10.
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トーナはよく働いた。
どれくらい働いたかはご想像にお任せするけれど、カゴの中のマッチが片手で数えられるほどまで、と言えば彼女に称賛を送る人がほとんどだろう。
硬貨が一杯だった。ボロ布のポケットでは破れてしまいそうだったから、エミーナが勝手に住み込んでいる空きビルの奥から、適当な袋を拝借した。
明日になったら返せばいい。
マッチはもうすぐ売り切れる。そうしたらターキーを買ってお金を家に持って帰る。
それで、やっと私は十二月三十一日を終えることができる。
売り少女は、ゴミ箱の上で膝を立てるいつものポーズで、ため息をつきました。
そして、一言、呟くのでした。
「……その必要はあるのかな」
少女の呟きに、汗を掻く女性――トーナが反応します。
「必要、なんの?」
「……なんでもないわ。さあ、まだ体力に余裕はある? このマッチ箱の数なら、次の人で終わりにしてしまいましょう。
金色マッチの箱だけはポケットにしまってある。この時を戻せるマッチだけは、夢を見せるだけのマッチとは違って、十二月三十一日を過ぎても私の役に立ってくれるに違いない。
「それなんだけどさ、一人、金払いのいい奴を知ってるんだ。嬢ちゃんに小遣いでもくれるかもよ」
お小遣い。
それが三、四十クローネのはした金であれば、少女はトーナに従うことはなかったでしょう。しかし、お小遣いに五百クローネというのです。
少女は迷わず頷きました。
「よかった。そろそろ来るだろうから」
トーナは、知り合いの相手に突かれている間に、金払いのいいソイツを連れてくるように頼みました。
少女がその約束を気づかないように慎重になりながら。
路地裏にソイツがやってきました。
それは大きなヒグマのようで、狼のように薄汚れているのに月に反射するキラキラとした装いをしながら、いつか見た冬空の悪魔のような下卑た笑いをする男でした。
そいつの名は、デップ。
「よおトーナ。神様に不貞を見せつけるショーはここで合ってるかい?」
「ええ。あんたが最後の客よ。主賓はこの子」
トーナは少女を指さします。
すると路地裏を吹き抜ける冷たい風のような口笛が鳴りました。
口笛を吹いたのは、デブのデップの後ろにいたカリオストロでした。
「カリオストロ」
十歳の売り少女は、知っている顔に安堵しました。
「おう、マッチ売りの嬢ちゃん。トーナと一緒とは、また奇遇な場所で会うもんだな」
デップは太いわりに、カリオストロに負けじの身長をしています。
トーナも大人の女性ですから、少女だけが彼らを見上げます。
そして大人たちは、大金を持った少女を見下げるのです。
ここで一つ、ワタクシから問題を出しましょう。
少女がマッチ売りの少女になったのは何故でしょうか?
冷たい冬の日に、マッチが売れるわけもない。マッチを買う馬鹿すらいないのにマッチを売るなんて大馬鹿だ。
マッチ売りの少女の親は、体のいい厄介払いをしたかったのです。
高いマッチを買わされた父は食うだけの少女を家に置いておきたくなかった。
明確な殺意を持った行動だったかはわかりません。
もしかしたら年末最後の日くらい、鬱陶しい娘の顔なぞ見たくなかったのかもしれません。
まあ、ご存知の通り、大人は嘘をつくものです。お年玉は大人になるまで親が貯金してあげるからね、みたいに。
だから、少女に対して父が直截に「お前は出ていけ」ということはなく、こう言いました。
「マッチを売って来い。全部売ったら、そのお金でターキーを買って、皆で食べよう」
アンデルセンの童話の登場人物みたいな彼女には、アンデルセンの童話らしい清い心を持っていました。
その清い心は、とても、とても、頭が回る少女の運命を覆してしまう要素。
彼女は、人を信じてしまうのでした。
「ねえ、カリオストロ。あなたが最後のマッチを買ってくれるの?」
