インコンビニエンス
そのとき、イヤフォンの外側から声が聞こえたのだ。このコンビニエンスストアのドアの方向からだ。その声は異質だった。ここにあってはならない声だ。夜における寂しいほどの喧騒の中でさえわかるほど通る。針で硝子を割るように、小さな音を以ってしてやかましい夜を色反転させたのである。そうしてつい、目をやった。イヤフォンの中でだけ鳴り続ける音楽は、諸行無常の中に絶えず存在し続ける孤独という矛盾を叫び続けている。
畏れに似た思いで、声の方向を見た。ショートカットの黒髪が印象的な、品のいい女性だった。紺のコートと、ストレートの細い髪に雪がまとわりついている。コンビニエンスストアのゴミ箱にようやっと腰が来るくらいに、背が低い。しかしながらそれによって見下す気にはなれなかった。彼女は、睫の間から、あたかも真夏に冷却用のミストを振りまくスプリンクラーのように、無機質な視界を虹彩に描いていた。どうやらこちらまでは、ミストを振りまいてくれる様子ではなかったのだけれど、いかんせん、今は日本の北国の元旦である。あまり粉雪を振りかけて欲しいとも思わない。
彼女はコンビニエンスストアの中から出てきたわけではなく、かなり前から、この喫煙スペースという雨風しのぎにいるらしい。女性とは言ったけれど、膝丈のコートの裾から覗くのは、コートと同じ紺のプリーツスカートだ。白のハイソックスの上には、やや細すぎる印象を受ける膝が晒されている。そういった服装は、この都市を通る地下鉄の終点にある、とある高等学校の制服だと直感させる。靴も鞄も手入れされていて、上品できちんとした生徒なのだろう、聞こえた声だって、若くて張りのある声帯が目に見えるようだった。つるを引いた手の肌を破くような独特の鋭利さが、その音にはあった。
コンビニエンスストアの時計を、ガラス越しに盗み見る。おおよそ二十五時、そんな今、知らない女性に声をかけられて、単純にも心がすっとする感覚を覚えた。そんなものだから、つい話してみたいと思った。イヤフォンを外して、コートとマフラーの下のスーツのポケットにしまった。どうやらイヤフォンを外しても音楽が聞こえるくらいの大きな音量になってしまっていたらしい。それを咎められたのだろう、と憶測をする。最初に口を開いたのは、しかしながら、その女性だった。女性は一度もこちらを見ていない。雪の吹きすさぶ夜の、静かであり耳障りな街を無表情に見つめている。
「お兄さん、『瞬とした淑女』ばかり聴いているよね」
その音楽ユニットは、中高生を中心にファンが多い。彼女もそのうちのひとりだろうか。こちらはこの歳になって聴いているのが肩身の狭い思いだったので、あまり触れられたくなかった。もう少し音量を下げて聴くことにしよう。つい目を逸らした。それとなく投げればいいだけの、間を埋めるための返事すらもできなかった。穴に入るような思いで、手に持っていたかろうじて温かいコロッケをかじる。芋の味がした。しかしながらすぐに、温かさは口の中で下品に溶けて消えた。
それでも彼女は続ける。わたしにはわからないくらいのことが、お兄さんにはわかるんだろうね。はて、なんのことやら、しかし続きはすぐに話された。
「瞬とした淑女は、わたしには、なにを言っているのかわからないことがよくあるの」
あの作詞家の歌詞に深い意味はないのではないんじゃないかな。こちらがそう口に出す前に、しかしながらまたも、彼女は言葉をついだ。
「新曲を聴けて嬉しい。ありがとう」
女性の声で聞こえたはずの日本語の意味に思わず首を傾げた。その二秒後に襲ってきたのは、とてつもない喜びだ。あまりのことに一瞬言葉を失ってしまっていた。確かに、聴いていたのは最新のシングル曲だったのだ。瞬とした淑女は、それほど珍しいサウンドをしているわけではない。このイヤフォンから漏れ聞こえる僅かな音から判断できるということは、相当好きなのだろう。
この、元旦の深夜という、まるで排気ガスと雪と酒の匂いの織り成す英雄的なまでのフォルテシモに究極までミュートをかけさせるような、何らかの強い力を以ってして、彼女はこのサウンドを聞き取ったのだ、聞こうとして、耳をそばだてて聞いてくれているのだ。そんなパワフルな応援は、同じファンとして、嬉しくないはずがない。
「もっとよく聴いてみるかい」
きちんとそのコアなファンが楽しめるように、などと思いながら、るんるんとイヤフォンを差し出す。しかしながら彼女は胸の前で、ノーセンキューと手を振った。首を振って髪が揺れると、溶けきらない雪がコートの肩に落ちるのだけれど、まっすぐ前を向いたままの、決してこちらを向かない目線は、そのようなことは気にしないようであった。
「きちんと聴いたら、もっと聴きたくなってしまうから。お兄さんが聴いていてくれればそれでいいや」
彼女はこちらを見ないまま、続ける。
