7.
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共同墓地を抜けると、街の北部に出る。
森にほど近いこちらは、早く陽が沈む。
見えなくなった夕陽を背に、女性は朽ち果てたビルの前までやってきた。
どこにでもあるような廃ビルだったが、入口には無造作にアロエの赤い花が三本置かれていた。
幽霊のような女性が萎んだ声を出す。
「……三人しかいない。トーナはいるといいけど」
「トーナ?」
「……二千クローネ、貸してる」
随分な大金だ。二千クローネだと残りの魔法のマッチを買い占めても余りが来る。じゃあマッチの値段を吊り上げるしかないですね。
女性は少女の思惑など思慮することもなく、ビルの中に入った。
ビルのなかは、外とは天地ほど温度の差があった。マッチを束にするよりも暖かかった。
「……トーナ、いる?」
女性がビルに入ると、褐色肌のワンピースを着た女性が出てきた。年の頃は女性より少し幼い十四ほどだろうか。
十四の年とは思えないような、お腹のでかたをしていた。
「あらら、エミーナだ。久しぶり、元気してた。私は元気だったよ。あれ、そっちの子は? 新入り?」
褐色肌が少女をジロジロと嘗め回すように視線を向ける。
「……リリー。トーナは?」
「トーナ? ああ、南側で朝から新しいカレとおっぱじめてるんじゃない? 傑作でさ、あの子このあいだ、街で見かけたとき髪の毛に白いメッシュ入れてるのかと思ったらカレの――」
「……南側の、どこ?」
女性はそれとわかるように語気を強めて褐色肌でお喋り好きのリリーに聞いた。
「十八番街かな。あなた耳がいいから、あの子の喘ぎ声でわかるでしょ?」
女性は頷くと、少女に向き直った。耳で喘ぎ声を判別するってどんなスキルだよ、と顔をしかめていた少女に、女性は腰を折って頼んだ。
「……お金、今からもらってくるから。待ってて、魔法のマッチ売りのお嬢様」
とうとうお嬢様ときたか。
少女の感想を聞くこともなく、女性はビルから飛び出してしまった。
残された少女を、リリーは優しく迎えた。
「よくわからないけどよろしく。あたしリリー。あなたは? 捨て子?」
「いいえ、ただのマッチ売りよ」
この人は、あまりお客にはならなそうだ。服装がエミーナよりみすぼらしい。
「あちゃー、捨てられたかー」
「捨てられてないわよ!」
「大丈夫大丈夫。リリーが面倒みてあげるからね。おっぱい飲む? 出るんだよ、わたし」
「……やっぱり、それ、赤ちゃんなの?」
少女はリリーのお腹を見やる。気楽な様子でリリーは答える。
「そだよー」
少女は次の言葉を紡げないでいた。おめでとうなのか、ご愁傷様なのか。
ボロい服と、廃ビルに住む女性。それだけで、どういうことなのかは察しがつく。
「出産祝いに、これ、一箱だけあげるわ」
少女はマッチを褐色肌のお母さんにプレゼントした。どうせ、後でさっきの幽霊のような女性――エミーナと呼ばれた女性からたくさんお金をもらうのだ。
いまさら、マッチの一箱ぐらいどうってこともない。
「あら、ありがとう。え、マッチ? ああ、そっか。マッチ売りの少女なんだもんね。ありがとうね。あなた、名前は?」
少女が自分の名前を答えようとしたとき、奥から女性の声がした。
「リリー、だれだい?」
奥から出てきたのは、また褐色肌の女性だった。しかしこっちは二十歳くらいだろうか。大人の雰囲気というか、フェロモンが目に見えるようだった。
「新人さんだよ。シーナ、お皿ってまだあったかしら?」
「あるある。こっちきな、お嬢ちゃん」
シーナにそう言われ、少女は廃ビルの奥へと踏み入った。
ビルの奥ではスープを炊いていた。まさかビルの中で焚火をしているなんて。あたたかいのはこれのおかげか。けど非常識にもほどがある。
「寒いからねえ」
と、シーナは笑いながら答えた。
スープを御馳走になったマッチ売りの少女は、お礼にとシーナにもマッチを手渡した。
ただで手渡すのは悔しかったが、スープのお礼を返さないのも悪い気がした。
「なにこれ、魔法のマッチ?」