お金の入った袋をカゴに入れながら、マッチ箱を取り出す少女。
「トーナとのセットなら四百クローネよ。でもあなたは二度目のお客さんだから、特別にマッチだけなら四十クローネでいいわよ」
「はっは。そいつはありがてえ、とでも言うと思ったか。たけえよ、四十クローネでも高い。だが運がよかったな嬢ちゃん。俺は今、マッチを欲してるんだ」
「あら、私も運がよかったわ。もう女の子は帰る時間なの。そろそろ家に帰りたくって」
はっは。とカリオストロは笑いました。
あっは、は。とトーナは高笑いをしました。
ひっひ、とデップは下卑た笑い声をあげました。
「そうか。じゃあ、マッチを貰おうかな――金色のマッチを」
少女は、怯える兎のような眼をしました。
カリオストロが少女に拳を飛ばします。
銀ピアスが揺れる。
凍傷になるのさえ厭わない銀ピアスの男の五指が、少女の腹を抉りました。
マッチ売りの少女は金属のゴミ箱に背中からぶち当たり、どこが切れたのか口から血を吐き出しました。
「……ばっ」
トーナは少女から吐き出された赤い血を見て、汚いと思いました。
少女は私を囲む大人たちを見て、汚いと思いました。
カリオストロは降り始めた雪を見て、綺麗だと思いました。
デップは、少女の持っていたカゴを開いて、マッチを擦りました。
夢は見れませんでした。
「……やっぱりハズレだなあ。魔法のマッチは綺麗な心の持ち主に反応するのかもしれない」
「アホくせええええ。んな迷信マッチはどうだっていいんだよ。それより本命はあの金マッチだ」
少女は朦朧とする意識を振り絞って考えました。
「ど、どうして……」
「あん? どうしてだあ? なにがどうしてなのかは知らねえが、俺はやりたいようにやってるだけだ、女衒の嬢ちゃんと同じようにな」
こいつらが捜しているのはマッチだ。金色のマッチだ。
時を巻き戻すマッチを探しているんだ。
なにかをこの二人はやりなおしたがっているのだろう。それが何かはわからない。別に知りたくもない。
ただ、私のことだけを考える。
誰にも名前を呼ばれない少女は、自分の名前を世界でただ一人知っているわたしについて考えました。
この危機的状況。やるべきことはひとつだ。
やりなおさなきゃ。
少女はポケットを強く握りしめました。
やりなおせばいい。
街灯の下で死にかけたとき、やりなおした。
コートを買ってお金儲けができるか試したとき、やりなおした。
公園で警察を呼ばれたとき逃げるため、やりなおした。
エミーナさんに殺されかけたときも、やりなおした。
今回も一緒だ。
金色のマッチを奪われそうだから、お金を取られてしまいそうだから。
やりなおせばいい。
「でも」
と、デップは言いました。
「金色のマッチを持っていたって、赤いマッチがつかなかったらやり直しもできないだろう」
「……」
少女は驚きで声が出ませんでした。
「あん? デップ、そりゃあどういうことだ?」
「赤いマッチも金色のマッチも魔法のマッチだ。赤いマッチが作用しないのに、金色のマッチの効果は発動するなんておかしいだろう」
カリオストロはわかったのかわかっていないのか、それ以前にどうでもいいのか、「そうか」とだけ言いました。
「そうか、って……」
「別に構いやしねえよ。やり直すことができないなら、金として金に換えりゃあいい。それだけのこったろ」
「やり直したいからって一緒にお金を貯めて魔法のマッチを高値で買ったんだろう。バカトーナのせいで間違えて売ってしまったけどさあ」
「あ、あたしのせいすんなよデブ!」
「デブだああああああああ?????」
「うっせえよ。どうせどこからやり直したって、俺たちはこの人生だ。こうやって、弱者を炙って剥いて、束の間、快楽の火を灯すだけさ」
カリオストロは寂し気な声音を出しながら、少女の腹部を蹴り上げました。
十歳の空の胃袋が悲鳴を上げました。