「わたしはここのコンビニに来れば、その曲を聴けるのだから。お兄さん、夜はいつもここに居るでしょう。わたしも端っこに居たんだよ」
会話は続かなかった。別に、その女性が、ストーカーや変質者、若い子が言うところの、いわゆるヤンデレの類ではないことは直感として分かったつもりでいた。それに、押し付ける言い方ではなく、ただの自己紹介だったのだから、目くじらをたてる必要はない。
じゃあ、また機会があれば。こちらがそう残すと、彼女は、ただ、待ってる、と言った。現在進行形は、繰り返されるいわゆる常習的行為に用いることができる。彼女はその文法を高校で習った年頃だろうか。
明日もここに来よう。その女性について知りたかった。工場の冷凍庫で凍らされた芋をコンビニでコンビニエンスに揚げただけの、ただのコロッケという今夜の晩餐が終わった。その後味は、ほんの少しの寂寞を残す。唾液はまだ、食べ物を欲しがっている。
翌日、正確には当日だが、正しく言うのならば次の二十三時にも、女性は変わらずにそこで五個入りの唐揚げを一口ずつ噛み砕いていた。その虹彩に、スーツの上にコートを着た男が歩み寄っていくのが映っているかどうかまでは見えなかった。ただ女性は確かにそこに居た、今まで居たと言っていたことは本当だったのだろう。
その日は彼女のほかに不良達がたむろしていた。それで心配になったのだけれど駆け寄る勇気もなく、ごく自然に、邪魔にならないルートで入店し、ビニール袋を断る以外の言葉もないままコロッケを買って外に出た。今日も、話しかけてもいいものだろうか。いつも通りイヤフォンをまさぐるためにポケットに入れようとした手が、今日初めてこのコンビニで惑っている。
「ああなれたらよかったなあ」
彼女は息継ぎをしただろうか、言葉の意味と音を一致させただろうか、口を動かすためにブドウ糖を消費しただろうか、そのようなものは一切見当たらなかったが、恐らく彼女は全て行ったのだ。思わずぎょっとしたこちらとは対照的に、彼女の言葉には、漫画ならば寂しげな擬音が付くことだろう。ぽろり、だとか、ぷつん、であったり、ほたっ、だったりしてもいいかもしれない、つまるところちょうどいいのは、表面張力が耐え切れなくなるときの音である、そしてその液体がこぼれる瞬間を見たいと思わせられた瞬間に、何の罪もなくイヤフォンを探そうか悩んでいたこの手が跳ねた、仕組んだようなタイミングだった、その音が鳴った瞬間は、様々なことが起こり過ぎた。
その音が鳴ったタイミングの中に、見えず聞こえず正体不明であるがとにかく存在していたものがある。その存在は、その音の認知よりも前に存在していたのだが、解釈するのはその音よりも後だった。認知したその存在は名乗った。期待だ。彼女の隣にそれが陣取った瞬間に、ああなれたらよかったなあ、その言葉があったのだ。いつも通り目は合わない。それでも彼女の目線を顔の向きからなんとなく察して追い、その先のものを顎で指して問うことにする。顎で指しても、彼女は見ているはずがないことは、判り切っていることだ。
「あのバイクのみたいに?」
「そう」
やりたいことをできているんだろうなあ。そう続けた彼女は大きなバイクの近くで騒ぐ不良をじっと見つめている。彼女は呟いた。明らかに、憧れをにじませていた。そんな彼女に危うさを覚えて、予防線を張ってみる。
「彼らは彼らなりに大変なんだろうけれどね」
「もしかして、本当はわたしたちもああしないと生きていけないんじゃないのかなあ、たまたまわたしたちが殴ったり蹴ったり罵るのに不得手なだけで、本来はああするべきなんじゃないかなあ。わたしが唐揚げを食べるみたいに、あのひとたちは人を殴ったり蹴ったり罵ったりするのがきちんとできるだけなんじゃないのかなあ。あのひとたちにはその権利があるんじゃないのかなあ。わたしが唐揚げを食べるのとおんなじことなんじゃないのかなあ」
うらやましいなあうらやましいなあ。その反復は、瞬とした淑女のデビューアルバムの、あまり市民権を得ていない、そんなとある曲のフレーズだった。その曲はいかんせんひねくれすぎていて、こちらとしては、好きとは言い難い。彼女の状態ならばいざ知れず、こちらのこの歳で聴くには、いくぶん余計に不相応に幼い印象を受けてしまう、そういう曲だ。そんな彼女には、ジョン・ロックの『統治二論』を読ませたい願望がうまれた。淑女はあれを読むものだよ、などと、言葉のあやを用いて言いくるめて読ませたい。そうすれば、たとえば以下のように、思う存分の欲目を発揮して、楽しい予測をすることもできる。『現代だからこそ発表できる、マイノリティに対象を絞った独特のメッセージ性を自分たちの音楽の根底としているバンドへと、たったいちどの青春を捧げて過ごした未来ある女子高生の思考回路は、ゆくゆくインテリジェンスに特化したものになっていって、将来を成功に向かって歩き出せるかもしれない。』といったものだ、しかしながらいやはや、言葉にしてみたところ、なんとも難儀なものだ、天地をひっくり返して海がオゾン層の上に出来上がる頃にでも、精々叶えてくれたまえ。売れないバンドの宣伝文句には、長すぎる。
