのに。
(――あれ、)
そのときようやく一歩、彰楽子のなかで思考が先に進んだ。
彰楽子は涙にぬれた顔を上げ、夜伏を睨んだ。
「わたしがいないと、神楽ができないわ……。それでもいいの」
「懇願していたと思ったら、今度は脅しか。よくやるな」
夜伏はようやく彰楽子の手を放し、呆れとも好奇心ともつかぬ様子で胡坐をかいた足に片肘をついた。
「それで村にまた災いを起こすなら、理不尽でしょう」
「そんなことはせんよ」
「嘘。前の秋の大祭のとき、あなたは村を水に沈めたと聞いたわ」「それを私がやったことだと?」
この問いかけは、すべて呆れから構成されたものだった。
「それは人間の営みだ。興味がない」
高みから見下ろせるものの、乾いた声音だった。おそらくその無関心さが、夜伏の冷徹さの源流なのだ。
「祀ろうが貶めようが、神には一切関係のない話だ。どのように扱われたからといって、神に害があるわけではない。好きにすればいい。十七年前の水害はあるべくしてあった災害だろう。巫女が逃げたせいではないし、その腹いせに引き起こされたものでもない。もしくは、奴ら自身のせいだ」
それは彰楽子が、夜伏に出遭うまで信じていた事実そのままだった。本物の神とやらを前にして、彰楽子も思考が毒されてきていたのだ。
「じゃあそう言いに行くわ奥ノ津に! 関係ないって! 神楽は必要ないって!」
「お前がそう言えば、はいそうですか、と信じられる程度のことなのか?」
「じゃああなたが言ってよ! わたしが欲しいなら言いに行って! わたしが舞わないとまた酷く悪いことが起こるって皆信じているのよ。だからわたしが戻らないと、人質の両親が殺されてしまう」
「何故私がそこまでお前のためにせねばならん?」
夜伏は心底不可解そうだった。
「一度命を救ってやったのにその対価も払わず、更に自分の親族の命をも救えとは随分ずうずうしい奴だ」
「結婚はするって言った!」
「だとしても、だ。認めるわけにはいかんな」「どうして!」
すぐそこまで解決が近づいているのに、夜伏が思い通りになってくれないことが彰楽子はじれったい。
夜伏が村は彰楽子がいなくても大丈夫だと保障してくれさえすれば、万事うまくいくのだ。両親は死なずに済むし、彰楽子は名目上、奥ノ津の神と交わるための巫女だ。もともと夜伏のものとも言えなくはないのだから、住人が文句をつけることもないだろう。むしろ本物の神に仕えることになるのだから、ありがたがってもらってもいいくらいだ。
でもこのままでは彰楽子はただの逃亡者だ。事実を村人に知ってもらっていなければ、両親は無駄に死ぬことになる。そんなことは耐えきれない。そんなものは背負えない。
「これは必要な手続きのはずよ」
「悪いが、私がそんなことをしても意味がない。もちろん連中くらい、誤魔化せんこともないかもしれんが……。――彰楽子、分からんのか?」
謎かけを楽しむ子どものように口元をにやつかせて、男は両手を広げてみせた。「私が、何か」
ぶわりと広がる夜伏の神威に、彰楽子は瞠目して息を呑む。
「――え?」
困惑するだけの彰楽子へと差し出された手。促されるままその手を取る。ひんやりと冷たく、けれどその皮膚の下に確かな熱源を感じる。
「驚くなよ、彰楽子」
「わか、……った」
何がこれから起ころうとするのか不安で、ぎこちなく彰楽子は首肯した。
「私の腕を見てみろ」
促されて、着物の袖をめくる。彰楽子は無言になり、見えたものに瞬き、確認するように指でなぞった。「なにこれ……。……鱗――?」
ぱりぱりと音を立てて広がっていく鱗の皮膚。幽かな光に反射して、きらめきを放つ。引き寄せられるまま夜伏の首に腕を回すと、そこにも人の肌とは違う、堅く滑らかな感触があった。
「ここは元身になるには狭すぎるゆえ、中途半端になってしまうが……。どうだ? 彰楽子」
みるみるうちに、夜伏の容貌は骨格からして変わっていく。
「…………龍?」
思いついた名は、すぐに本能が違うと囁いた。ぎょろりと蠢き、彰楽子を試す赤酸漿、
「――いえ、蛇、蛇だ……」
息をのみながら、彰楽子はつぶやいた。
人とその生き物が混じった姿はおぞましく、同時にひどく美しかった。太く低い声が喋りづらそうにしているのは、覗く二又の赤い舌のせいか。頬も細かな鱗が散り、先の尖った耳の後ろあたりから、それぞれ角が二本生えていた。
彰楽子は手を伸ばし、その角に触れる。物怖じしないその態度に、夜伏は楽しげに咽喉をごろりと鳴らした。
「さすが、私が選んだだけはある。悲鳴をあげないとは、いい子だな」
そして意地悪く声音を変える。
「――奥ノ津の神はどんな姿をしている?」「……人の姿をしているわ」
「私は?」「――蛇神。蛇神、だわ……」
浮ついた声で、彰楽子は応ずる。その茫洋さとは裏腹に、混乱が脳では渦巻いていた。
では、彼 は い っ た い 何 な の だ ! ?
奥ノ津の神だと無条件に信じていた、彼は。
自分の夫になるという、この、神は。
(……まさか、)
ぼんやりとしていたこころに、さざ波のように驚愕が広がっていく。
たった一柱だけ当てはまるのは、天神に敗れた悪しき神。
咄嗟に仰け反る彰楽子の両手首を掴んで男は引きとめる。大蛇の尾が腰に巻きつき、男へと引き寄せる。冷たい恐怖が腕を這い、心臓に凝る。
「滅びたんじゃ、」
喘ぐ彰楽子に、夜伏はゆったりと首を振った。
「……そんな事実は、人の記録のなかにしかない」
夜伏が村に行けないはずだ。
奥ノ津が祀るのは、夜伏を成敗した神だ。云わば夜伏に敵対する神で、彰楽子はその神に仕える巫女姫のはずだった。
――それなのに。
彰楽子はいま、一番いてはいけない男のもとにいる。
そして、夜伏は決して彰楽子を手放さないだろう。
どこかで何か予感がしていた、恐れていた、その茫漠とした不安はここから来ていたのだ。彼は、彰楽子の神ではなかった。
「――誓ったな? 彰楽子。私の妻になると」
騙された、堕とされた、罠だったのだ。内心が口々に喚くけれど、村に対する、神に対する最大の背信に、彰楽子はへたりこむしかなかった。
もう誰にも弁明できない。
彰楽子は夜伏に囚われてしまった。
うっそりと囁かれる台詞は、とてもやさしくて、甘かった。
「――天津神のもとになど、返さんよ」