暖かい唇
その日、彼と彼女のささやかな結婚式は予定通り始まった。
式場として借りたのは町の郊外にある小さな教会。30人も入れば誰かが立っていなければならない大きさだが、開式となる12時まであと3分の現在、真ん中に敷いたレットカーペットを挟む三列の長椅子は半分空いている。これでも新婦に付き添って行った二人を除いて、予定していた招待客が全員来ているのだ。
新郎はおろし立ての燕尾服を身にまとい、神父様の横で静かにステンドグラスを仰ぎ見ている。数日続いた雨だが、今朝になって陽の光を見せ始め、みんなで大慌てで磨いた小さなステンドグラスからは、絢爛とは言い難いが、このささやかな式典にぴったりの、神さまがくれたささやかな祝福の光が透けて注ぐ。
最前列左、新郎のすぐ目の前の長椅子に座る若い男の二人はさっきから貧乏ゆすりを絶え間なくしている。年季の入った傷だらけの腕時計を何度も見たり、首をひねって教会の入り口を振り返ったりで、当の新郎よりそわそわと落ち着かない。それを見て、
「……お前ら、ちょっとは落ち着け」
軽く咳払いして、新郎は小声で二人を注意する。
「……無理言うなよ、オレ、誰かの結婚式に出たの初めてだよ?」
「……お前こそ、新郎のくせに落ち着きすぎなんだよ」
「……あれか、『こんなの、オペに比べたら全然楽勝だぜ』って余裕か?」
「……くそぉ、お前だけ外科に進んで出世して、今や結婚と来やがってホントもう爆発しろ」
内容とは裏腹に、口ぶりは二人ともがき大将のような笑みをたずさえている。
彼らは新郎と同じ医大に入ってからの付き合いで、それぞれ違う病院に就職して五年経った今でも定期的に飲み交わす仲だ。
「バカもん!」
二人のうしろから枯れかけた老人の声がする。
「先生にはまだまだわしを長生きさせてもらわないと困るわい、爆発されてたまるか!」
「そうだそうだ!わしもあと百年は先生に面倒を見てもらう予定なんじゃ!」
「ちょっとあなた、百年だなんて先生にどんだけ迷惑をかけるおつもり?50年にしなさい。わたしも50年ぐらいなら付き合ってあげるわ」
「おっ、そうじゃの!50年にするか、はっはっはっはっ!」
つられて笑うお年寄りの面々、みな新郎先生の患者だ。いつどこかで聞き及んだのか、先生が結婚するなら出席せねばと、なかば招待状を強要してきたのだ。本当はもっと少人数で密やかな式になる予定だったが、お陰さまで賑やかなものにできたことに、新郎は感謝の言葉で胸がいっぱいにされた。
散発的に野太い笑い声を上げる新郎側の招待客。一方、新婦側はというと――
「……いやだわ、まだ始まってないのにもう涙が」
「ああ、こんないい方にもらわれるなんて、あの子もきっと夢にも思わなかったんだろ」
「叔父さんの言う通りだね、ホント……ちょっと妬けちゃうわ」
一同どこかしんみりしている新婦の親族に友人――と言っても、両親に妹に大学の友人二人の合計5人だけ。
「――お義父さん、お義母さん」
改めて新郎はそちらにも声をかける。
「素敵な娘をボクにくださいましてありがとうございます。絶対、今日を最高一日にしてみせます」
「……こちらこそ、娘をもらってくれてありがとう、先生」
ハンカチで涙をぬぐう奥さんを片手に抱え、新婦の父は頭を長々と下げる。それにならい、あとの4人もバラバラではあるが、深々と一礼する。
この場にいない自分の両親にするように、新郎も真摯にお辞儀を返した。
グワン、グワン、グワン、グワン――
12時を告げる鐘が教会の上から響いてきた。
じゃん、じゃん、じゃじゃん――
続いて、レンタルしてきたオディオ機器からテレビやラジオで聴き慣れたメロディがこだまする。すると新郎はゆっくり教会の入り口へ歩き出した。普通花嫁のほうから教会に入り、新郎のところまで歩いてくるのだが、しかし彼の行動をみなが静かに見守った。
重厚なドアを前に、新郎は鼓動が早くなったのを感じた。セットした髪をいじり、蝶ネクタイの締め具合を確める。目を閉じ深呼吸をして、彼はついに両手を伸ばした。
軋めく音をたてて、ドアが開く。
いよいよ花嫁のご登場だ。
雲間から差し込まれる光を受け、白いベールは輝く。天上人の衣に包まれた花嫁は聖母のごとき穏やかな顔をして、友人二人が押し進める車椅子に身を委ねている。
新郎は声をかけることも忘れ、ぼーと花嫁の晴れ姿に見とれるまま放心している。
沈黙するご両人に水はさす者はいない。招待客の中ですでにしくしくと嗚咽が止まらない人もいるが、鳴り続く荘厳な曲はそれらを飲み込み、二人を雑音のない世界に包み込む。
新郎は、最初に運命の彼女と会った日のことを思い出す。
彼は地元の一番大きな病院で仕事をしている。父が院長を務めるそこに、彼は医大を卒業してすぐ外科医見習いとして迎え入れた。方々に御曹司と呼ばれ、ときには疎まれ、ときには嫌味めいた賛辞をかけられたが、彼は常に誠実で、謙虚にいることを心がけた。おかげで1年ちょっとで色メガネで彼をななめ見る同僚がいなくなった。