そうだというのに、彼女は次の言葉を以ってして、こちらの考えをひっくり返してきた。
「わたし、あの人たちにがんばってほしいな」
よくあるじゃないヒーローが言うの、これは誰々の分だ、これは家族の分だ、これは俺の分だ、みたいに、相手をやっつけるの。
などと、そんなふうに続いた彼女の言い分は、自分の分も誰かを理不尽に傷つけてほしいということだろうか。だとしたら、正直なところ、個人的にあまり関わりたくないタイプだ。こちらは無駄に年を取っていない、こう見えて、平和なほうが好きなのだ。確かに若い頃にそういった思想に憧れたことはある。だからこそ認めたくない。過ちとまでは言わないけれど、坊やだと言われても仕方ないとは思っている。無意識にコロッケをかじった。
「がんばって、生きていってほしいな」
しかしながら、予想もしない、この言葉が続いた。その後にも彼女は続けた、わたしの分も、生きていってほしいな、わたしが生きていくよりもずっと生産性が高いもの、ただ唐揚げを食べるだけの人生よりも、誰かと関わったほうがいいもの、見知らぬ誰かを傷つけてでも知っている誰かとああやって笑えるほうが、きっといいもの、だってほら、わたしとあなたは、あのひとたちのおかげで会話をしているんだよ。
反論にせよ同意にせよ口を挟む間はおろか考えるだけの間も無く、彼女の息継ぎだけの沈黙は彼女自身によって破られた。
「お皿ってあるでしょう、パスタの、ちょっと深めの陶器のお皿。フォークでパスタを巻くと、キイキイ音がするやつ。なにゆえにあれが背筋を駆け下りるような不快感を伴うかってね、役割がずれているからだよ。もしあのお皿が楽器で、キイキイいうことが役割なら、むしろパスタを食べるのが不愉快になるわけなの、そう、たとえば同じようなものとしてはドラムのシンバルで焼き肉をする文化は少なくとも現代の日本ではあまり聞かないしそういう焼肉屋さんに三十人の福沢諭吉を連れて行きたくはない人が圧倒的多数だとわたしは信じているの。結局のところそういうものなの、人類が昔あの音を使って危険を知らせ合っていたとかいう説は、正しかろうがどうだろうが今は関係がないの。それでつまりあのひとたちがわたしにとって何かというと、キイキイ鳴ることがものすごく大切な役割を持っている、ややもすると命に関わるかもしれないくらいの重要なお皿であるということが言えるの。生物の何割がキイキイを嫌がっても、わたしには間違いなく必要であって、でもそれなのに自然の摂理は微笑むかどうかも分からない。どういうことかというと、生物のヒエラルキーの上の方にいるものがあれをバンって禁止してしまえば、わたしの人生はキイキイがないことで狂っていく。でも、キイキイがあると、ヒエラルキー上部の生物が狂っていく。要するにこの世のためにはキイキイはなくなったほうがいい、その場合にも、わたしのためにはキイキイはなければならない。だからキイキイをできるだけ聴いていたいの、だってキイキイは、すぐになくなってしまう、淘汰というものが起きてしまう。そう、こういったキイキイ狩りに関しては、そう、憎たらし過ぎて憎たらしいとすら思わないくらいに憎たらしいの、自然の摂理ってものは今述べた通りに動いて微笑んでくることが確かで、そして微笑んでくることすらも自然の摂理の思い通りで、そこでまたそいつが、つまり同一であり違う軸に存在する自然の摂理というものが微笑んで、というのが繰り返される。だからヒエラルキー上部の微笑みの数がキイキイの絶対数に圧倒的に勝つの。果たして何重にその摂理たちが微笑むかは、永遠とか無限とかそういった概念たちにしか把握できないことなのだから、数えようとしないのが身のためであるの」
少しずつずれていく話と、ひたむきに注がれ続ける彼女の目線が法なき国家の治外法権を羨望していることに、今更ながら少しずつじんわりと怖くなってきてしまった。無理矢理にでも話題をかえることにした。そろそろ冬休みなのかい。
「わたしは、ずーっと、冬休みだよ。もう何年かなあ、一年経ったかなあ、ずーっと冬休み、高校へは行っているけれど、宿題もやっているし提出しているけれど、冬休みが明けないんだ。あ、不良のお兄さんが増えたよ。元旦だから走るのかなあ、それともいつも走っているから走るのかなあ。乗せていってくれないかなあ、遠くに行きたいなあ、高校も宿題もコンビニエンスストアもないところへ行きたいなあ」
幼さを通り越して、不気味さを覚えた。彼女は、逃れるためならば手段を選ばないという短絡的で最も賢く、また最低限の保身の論理にかなったような思考をしている。そしてそれは彼女にとって、あるいは人々にとって、いちばん素直な考えのように思えたのだ。少しだけ、彼女が若返って見えた。だがそれは褒められたものなのかどうか、判断がつかないことだった。短絡回路は焼き切れるが、たこ足配線とて危険である。
