序章 奥ノ津村の巫女姫
鬱蒼と茂った草木を掻き分けながら、細い山道を彰楽子は進む。人が辿らなくなって久しいのか、獣道と呼ぶのも憚られる代物だ。登山用に舗装もされておらず、急な斜面に頼るべきものもない。登山に不向きなローファーのせいで何度も足を滑らせ、そのたびに肝を冷やしながら腰ほどまで生えた雑草にしがみつく。葉枝は彰楽子の前を阻もうとし、剥き出しの手足に容赦なくすり傷をつけていった。彰楽子は高校の半袖のセーラー服のまま、衝動的に山に登っていた。
季節は仲秋。
夏の暑さは引け始めていて、過ごしやすい気候になっている。背の高い木々が太陽を遮る山中ではむしろ寒いほどだが、山登りに慣れない身ではすぐに汗が滲みはじめた。肩にかかる程度のボブヘアは結ぶには中途半端な長さで、汗で張り付いて鬱陶しい。
それでも彰楽子は歩き続けた。呼吸は上がり、普段は使うことのない筋肉が悲鳴を上げたが、黙々と隆起した土を踏みしめ、上っていく。
もっと高く、上に。振り切るように、彰楽子は進んだ。けれど自身を縛るものから逃れられるなんて、実際のところ少女はすこしも期待していない。諦めて……それでも、彼女は僅かでも現実から遠ざかりたかった。
誰もいない場所で、深く呼吸がしてみたかった。
「なんで……、わたし、がっ、こんな、目に……ッ」
喘ぎながら、彰楽子は幾度となく繰り返してきた言葉をまた吐き出した。
数ヶ月前、真新しい制服がようやく身に馴染んだ高校一年五月、彰楽子の現実は大きく変わった。
何かに脅えるように、逃げるように、彰楽子は両親に連れられて各地を転々としていた。ものごころついたときには、既にそれが当たり前になっていた。碌に学校にも通えず、友達も作れたためしがない。いつも遠巻きにされ、視線だけが背中にべったり張り付いていた。けれどそんな生活に文句のひとつも言わずに黙って従ってきたのは、それが彰楽子のせいなのだと、ぼんやりと知っていたからだ。予感は常に彰楽子の周囲を取り巻いていた。
――あいつらに捕まったら、終わりなの。お前は女の子だから。
母はよくそう言った。その通りだ。見つかってしまったら、最後だった。
奴らは有無を言わせずに彰楽子をこの奥深い山山に囲まれた、奥ノ津村に閉じ込めた。外界から鎖された、閉塞感に満ちた旧い時代を引き摺った、そんな狭い世界。そんな場所が、彰楽子の終の棲家となった。懐かしさはなかった。幼少期のみの僅かな期間とはいえ、過ごした場所。けれどそこは人も風土も、戻ってきた彰楽子にとって何もかもが異常だった。すっかり記憶から抜け落ちていた、弟という肉親でさえも。
怨むならお前の父と母を怨むがいいと、村に連れられ、引き合わされた祖母は言った。母が負うべき役目を棄てて、父と契ったことがそもそもの始まり。処女でない母はもうその役目は負えぬ。父の血が雑じった出来損ないであるとはいえ、務められるのは娘の彰楽子だけだ。母の身代わりをしろと命ぜられた。
そのときのことを思い出し、彰楽子は薄く唇を持ち上げる。
彰楽子は巫女姫なのだそうだ。この時代に、嗤ってしまう。
廿年に一度、村が祀る天津神を慰撫するために、捧げられる清らかな処女。
しかしその実態はそんなお綺麗なものではないことを、彰楽子はもう気づいている。村人たちに向けられる視線、男の卑下たそれ、女どもの蔑みと憐れみの眼差し。
神などいない。いや、いるのだろう、この村のなかには。父と母が禁を破って契り、彰楽子が産まれた年、村は大水に沈んだ。それを村は神の祟りとした。母が巫女としての役割を放棄した、その報い。彰楽子にしてみれば、それは不幸な偶然だ。そういうこともあるだろう。しかし、村人はそうは考えなかった。彼らのなかに、いまだ確かな形を持って、神はいる。ただ、実体を持って顕れることはない。