運命のその夜、彼は病院で夜勤していた。当番ではなく、所用で休みを取った同僚の代わりとして。だから、ひき逃げの被害者として救急に運ばれてきた彼女と出会ったのは確かに運命的と言えよう。そこへ4人がかりの担架に乗せられた彼女は当時すでに意識もない重症だが、奇跡的にも顔だけは無傷だった。血痕を拭き取ったあとの白い顔に、彼はまさに一目惚れしたのだ。
これはなんとしても助けなければ、と彼は思った。しかし、病院に運ばれてきた時点でその命の火は消えかかっており、自ら執刀した手術は6時間にも及んだ。普通に蘇生の手段を取っても無駄だとわかると、死神に媚を売った。死神がこれほど冷酷かと見せられると、今度は彼女のほうに戻ってくるよう説得に誘惑のかぎりを尽くした。しまいには強攻策を取り、死神と正面から刃を打ち合い、ついに彼女の命をつなぎ止めることに成功した。
が、死神も伊達に神と名を冠したわけではなかった。
何時間も口説いてやっと冥府の入口まで案内した女が、すんでのところでほかの男へ寝返たことに腹が煮えくり返らないはずもなく、去り際に凶悪な呪いをかけ、彼女の意識だけを底なしの闇に落とした。
「さ、ぼさっとしてないで、エスコートしてあげて、先生」
「あ、ああ……ありがとう」
付き添いの子の声から新郎はわれにかえった。
目の前にいるのは三年前と変わらない目をつぶって穏やかな表情をする彼女。ウェディングドレスの白さはいつも白い患者衣を身にまとっている彼女にはこれ以上ないほどぴったりだ。
新郎は花嫁を車椅子から抱き上げた。お姫様だっこでゆっくりまたレッドカーペットを戻る。ふたり分に成った足取りはずっしりと絨毯に沈み、跡を残す。
コツ、コツ、と鈍い足音をたてつつ、彼は――彼ら二人は神父の前に辿りついた。
「今日という良き日に、われわれは初々しい二人を迎えました」
音楽が止み、落ち着いた声で神父様は式典の進行を始めた。時に聖書を引用し、神を称える言葉を混ぜ、今日の主役である二人の馴れそめを簡単に振りかえった。
運ばれた彼女と執刀医の彼。手術後の脳死状態のまま、彼女は三年間ねむり続き、そして今から二週間ほど前、意識レベルが著しく低下しはじめたこと。もってあと余命一週間弱――そう彼女の両親に伝えなければならない日に、彼は彼女へプロポーズする旨を両親に伝えたこと。
今日、彼女は死ぬ。
だから今日、彼女と結婚する。
「汝は、この女を妻とし、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなる時も――」
神父から言葉を授かる間、少しずつしかし確実に冷たくなっていく彼女の手を、彼は握り締める。教会のドアを開けるぎりぎりまで生命維持装置を外さなかったけれど、それでも彼女の手は無情なほど冷たくなり始めていくのを、彼は痛感する。
「――誓います!」
その痛みがついぞ、彼を追い立て神父の言葉を遮らずにはいられなくした。
「誓います。わたくしは、彼女を妻とし、富めるときも貧しきときも、病めるときも――たとえ来たる死別を迎えてからも!共に歩み、他の者に依らず、彼女のみを想い、愛を誓います!」
新郎の声は永遠に教会の中を響きわたるかのようで、誰もがこだまするその決意に目を伏せた。みんな読み取れてしまったのだ――彼の腕に眠る花嫁がもうすぐ苦痛のない楽園へ旅立つのだと。
神父は花嫁にも語りかける。
「汝は、この男を夫とし、富めるときも貧しきときも、病めるときも――彼岸へ渡ったあとも、共に歩み、他の者に依らず、彼のみを想い、愛を誓いますか」
「……」
当然、彼女からの答えはない。ゆえに神父は次へ進もうと口を開きかけた時、
「――はいっ!」
と、新婦側の席から野太い声があがった。
彼女の父親だった。
「わたしの娘もきっと誓いましょう」
立ち上がり、娘が言おうにも言えない言葉を、一字一句、慎重に代弁していく。
「この男を夫とし、富めるときも貧しきときも、病めるときも――先にいかなければならなくなっても、共に歩み、他の者に依らず、夫のみを想い、愛を誓うのでしょう」
父親の隣で母親が声をころして泣いている。妹はそんな母親を抱きかかえるもやはり涙を必死にこらえている。
手をかたく握り合う老夫婦。
祈りをささげるほかのお年寄りたち。
そして歯を食いしばって天を仰ぐ若者たち。
「最後に」
神父は聖書を閉じる。
「魂で結ばれたご両人を、神が慈しみ深く守り、祝福してくださるよう願います!」
拍手。
「おめでとう!」
ひたすらの拍手。
「お幸せに!」
耳をつんざく拍手の中、新郎は花嫁にキスをした。
温かみを含んだ唇の感触を、新郎は生涯忘れることがなかった。