どうにせよ良くも悪くも、逃避は甘えだ、しかしながら逃避と表現してしまえばそうなってしまうが、例えば、正当防衛において攻撃を自重したもの、とすれば如何だろうか、幾分彼女に相応しいものなのではないだろうか。脅かしてくるものは脅かしてよい、あるいはそれ以上の手段をもってしてでも、ひとは自分自身を護ることを放棄してはならない。それを例の思想家は神の意志だとしたが、学のないこちらとしてみれば、ロールプレイングゲームの操作キャラクターが戦闘不能になる際に、仲間が主人公を護る演出が欲しいということだ。その仲間が、現実で言うところの我々の肉体、そして他人である。
きっと彼女くらいの歳であれば何かと攻撃的になりたい瞬間も多かろう。こちらの青春時代は、少なくともそうだった、こんな策を常に練っていたものだった。攻撃したい相手がいたとして、戦場へ足を踏み入れる必要などないのだ、戦場に相手を連れて行くだけでいいのだ、こちらの知っている戦場を相手は知らないわけなのだから相手にとってはすなわち敵陣に単騎で連行されることであるし、それをもし断ったとしたら相手の武器は手のひらの火傷を伴って綺麗さっぱりと蒸発するのである。負傷が手のひらで済むか動脈に至るかの判断は、こうやって考えればほぼ冷静に下せることだろう。ただし人間というものは、そのカットに自分が映った途端に、戦況を俯瞰することを得意としなくなる。
彼女が見つめる法なき国の実情を、もしかしたら彼女は知っているのかもしれない。突き落としたい相手が居るのかもしれない。それは真横に居る、コロッケを立ったままかじる、コートにスーツの会社員なのかもしれない。そうだったらどんなによいことだろうか。そうであれば、彼女の中で、攻撃は手のひらの火傷だけで済むし、戦が終わる。そうでなければ、彼女の中で、誰かが動脈を酸素に晒すことを強いられるのである。彼女もそのシーンに居合わせる以上、彼女自身がそうなるかもしれないのだ。
そのような風景を生じさせないために、瞬とした淑女は歌詞を書いているのだ、その媒体として音を鳴らしているのだ。彼らの主張はというと、以下のようなことである。
おまえたちは最早一般市民として認識されておらず、周りから見れば戦闘員で、それからこういうメッセージを発信している我々もまた同様である、ただしどのように認識されようと、おまえたちも、我々も、武器を持つことを命令されることは決してないのである、それでも尚もしも戦闘を行うのならばおまえ自身の強い意志にすべての責任があるからして、強い意志を持って自己の判断で戦闘する際には、心の底からの憎しみの対象を見誤ってはならないのだ、なぜなら十中八九その戦闘は特攻なのだ、と、彼らは謳う。その理念が、テディベアだとか、テレキャスターだとか、ワンダーランドだとか、ガーターベルトだとかを介することで少しのひずんだヴェールを育みながら、クリスマスツリーの箱の中のプレゼントのように、包装を解けば確かに存在しているのである。
だから彼女には、もっとたくさんの、いやむしろせめて普通の量のプレゼントを、その目で見る必要があるのではないのだろうか。少なくとも今生、淑女である権利があるわけだから、これを使わない手はないよ、知っているかい、プレゼントは動脈の中には入っていないんだよ、ねえきちんとしたプレゼント箱の中身を見てみようよ。そんな言葉は、浮かんだものの、頭のどこかのインターフェイスで拒否された。考えが飛行機のエコノミークラスに乗りこもうとしてしまっている。
それはもののたとえのつもりだったが、期せずして、彼女もまたエコノミークラスを望んでいた。
「遠くへ行ったら、ああ遠くって言いたいところには高校も宿題もコンビニエンスストアもないの、それでそこへ行ったら、会えそうなひとが居るの」
わたしは、あの冬の前の自分に会いたいの、そのままではいけないのだと話したいの、これはもちろん比喩だよ、昔のわたしに物申すわけじゃなくて、わたしみたいな子はたくさんいるだろうからその中のわたしみたいな子というようなイメージ、むしろこの際わたしという当人を置いていったって良いし言い換えるならばこの話を聞いてくれる子の中の誰かでいい、それもまた駄目ならその誰かの身体、思想、名前、どこだっていい、どこか一部分だけでも、まっとうに生きていってほしいだけなんだよ。
そこまで一気に彼女は話した。そのあと、思い出した、というような様子で、彼女は塩にんにく味のからあげに楊枝を突き刺して、地球儀でも回すように、くるりと回してかじった。汁というものの出ない鶏肉だったようで、半分になった唐揚げは繊維を主張している。彼女は舌で唇を拭ったけれど、油らしい油はついていないように見えた。