神事が行われる秋の大祭の日、彰楽子は社に仕える他の巫女たちと一緒に巫女神楽を舞う。神事は二日に渡って行われ、一日目の神楽は神を迎えるため、二日目の神楽は神を送るための神楽だ。夜は別宮に籠り、神と休む。休む、それは、隠語だ。迎えた神と交わる。つまり、性交。そうして巫女姫は神の子を身ごもり、次代の巫女姫が産まれる。そういう習わしだ。
しかし、真実の神は巫女のもとへは訪れない。訪れるはずがない。来るのは人間の男だ。別宮に到るまでのいくつもの試練を乗り越え、一番に巫女のもとに辿りついた男が、彼女と交わる権利を得る。
一番に到着できるのはその男に天津神が宿るから。故に巫女姫は神と交わっているのだ。
もっともらしくそう語られているが、それは嘘だ。村人たちの視線がそれを物語っている。役目を神聖視する一方で、好色と侮蔑を投げられている。
彰楽子は愛した男でもない、誰とも知らぬ男に抱かれる。男は彰楽子を好きにする権利を得る。
ぞっとした。自分の身が穢らわしかった。品定めをする目に曝されるたび、服の下の肌を視姦されている気になった。なのに彰楽子はこの村から逃げ出せない。
――両親を人質に取られている。
力任せに圧し折った枝のささくれが、てのひらに刺さった。じわりと血がにじむ。
祖母を含めた社の人間は、実に卑怯な真似にでた。住んでいるところこそ違うが、両親は自由に暮らしているらしい。けれどひとたび彰楽子が反抗するそぶりを見せれば、その命はやぶさかではない、と。
それだけ彰楽子は、奥ノ津村にとって逼迫した存在だった。彰楽子ひとりで、村を潰せるほど。もう一度天津神の妻たる巫女姫が使命を放棄することがあれば、大水だけでは済むまいと皆信じている。妄想だ、妄執だ、彰楽子の呟きは、信仰に支配された村人には効かない。
だから彰楽子は村に来てから四カ月、ひたすら従順に振る舞ってきた。言われるままに月ごと季節ごとの神事にも参加した。廿年ごとの大祭にはまだ猶予があり、あと三年後に執り行われることになるが、もともと自我の強い方ではない。逃げるつもりもない。もともと流されて生きてきた希薄な人生だ。
何事にも素直なおかげで厳しかった監視の目も緩み、いつでもどこでも、というわけではなくなった。神楽についても、覚えがよいとあたりの強かった祖母の態度もすこしは軟化してきている。
そのおかげで手に入れたつかの間の自由――。爆発しそうな感情をぶつける先を求めて、彰楽子は発作的に御山に足を踏み入れたのだ。最初の数日は、ひとりになる場所を探して近隣を彷徨っていただけだった。だが結果として分かったのは、村にいる限り、気が休まることはないということだ。
弟の直彰はなにくれと彰楽子を慮り、時間が許す限り一緒にいようとしてくれた。けれどその思いやりすらいまは煩わしかった。いたるところで向けられる、皮膚呼吸をじわじわと阻害される視線に、被っていた仮面も限界だった。
「大丈夫だよ」「おれがいるから」
直彰は何度も彰楽子をそう慰めてくれたが、そんなやさしい弟を気障りに思ってしまうこともままあった。
たった一人、村に残されて生きてきた直彰。村に戻ってくることが彰楽子の本意ではなかったとしても、それでもまた会えたことが嬉しいと彼は泣いた。想いはありがたかったけれど、それを受け取れるだけの余裕が、いまの彰楽子にはない。
御山に入ることは禁じられていた。山には神域がある。まだ来て日の浅い彰楽子はどこがそうかは分からないし、そもそも人は神奈備たる御山には滅多に近づかない。うっかり迷い込んでしまえば生きては戻れないとも伝えられているらしい。