「ああ、これあれだ。デップの店で売ってるやつだ。バカ高いバカしか買わない魔法のマッチ。まさかこれを街中で売り歩いてるとは、あんた、面白いね」
大人のシーナに頭を撫でられた少女。けなされている気がしたが、悪い気はしなかった。
「それ、魔法のマッチなのよ。欲しいものを願いながら擦ると、夢が叶うの」
「私はギターが欲しいな」
「うーん、私はなんだろ、でもやっぱりベッドかなあ」
二人はスープの薪にくべる前に、少女に付き合ってマッチを擦った。
「え……」
「わあ!」
シーナとリリーは、同時に驚嘆した。
目の前の景色にそれぞれ、ギターとふかふかベッドが現れたのだ。
「おお! 百年前のギターだ! どこにも穴がない。弦もネックも新品そのものだ!」
シーナがかじかむ指でつまびいている。その音は、彼女にだけ響いた。
「ベッドだ。ベッドよ! むかしからふっかふかでやっわらかいベッドが欲しかったの!」
リリーは仰向きになってベッドに倒れ込んだ。
マッチ売りの少女は新発見をした。
リリーが空中に浮いているように見える。ベッドは、少女からは見えないし触れないが、たしかに存在するのかもしれない。
束の間の天上を楽しむ二人だったが、火が消えると、世界の音は隙間風だけとなり、リリーは背中から冷たいコンクリートの床にたたきつけられた。
「いたい!」
少女はお腹の赤ちゃんを危ぶんだが、リリーは気にする素振りもなく、二本目のマッチを擦った。
少女がスープの二杯目をお代わりしている間に、二人は一箱分のマッチを使い切った。
リリーはしばらく呆然としていた。そして、空のマッチ箱を見て涙を流した。
シーナは何も言わず、普通の煙草を少女から買って手持ちのマッチで吸いだした。
「えーん、えーん」
赤子のように泣く年上のリリーに少女はあたふたとしたが、シーナがほっといていいと言ったのでそうすることにした。
「ありがとう、いい夢だったよ」
褒められたのは二回目だ。けれど、今回は嬉しくなかった。
夢を叶えたのは魔法のマッチだ。それに、魔法のマッチは夢をすぐに終わらせてしまう。
まあ、それでもお金がもらえるのだ。少女はそれでいいと考えることにした。
「まだありまっせ?」
「なんだい、その喋りかたは。……一応聞くけど、一箱いくらだい?」
「エミーナさんとの競りで落としてください」
「あの子はこの界隈では一番の小金持ちさ。こんな素敵なマッチを手放すわけがない」
マッチ売りの少女は首を傾げました。
「ほんまに素敵なんですかね」
少女の悩みに、シーナは頷く。
「素敵だね」
「でも、夢は少ししか叶わへんのですよ」
「少しの間だけでも叶うんだ。少女、シンデレラという物語を知ってるかい? あれは夜中の十二時に魔法が解けてしまう現実の非情さが描かれている。けど、魔法が解けるまでシンデレラは幸せな時間を過ごしただろう」
「……シンデレラは、最後には王子様と結ばれたじゃないですか」
「童話だからね。童話をバッドエンドにしていいのはどこかの捻くれた独身作家だけさ」
少女はくすりと笑った。
シーナは煙草を吐きだしながら、少女に問いかける。
「あんたは、何を願ったんだい?」
「わたしはターキーを望みました。美味しくてアツアツで、ひとりじゃ食べきれない量のターキーを」
「食いしん坊だな。でも、育ち盛りはよく食べることだよ。ほら、おかわりを食べな」
シーナさんの入れてくれたスープはお椀があつくて、冷えた手で持っていると火傷しそうな熱さに感じられました。
「シーナ、いいこと言うね」
いつの間にか泣き止んでいたリリーさんが笑っていました。
「年の功さ。わたしはお姉さんだからね」
「お姉さんって、トーナの方が年上じゃない」
「二十歳すぎたらみんなババアさ」
「シーナさんって二十歳じゃないですか?」
「私はまだ十九だ!」
廃ビルに笑い声が木霊した。
突如、三人は廃ビルの玄関から怪物の唸り声を聞きました。
少女はドアを震わせるこの音に聞き覚えがありました。
吹雪だ。
吹雪が、始まったんだ。
十二月三十一日の夜、家の中にいなければマッチ売りの少女は凍えて死んでしまう。