「いつもコロッケだね」
そんな中で発された彼女のその言葉に、ほんの少し母音を阻害されている音が混じる。生きていくには小さすぎる肉の塊を噛みながら、彼女はきちんと他人事を他人事として呟いたのである。確かに先程、いつも通りこちらはコロッケを買ってきたところだ。
「そちらは、いつも、唐揚げ塩にんにく味だね。五個入りで、いつもあまり売れていないのに」
「お安いからね」
彼女の遠くを見る目は、こちらを向かない。それでも会話をしてくれている。その異常に慣れてきたせいか、なんとなく楽しくなってしまう。少し季節を間違えている温度が、雪の入ってこない胸の内に広がっていく。
「食べ応えは、コロッケのほうがあるよ」
彼女は、ふうん、と、冬晴れの空に間投詞を放り投げた。彼女がなにかに心動かされたのが横からでも見て取れた。ほんの少し、目線が斜め下に下がるのだ。法なき国の輩は騒ぎ続けているが、彼女の興味は、今に至ってはもう注がれていない。
「少し食べるかい」
「コロッケはひとつしかないじゃない。唐揚げもあげる気はないし」
「代わりに、くれ、なんて、まさか言わないよ」
「なら代わりの代わりに、何が欲しいの」
はて。そういえば、何が欲しくて、彼女に声をかけたのだろう。ぱっとすぐに考えついたのは、彼女と最初に話したときのきっかけであった。
「瞬とした淑女の、コールドリーディング」
あのときの曲である。うらやましいなあと繰り返す、ひねくれすぎてなかなか聴く気にならないナンバーだ。それでも予想通り、彼女は冒頭をそらんじて見せた。
「『シャーベット置くだけってのは、毎日がいいな、いいな』『汚いもの全部水に流して』」
「かみがかってる歌詞だよね」
「よくわからないの」
だじゃれも一蹴されて落ち込んでいる暇はなかった。問いが続く。
「つまり今、シャーベットを置きたいということ?」
そうなんだよ。彼女に返すはずのその肯定の言葉は、なぜか胸につっかえた。
そのひとことは、この話をするにあたり、初めから言うつもりだったものだった。道を、酔っ払いの集団が、わやわやと歩いていく。不良たちは走りに出てしまった。残ったのは、彼女が唐揚げを噛み砕く音だ。音楽のように、一定のリズムで流れる小気味のいい音だった。湿気た衣と顎関節が協力して、彼女の人生を作り上げていく音だ、人生に似合った間抜けさが、食欲を喚起しないくせにやけに心地が良い。先程の歌詞と相まって、おとひめ、なんて名前が頭をよぎっていたけれど、彼女はその隙にとんでもない共感を求めてきた。
「シャーベット置くだけって、もったいないよね」
雪が音を吸収していく。その中で彼女は、何の気なしにそう言ったようだった。彼女にとっては当然なのだろう。経験してしまったことは、その経験よりも高い対価を支払わなければ、そのことをあたかもなかったことのように忘れることはできない。それゆえ、彼女はその経験を語る。それに、もし対価を支払おうという意志と時が訪れても、鼻に付く不快感と苦しみが伴う。
それに、昨今のこの雪の夜は、狭い部屋にこもっている感覚で安らいではならないのだ。明日も仕事がある。元旦や休日には、むしろ仕事をしたいタイプだ。安らぐのが怖いのかもしれない。安らいでしまえば、その狭い部屋にいる大義名分がなくなってしまう。用が済んだらさっさと出るのがマナーというものだ。
「じゃあ、この辺でお暇するよ。また機会があれば」
「うん。待ってる」
彼女に背を向けて、歩き出した。傘は差さない。雪の上を歩く以上、バランスを崩したときに傘は危ないのである。
ところでコールドリーディングを、彼女は『喋っとくだけってのは、甘いに違いないな』と、引用したのだったか。
そのことが、時間を忘れるほどの衝撃であったし、その衝撃は非常に長引いた。『喋っときたい』のは、大部分のひとは汚いと表現するものを指すのである。それを、彼女は、聞いてくれるというのだろうか。喋っとくだけって、もったいないよね。彼女は、そう言ったはずだった。ね、という、同意を求める助詞を用いて、目を合わせなくても、耳を貸してくれるという意志を表してくれた。
そんなようなものだったからか、正月明けの何度目かの朝は、雪は暴力性を感じさせない存在になっていた。地面は水玉コラージュを施されたように、なまめかしく隙間から覗いている。コートはもう要らないだろう。ただし、朝の緊張感は必要だ。日本人のほとんどが、この時期には初心者マークになる。雪の上を歩くのも、通勤や通学も、インフルエンザウイルスに対しても、ヴァージニティに近いものを感じさせる振る舞いをする。
「真楽高校では、ワルで名前が通ってんじゃねえの」
「あくまで真楽では、な」
「え、ガラ悪いわけでもない子だよね、むしろお清楚」
「でも、いわゆる不良じゃん、先輩も言ってたよ」