奥ノ津村が祀る神は天から下った。それが奥ノ津にある神社縁起だった。当時山には荒ぶる神がおり、村人を苦しめていた。天津神は腰に帯びた神器を使い、荒神を退治て、山を、その周辺一帯の支配権を得た。以後奥ノ津村はその神を祭神として祀った。天津神、荒神と忌み詞で呼称しているが、実際にはちゃんとした正式な名がある。縁起を読めば知ることはできるものの、文体が漢文なので、彰楽子は手に取らずじまいだった。別に、知らなくても支障はない。
神域で天津神は荒神を討ち、滅ぼした。神の名残深いその土地に行けば、時折異界に迷い込むことがあるという。
とはいえ、ひとりになりたかった彰楽子としては御山こそが唯一気が休まる場所に思えたし、神域などという迷信は滑稽ですらあった。足が鈍る要因にはならない。
それから、どれほど登っただろう。ふと視界がひらけ、彰楽子は足を止めた。
目を見張り、その場に立ちつくす。
密集していた木木が消え、丸く拓けたその場所には小ぢんまりとした池があった。左手の切り立った崖から水が伝い落ち、飛沫をあげて池に流れ込んでいる。池を挟んだ正面には、苔生した石段が隠れていた。高く生い茂った雑草に阻まれながら、ひっそりと彰楽子にその先を示している。
忘れていた呼吸を、ひとつ。ほうと息をつく。
彰楽子は、ひとりだった。
人の声もなく、確かに村から離れられた実感。どうせまたすぐに囚われに戻るのだとしても――このときだけは確かに彰楽子は自由だった。
鳥のさえずり、木々のざわめき、深い緑の香り、清涼感溢れる水音。木陰を縫って落ちてくる日のひかりが水面をやわらかく輝かせる。すべてが彰楽子にやさしく、目を細めた。涼しげな風が、彰楽子の汗を冷ましていく。
彰楽子は吹いてくる風を受けながら池の淵を歩いた。水は驚くほど澄んでいたが底は暗く、どれほどの深さがあるのか見当もつかない。そしてそれは、石段についても同じようなものだった。池から一段目までの距離は、せいぜい彰楽子の足で数歩ほどだ。その狭い場所に立ち、彰楽子は頭上を振り仰ぐ。それは終点が確認できないほど長く上へと続いていた。段差が不揃いな上に斜面も急で、横幅も狭い。石段に沿って両隣にずらりと生えた杉の大木が、余計に圧迫感を与えていた。
もうずいぶん歩いた。そろそろ帰らなければ、余計な誤解を生むかもしれない。けれどなけなしの好奇心が疼く。この上には何があるのか、気になってしかたがなかった。
誘われるように、彰楽子は石段に一歩足を踏み出した。しかし急な石段は登りにくく、十数段上がったところで思わず滑りそうになって咄嗟に杉の木にしがみつく。
「っぅ、わ」
(……助かった)
そろそろと身体を放すと、ちょうどしがみついたときに握りこんでいたのであろう、何かの残骸がてのひらについている。
「なんだろう……、わら?」
手をはたき、よくよく検分すると、どうやらしめ縄の残骸らしかった。切れて垂れた一部分が、幹に張り付いている。長い間風雨に晒されて、どうやら朽ちてしまっているようだ。
「なんでこんなところに……」
何の気なしにその先の杉、さらにその先の杉、向かいの杉、と視線を移すと、そちらにもしめ縄が張られていた名残がある。つと視線を足元に落とすと、石段の上に積もった腐葉土には杉の葉だけでなく藁も混じっており、中にはまだ縄の原型を残しているものもある。
それは、ふと彰楽子にこんな情景を想像させた。
――しめ縄によって、厳重に封印された、石段を。
(まさか、)
彰楽子はぎょっとして、後ろを振り返った。予感が胸中に冷たく染み入る。彰楽子の目に飛び込んできたのは、朽ちた木製の、巨大な鳥居だった。爽やかだった空気が、異質に凍る。
そのとき、慌ててしまったのがいけなかった。足が滑り、視界がぶれる。彰楽子の背を押すように、突風が吹いた。しまった、と思ったときにはもう遅い。縋るものを欲した手はむなしく空を握り、彰楽子の身体は空中に投げだされる。