「というわけだ女衒の嬢ちゃん。貯めた金とついでに金色のマッチを渡しな。来世はハリウッドセレブのチワワにでもなりな――」
カリオストロがそう言って少女を逆さ吊りにしようとしたとき、路地裏を幽霊が襲いました。
「そのマッチはわたしのだあああああああああああああああああああ」
冬の空気は、声をよく響かせた、
エミーナが腹の底から絶叫する。
そして雪の上を歩いてきたエミーナの素足がカリオストロの顔にめりこんだ。
「うごぁっ!」
吹っ飛んだカリオストロは、トーナの両足の間にゴールしました。
「パンツ履けよ」
「やんエッチ」
強く降る雪がカリオストロの鼻血を吸い上げて赤い花を咲かす。
そんな男の胸板の上に仁王立ちをする幽霊みたいな女、エミーナ。
「マッチは、マッチはどこお! わたしの、わたしの魔法のマッチィ!」
カリオストロが鼻を拭きながらボヤく。
「なんだこいつ。ヤクでも入れたのか」
「魔法のマッチ自体、ヤクみたいなもんですしおすし」
デップの答えに反応する者は誰もいない。
そもそも、誰もが持て余している魔法のマッチなのだ。
エミーナもその一人。プールで溺れるエミーナ。もがき苦しんで、いつまでも水中から抜け出そうとしている。水なんて張っていないのに。
「マッチィ! マッチぃ!」
「わーった、わーったよ! ガキから取り上げたら、一箱だけ分けてやるからそこをどきやがれ」
「全部」
「腐れ女。やるわけねえだろ」
「お金は払うわ」
「金ならガキからたんまりとよお――おい、ガキはどこだ」
カリオストロがゴミ箱の側を見ると、先ほどまで蹲っていた少女が見当たりません。
「マッチ売りなら」
と、トーナが路地の奥を指さしました。
白い雪が降っているというのに、黒一色の世界を背負うかの如く、金髪くるくるカールをべちゃりとさせた黒い目の女の子が立っている。
「生憎、ツケはやっとらんのじゃ。金を払わない客にマッチは売れへんねん。ごめん遊ばせ」
手には、金色のマッチ。
真剣な声音でデップが言う。
「……そのマッチをどうする気だい」
「知らないの? マッチの使い方」
「嬢ちゃんよお、マッチより金が欲しいんだろ。交換してやるからよこしな」
デップとカリオストロは怯えていました。
やり直しの効果を知っているのでしょう。ここから逃げられるということがどういうことなのか、未知だからこそ恐怖していました。
使用者の記憶以外が全てリセットされる、魔法のゴールデンマッチ。
そしてまた、少女も恐怖していました。
「無理よ。彼女、赤いマッチで夢を見られないもの」
トーナがそう言う。
少女は唇を噛む。
「やっぱり気づいてたんですね」
「生憎、お子様の嘘に騙されるようじゃ女は大人になれないのよ」
勝ち誇った目のトーナ。
トーナの言う通り、少女はトーナの前で赤いマッチを擦ったときに、夢を見ることができなかった。
赤いマッチが使えないわたしに、金色のマッチが使えるのだろうか?
夢を見れなくなったのがいつからのことなのか、わからない。
デップは純真な気持ちがないからだと言っていた気がする。
少女からそれが抜け落ちた――もとい、捨ててしまったのか。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
「悪いんだけど、この金色のマッチは換金できないの。私はお金がいっとう大事だけれども」
少女は願う。やり直しを。
強く強く、心の中で念じた。
ただ、利己的な願いを。
「私は私が一番大事だ!」
少女は金色のマッチを勢いよく擦った。
青白い発火。
それはまるで、時計の針を無理やり戻すときに散る火花のようだった。
うまくいけ、と願う少女。
世界は動転する。
そしてマッチ売りの少女は、見慣れた光景に巻き戻った。
昼間のデンマーク。
空は明るく、少女の目は黒い。
何者でもない少女の背に飛ぶ少女の母による叱責。
「これ、まだ行ってないのかい! そのマッチを全部売るまで帰ってくるんじゃないよ」