出勤時に、試しに例のコンビニの前を通ったところ、そのようなことが聞こえてきた。その陰口が、彼女にどんな影響を与えるか、見当もつかなかった。彼女のコートの色が変わっていた。気付いたら、マフラーも手袋も、欲しいと思わなくなっていた。彼女は会計をしている。目が会う前に、なんとなく出勤しなければならない気分になったので、早足でコンビニの前を歩き去ろうとした。地面はところどころ凍っていた。ムーンウォークで、なんとか会社には間に合った。そして、いくつか成功して、十倍以上の失敗をした。それでも夜の二十四時に、再度コンビニに彼女はいた。話は、彼女のほうから始まった。目は合わないが、この財布はまだコロッケを買っていない。
「冬休みが、お兄さんは、明けたんだね」
ぎくりとしたのは、腰ではなかった。彼女は続ける。
「冬休みが明けるには、まだまだ時間が足りない。わたしの冬休みは、いつ明けるんだろう。待っているんだけれどなあ、時間は待っていても過ぎないのかなあ。何が言いたいかというとね、進級ができないの、ずっとずっと数字と服装と外見だけが変わっていって、進級というものが止まっているの、一年生から二年生になって三年生になった、それは今はどうでもいい、進級って何なんだろう、むしろ卒業はしたかもしれないししていないかもしれない、あれはここでは関係ないの、わたしは、進級できるんだろうか、いつか、わたしがわたしと呼んでいる、よく判らないものから、逃れていい時が来るんだろうか」
珍しく、彼女は何かを待った。ウグイスの鳴き声かもしれないし、タクシーかも知れなかった、百合の結実や桜の斬首かも知れないし、あるいは誰かの反応かもしれなかった。
「ねえ、わたしは、格好をつけているから進級ができないんだよね、きっとそうだよね、どうしようかなあ、だって格好をつけていないとわたしは何か悪いことをしてしまう、それなのに格好をつけるのは悪いこと、ねえわたしは悪いことはしたくないよ、格好をつけるのと悪いことをするの、あるいは悪いことをするのと格好をつけないの、どっちがいいんだろう、わたしは何を格好つけているというのだろう、この考え方が格好をつけている、そう、そうかもしれない、誰に言われたわけでもない、自分でそれは判っているの、言い訳していいのなら、ああそうだねよくないよね、じゃあしないよ、言い訳は格好つけることだもんね、悪いことだもんね」
瞬とした淑女が新曲でも出したのだろうか。この考えは彼女を表現するにはあまりにも呑気、かつ、彼女とあのバンドの表現とが似ているということだった。遅すぎるときではあったが、気付くことはできた。
彼女は既に、あのバンドの理念から卒業したのだ。
自分がマジョリティから見た戦闘員、蔑称としてのマイノリティであることを、認めたのである。憎しみの対象を見定めたのだ。混乱しているように見えるかもしれないけれど、根底がひとつ、彼女の目の奥にあるトマトのスープの中で煮えている。それは、語弊を恐れず表現するならば、裁きである。
悪いことをしない。それが彼女の命と正義と生き方の全てを懸けて、守りたい唯一なのだろう。悪いことをしない。それは確かに悪いことではない。善悪を誰が決めるかも問題ではない。彼女が全て懸けた。それが全てだ。全く不可能なものだと判らない歳でもない、全て懸ける重さを想像しない時期でもない、戦闘員とみなされ集中攻撃される恐怖も習ってきただろう、その中で、彼女はなんらかの力を引き金に加えて、その武器を弾いてしまったのだ。
「わたしの知っている人間は、格好良くない。だとするとわたしは人間ではなくなろうとしているということになる。でも、人間よりもましな存在もわたしは知らないの。わたしは人間として生きているはずだから、ほかの存在がどういうふうに清く正しく生きていようが、奥底にチーズフォンデュに見せかけた生コンクリートがあるかどうかなんて見抜けないの。わたしはチーズフォンデュをしないから、ほかの存在よりもましな可能性がある。ならば、勝ってもいいことのない賭けに出る必要はない。でもね、わたしは感じていることがあって、わたしが格好よさを自分に塗装しようとしていることは確かなの。幼いのは格好悪い、だから進級したい。そう思っている以上は格好悪い状態であるの、でもこの考え方は格好をつけているの、なぜなら格好悪いものを格好つけて格好良くしようとしている」
