少年、暴走が収まる
途切れ欠け、朦朧としている意識の中でレンゲはサードの身を地面に倒れながらも案じていた。
痛む背中の激痛に耐え、すぐ近くで自分の耳に何かがぶつかり合う衝突音が聴こえて来る。恐らくだがヤミとサードが戦っているのだろう。
あのヤミと名乗った女性はサードに対して異常な執着をしていた。それは単純にサードが男だからではなかったように見える。
「(う…ぐ、サード…く…ん)」
気力を振り絞って傍で行われている戦いに目を向けようとするレンゲ。
彼女の意識がはっきりと浮上してくるが、それに伴い背中の痛みもより鮮明に蘇って来る。しかし、それを堪えて腕に力を籠めて起き上がろうとする。
だが、彼女が立ち上がるよりも前に耳に聴こえていた戦いの音が途絶える。
「サー…ド…くん」
息を乱しながら視線を彷徨わせると、サードの姿を確認できた。彼は背中を向けており、更に頭部と臀部には獣の耳と尻尾が生えている。
だが、彼女が一番目に付いたものはサードの容姿ではなく彼の足元に居る人物の方であった。
「ひゅー…ひゅー…」
彼の足元には全身がボロボロの瀕死状態の女性が倒れている。よく見ればそれは自分を襲ったヤミであることが確認できる。
そしてサードの顔にはその女性が口や体の切り傷から吐き出したであろう返り血が僅かに付着している。
「サ…ド…くん」
体に走る痛みなどどうでも良かった。ただ、今は目の前で暴走している彼を諌める方が先決だ。どう見ても今のサードは普通の状態ではない。それは唯単純に彼の容姿が変貌しているからではない。朦朧としている意識の中、自分の身を案じ、そして苦しむサードの声が微かに聞こえた。
「落ち…着いて…サード君、ごほっ!」
「……」
足元で死に体となっているヤミから視線を外しレンゲへと視線を移すサード。
その瞳には自分がいつも見ている純粋な光は宿ってはいなかった。ヤミを見ていた時同様に今のサードが自分に向ける瞳には疑心、警戒の心が見て取れる。
唸り声こそ出してはいないがその眼差しはまるで針の様にレンゲへと突き刺さる。
「だ…い…じょうぶ…」
ゆっくり、ゆっくりとサードへと近づいて行くレンゲ。
レンゲが近づくにつれてサードは小さくだが唸り声を出し始める。しかし、それでも少女の足が止まる事はない。ここで自分が怖れを抱いてしまえば、それは彼を恐怖していると言っているようなものだ。
そんな心で彼が警戒を解いてくれるはずがない。そんな心構えで彼が自分を信頼してくれるはずがない。
今、自分が怖れるべきはもう一度起き上がるかもしれないあそこのヤミという女、唯一人だけである。
「えへへ…ごほっ…こ、怖かったよね?」
自分のことよりも突然ヤミの様な歪んだ愛情を押し付けられたサードを精一杯の笑顔で心配してあげるレンゲ。
一番の外的被害を受けているのは確かに自分かもしれないが、サードの心はそれ以上の傷を負わされているかもしれない。
「でも…もう大丈夫。サード君がやっつけちゃたんだから! あはは…だから…落ち着いて」
「……」
警戒を見せ続けていたサードであったが、柔らかなレンゲの微笑みによってとりあえずは唸り声は収まってくれた。だが、やはりまだ信用しきれていないのだろうか、その眼差しは訝しむモノであった。
少しは落ち着きを取り戻してくれたと判断すると、レンゲは普段通りの感じでサードへと近づいてきた。
「もう~、いつまでそんなブスっとしたお顔をしてるのかな~。私はキミの同僚のレンゲさんなんだぞ~」
「わう…」
サードの目の前まで寄ると、彼の頭をワシャワシャと撫でまわしてやる。
「………」