少女はなんとしても、マッチを売り切る必要があった。
エミーナさんが帰ってきたら、マッチを買い取ってもらって、すぐに家に帰ろう。
少女はスープで体を暖めながら、静かに決意した。
「ねえ、マッチ売りのお嬢さん。もう一箱だけ、人情で分けてくれないかしら?」
リリーさんがお願いのポーズを取る。
二千クローネもあればターキーがなくても両親は満足するだろう。
けれど、欲が出た。
「ダメです。もう売約済みですから。買うならエミーナさんからお願いします」
「……」
いけず、と頬を膨らませるリリーさん。
「ねえ、一箱だけ」
そうねだるリリーさんに、厳しい声が飛んできた。
「……だめよ」
幽霊のような女性、エミーナだった。
吹雪の中を歩いてきたのだろう彼女は、ボロ布に雪が付着して、さらに幽霊味が増していた。
「つきましたな、エミーナさん」
少女はカゴを腕から外した。二千クローネとの交換の交渉のためだ。
高いのは承知の上だが、彼女なら応えてくれるに違いない。
少女にはその確信があった。
「早速やけど、手短に行きましょか。このカゴと、二千クローネの交換で。些細な値段交渉をするには、外も冷えますさかいに。エミーナさんも早くスープが飲みたいでしょう」
隣で聞いていたシーナさんが苦笑いをする。
「商魂たくましいマッチ売りの少女だこと。エミーナ、この子に目をつけられたあんたの負けさ。二千クローネくらい、デップの店で直接買うより安いって」
「そうよそうよ。ついでに、一箱くらいお恵みいただいても?」
とシーナとリリーが茶々を入れる。
だが、少女を含めた三人は気づくべきだった。
目をつけられているのは、少女の方だと。
「……ないわ」
エミーナは言った。
「……トーナは、見つからなかったわ」
「え……」
エミーナさんは言った。トーナという人が見つからなかったと。二千クローネを持った人は見つからなかったと。
つまり、彼女の手持ちはゼロ。
少女の切り替えは早かった。お客候補から外す判断は早過ぎた。
「そうですか。ならば仕方ありません。シーナさんリリーさん、売りは解約となりました。一箱八十クローネで何箱買いますか?」
少女の振った質問に、答える声はなかった。
「がはっ!」
――うぁぁぁぁ
それは獣の慟哭だった。ライオンが今からお前を捕食すると宣言するような、唸り声だった。
「え、えみーな、はん」
エミーナが少女を押し倒し、首を絞めていた。
「……こうするしかないの。こうするしかないの。あのマッチは私のもの。あのマッチは私のもの……」
気道が圧迫される。光の入らない肺から逃げ出せない二酸化炭素たちが、少女の体を内側から押し上げる。
死ぬ。
やばい。
これは、わかる。
電柱の消えた寒空の下、感じた絶望感と同じものが目端に寄っている。
「こ、こらやめろ! エミーナ!」
シーナがエミーナを羽交い締めする。エミーナの力が少しずつ弱まった。
息ができるようになった少女。気道を通る少量の息がぴゅうと人体から不可思議な音を立てる。
必至に息継ぎをするその間も、シーナはエミーナを抑え込もうとしていた。
「こら、エミーナ。気持ちはわかるけど人殺しなんてやめるんだ! 二度と教会に行けなくなるぞぉ――」
少女の首を絞める力が戻った。シーナがエミーナから手を放したのだ。
「し、なさ……」
シーナが頭から血を流して倒れた。
血を拭きだすシーナの頭が、少女の目の前に落ちてきた。
「ごめんなさいシーナ」
赤い汁を垂らすスープの器を手にしたリリー。
「夢を叶えたいの。一時でもいいの。この子にお父さんを見せてあげるためなの」
リリーがお腹をさするのを、うすれる視界の中で少女は見ていた。
少女は手をポケットの中に突っ込む。
振り絞ってようやくつかんだマッチを、コンクリートに擦り充てる。
売り物にしないと決めていた、金色のマッチに火を灯す。
青白い発火。
まるで時計の針を急速に逆回転させて迸る火花のようだ。
薄れる視界のなか、少女は思っていた。
あと、少しだったのに。目標に、手が届く寸前だったのに。
もっと――できたはずなのに。