彼女の裁判は続いた。まず前提があるでしょ、嘘を吐くのは悪いこと、だから格好悪いものを格好いいものですと銘打ってはならないの、それはおまんじゅうの下に敷き詰められた小判の箱なんかよりずっとずっとおかしなことなんだよ、おまんじゅうの下に小判があったって相手は喜ぶか断るかわかるでしょう、詐称は、相手が認識できないことを認識できないように悪意を持って行うの、それで相手に、これは格好いいんですよと言いふらす、そうするとその相手は格好いいのだと騙されるや否や別のひとに言いふらす、そうすると何が起きるかってね、トイレットペーパーが足りなくなるんだよ、単なる一回の冗談で国が傾くの、それをよしとするのは今の国を愛しているのなら平和ぼけ過ぎるし、わたしはこの自由の思想を認める国以外を知らないのでここにいれば今まで通り、わりかしつらいわけでもない人生が溶けて行って終わるの、だからこの国を傾けられると困るの、ましてや自分がきっかけになるなんて嫌なの、だからわたしは格好つけるという行為を、わたしという場所の法律で禁止します、コンビニの唐揚げも、今日からせめてコロッケにします、世界の大多数に従順になります、わたしというものから離れるには、不特定多数になればいい、そもそもわたしは不特定多数だ、間違いなくわたしは不特定多数だ、それなのに自分だけを護ろうとするのは、不特定多数になる以上、自分のお財布を矛で突いて盾をひり出すための攻撃をすることに他ならないの、わたしは個人であって、団体ではない、誰かを護るのはお節介で、自分を護らないのは足手まといなの。
そんな具合で、変わったようでいて、彼女はなんら変わってなどいなかった。彼女が唐揚げの代わりにコロッケを持っていたって、こちらを見ていたって、ショートだった髪が肩まで伸びていたって、彼女は変わっていない。マジョリティに属そうと努力したことが一度でもあれば、マイノリティの直感が備わってしまっている証拠なのである。それは咎められることではない。だからこそ、大多数に従順になろうとする必要はない。ただし、少数に属せなければ、確かに、大多数という協会の入会試験を突破するための演技力が必要ではあるのだ。グレーゾーンは、広ければ広いほど不安定である。
彼女の冬休みは、終わっていない。
彼女の虹彩の端に喧嘩が映っている。長身の痩せた男とルーズな服装の不良の喧嘩だ。長身が何かを叫ぶ。不良が笑いながら殴りつける。長身はよろめいて、けれど倒れることはせずに、ギャラリーの一点を睨んだ。その視線の先、痩せすぎた少女の思い詰めた表情に、長身が次のように訴えて叫んでいた。そのカミソリは、イチゴ、おまえ以外の血を吸ったら嫌がるだろうが、おまえが生きていく最後のお守りだ、こんなとこで汚すんじゃねえ。そう言ったきりで、嘲笑が聞こえてくる。その嘲笑への、冷えた空気も、刺すように伝わってくる。
「警察呼ぼうか」
彼女はそう口を動かして、いつも通り、視線をその法なき国家の民に投げかけた。そして続ける。怖いね。
「どこからどこまでなんだろうね、わたしの知ってる尺度では、この世はどこまでも、やり口がまるで袋叩きだよ、賢いハンターは手を組んで一体の肉塊を狙うし、勉強とか研究だって突然とても突飛で独特で普遍的な見方をするひとが現れるの、そんなひとが現れた途端に、誰かが何人も束になって、全員の人生をかけて考え抜かれたようなことが、なんとかの原理やなんとかの法則で簡単になかったことにされるでしょう、わたしは、それをただ見ていたいなあ、考えているということも、なかったことにされるということも、見てみたいの、ずっと見ているだけでいたいの、でも、こうやって話している以上は、傍観していることにはならないの」
「逆デリ嬢、俺たちのことが見えてないのぉん?」
はっと気が付くと、先程の不良が彼女に近寄りながら話しかけてきていた。思わず身がすくむ。彼女は答えた。
「それはいいね。逆ってことは、わたしがそちらさんを、ああしてこうしてあっはぁんしていいわけだね。お相手しようか」
不良は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、たちまち言葉を理解することができた瞬間が訪れたらしい。
「ふうん? じゃあお言葉に甘えようかな逆デリ嬢?」
「指名なら、その子は今、フィニッシュ直前だったのにね。タイミングを恨んでね」
そこで不良の表情がみるみる険しくなる。それにも関わらず、彼女はコロッケの最後のひとくちを口に押し込んだ。
「箱みたいな職場でもない職場に、どうもわざわざいらっしゃいませ。逆デリ嬢って呼び方、お気に入りなの。初めてだから上手にできなくてもそれを楽しんでね。どうなの、そういうの興奮するの?」
気分を害した様子の不良は、いまどき、そのような言葉を使うのだなあと感心してしまうような、なめてんのか、というような言葉を少し長くしたような音を出した。すぐさま不良は彼女の髪を掴んだ。彼女は不良と目を合わせて、視線を捕えた隙に肘を引いて右手で拳を握った。だめだ、殴ってダメージが行く体勢ではない。ストレートは顔に当てなければ相手の急速な戦意喪失は狙えないし、ジャブを打っても煽り立ててしまうだけだ。引っ張り上げられた肩までの髪が、相手との距離を詰め過ぎている。拳で勝てる間合いではない。髪と足先だけで体重を支える苦痛に彼女は確かに顔を歪めたけれど、口元だけだった。笑ったのだ。