少し乱暴だが、痛みを与えない加減した撫で方。この感触を…温もりを…自分は知っている。自分は憶えている。そして、その手で自分をいつも撫でてくれた人物の顔も鮮明に蘇って来る。
そうだ…自分はいつも目の前に居る、いたずらっ子の様な彼女にこうして頭を……。
そこまで思考が行くと、サードの意識は次第にハッキリと覚醒してくる。
「あ…あれ?」
そして、ようやくサードは正気に戻った。
すぐに目の前で自分の頭に手を置いているレンゲが目に付いて、彼女に何があったのかを聞き出そうとする。
「レンゲ…俺は何を……あっ!」
レンゲに質問を繰り出している最中、次第に今までの出来事がハッキリと蘇り始める。
そうだ、自分は確かレンゲが忘れたエプロンを届けに行き、その道中でレンゲと出会い、あのヤミとかいう女と出会い……。
思考がそこまで蘇ってくると、サードはレンゲが傷つき、血を流していたことまで思い出した。
「レ、レンゲ! そうだよ背中、背中の傷は!?」
慌ててレンゲの背を確認すると、そこには自分の記憶と何一つ食い違うことなく真っ赤な色彩で彩られていた。
鉄の香り漂う赤色をその目で改めて確認して、サードは再び軽い混乱状態に陥りかける。だが、彼の顔が青ざめた瞬間、そっとレンゲは彼の頬を両手で挟んで笑顔を向けた。その表情はとても背中に大きな負傷を抱え、激痛に抗っている人間とは思えない程に穏やかな物であった。
「レ、レンゲ…」
備えられた頬の両手を、そっと上から自分の手を重ねるサード。
「もう…大丈夫だからさ…帰ろう」
気が付けばサードの頭と臀部から生えていた獣の耳と尻尾は消えており、いつものサードへと戻っていた。だが、冷静になったからこそサードはより一層レンゲの今の姿に狼狽えを見せる。
「か、帰るよりもまずは病院! 病院に行かないと!!」
サードがそう言ったと同時にレンゲの体は脱力し、再びサードへと倒れそうになる。
覆いかぶさって来たレンゲを優しく受け止めると、サードはマナを使い姿を少年から青年の姿へと変え、今居る場所から一番近いであろう診療所へと全速力で向かう。
「(レンゲ! もう少し堪えてくれ!!)」
思わず泣きそうになってしまう自分を懸命に押しとどめ、余計な事は何も考えずに背に居るレンゲを救うためだけに脚を動かす。
マナを使い極限まで身体能力を向上しサードは一瞬でその場から消える。そして後に残ったのは彼女を傷つけた張本人であるヤミただ一人であった。
「ぐ…サード君…どこ?」
地に付した状態でもサードを捜そうともがくヤミ。
こうして見ると、彼女の今の姿は余りにも惨めな物と言わざる負えないだろう。裏切りをきっかけに他人を信用できなくなり、そんな不安定な状態でも誰かを好きになれた。だが、その愛は歪に歪み、捻じれ、そしてその心まで利用された。挙句には愛しの人物のその手で倒され、そして愛しの彼は自分など目もくれず忌まわしい女を連れてこの場から消えて行った。
「本当…哀れ過ぎて見ていられませんわ」
頭上から声が聴こえて来る。
体を起こす事は傷つけられた体ではかなわず、顔だけを何とかして上げた。
そこに居たのは、自分をたきつけたあの魔女であった。
「どれだけ強大な愛を持っていても、強固な彼の心は潜り込むことを許さず跳ね除ける。その結果、あなたは今這いつくばっている」
魔女はそう言いながら、倒れているヤミの耳元まで口を持っていきそっと囁きかける。
「ねえ、私と一緒にこの世界から〝男〟を根絶やしにしてみませんか?」
「……」
ヤミはその囁きに数瞬顔を俯かせ無言のままでいたが、やがて顔を上げて口を動かした。
「――――」
彼女の返答を聞いた魔女は、口元に弧を描きながら唇をペロリと舐めた。
その笑みをまるで獲物を自分の中に吞み込もうとする蛇そのものであった……。