彼女は右ひざを曲げて、左脚と、引っ張られている髪で身体を支える。片手で持っていた鞄から手を離して左腕を引いた。そして右足の裏をコンビニエンスストアの壁に突っ張るように押し当て、水泳のターンのように、一気に強く伸ばす。同時に、握られていた右手の拳を相手の胃の真上に、斜め下から捻りこんだ。ボディアッパーだった。クリーンヒットとは言ったものの、不良のあげた声はダーティだった。
反射的に彼女の髪を離して、不良は口を突きだすように、う、と発音した。そしてアッパーの入った腹を庇うように前かがみになる。そこで彼女は壁を蹴った右脚に重心を移動させ、身体を支えていた左脚は今度は不良の肩への蹴りに変わった。不良がひっくり返る。彼女は更に歩み寄って、ポケットから何か取り出した。まだ冬が明けきっていないというのに、制汗剤だろうか。それを不良の顔に近付ける。不良は声も出せない様子で、しかしながら明らかにすくみあがった。
「命はひとを殺せるの、だから息を止めてて」
それが何の殺し文句か知らないが、不良は聞き入れずにひいひいと息をしている。
「そちらさんが女の子だったらなあ、もったいないなあ、こういう女の子は、きょうび、とっても精神的に可愛がってもらえるんだろうになあ」
不良の横にしゃがんだ彼女がスプレーを不良のいい加減にセットされた髪に噴きかける。不良がヒイというような息の音を立てたけれど三秒もせずに止まった。そして彼女はつまむようにひとしきり不良の髪をいじり、飽きたように立ち上がった。スプレーは整髪剤のようだった。不良は静かになっているがせめて精神的に無事だろうか。髪型は、彼女がいじったことで、むしろ若々しくスタイリッシュになっていた。
「人は簡単に死ぬのね」
そういえば、と気付くとこちらまで固まっていた。それをどう受け取ったのか、彼女は二度目線を往復させた後に続けた。
「生きているよ、ほら泡を吹いてる」
わざわざもういちど屈んで、不良の顔をつついたようだった。それでも金縛りの解けない貧相なサラリーマンを見た彼女はゆっくりとまばたきをした。そしてまた立ち上がって、機嫌を窺うようにこちらの顔を覗き込んでくる。自分は鼻血でも出しているのだろうかと心配になったけれど、ただ立っていただけで外傷はないはずだった。そこまでわかっているのに、動けもしないし鼻血すらも出ない。
「警察を呼ぼうよ」
少しの沈黙の後だった。彼女はそう言って、少し首を傾げた。こういう仕草をするのは、ひとりで買い物に来て、服を体と重ねて鏡の前に立つ少女くらいだろう。ようやっと金縛りが解けて、勝手に口から返事が出ていた。
「そうだね」
「被害うんぬんよりも通報者になりたいね、通報者のほうに優しくしてくれる警察が多いって聞いたところだよ、ちょうどこの前習ったんだ。だからわたしがかけるね」
彼女はコロッケの空き袋をゴミ箱に捨て、胸ポケットからシンプルな携帯電話を取り出した。
もしもし、から始まった彼女の通報は、このような光景はよくあるのだ、と、言外に物語っていた。声の音色が、母は出かけているんです戻る時間も訊いていなくて、と迷惑電話に鼻声で応対する主婦のようだった。
その間、何もしていないのにとても時間の経過が早いようだ。いつの間にか彼女は電話を終えていた。それどころか鞄を両手で持ち直していたし、手持無沙汰な様子で、氷の服をまとい始める半裸の地面を見つめていた。
「親、来るかなあ」
元凶である不良を見事にのしたというのに、この世の終わりのような目の色で彼女は言った。当たり障りなく、普通は来るだろうね、と返してみた。
「正当防衛にあたらない?」
彼女が得意な説明が始まるのだと期待したのだけれど、そこまでの熱量はコロッケにはなかったようだった。なけなしの油と炭水化物のおおかたは、すぐに冬と春の間に吸収されていっただけだったようだ。季節の基礎代謝が上がり続けている昨今、ますます四季を暑苦しい体型にしてしまったかもしれない。寝る前のマシュマロ入りココアとプレッツェルのようなものだ。そういった間食でしかない我々のこの数十分は、正当防衛ではない。摂取したカロリーは消費しなければ余る。余ったものは、スマートでシャープな理想のボディを導くことはないのだろう。
「そうだね」
「親にはこんなものじゃない苦痛を味わわされているのに、なんで親のことはぶん殴っちゃいけないのかなあ、それでなくても娘がこんなお嫁に行けないサンバも踊れない、ってなってしまったら、親だってこんなものじゃない苦痛を味わうことになるだろうに、可哀想に」
「親じゃなくてもぶん殴っちゃだめだよ」
「正当防衛でも?」
「できるだけはね」
「なら、寂しいな、もうここに来られないや」
彼女の声が震えた。笑いの震えではあったけれど、面白がっている笑いではなかったのは確かだった。敗北を認めたときの笑いか、猛獣の口臭を嗅いだときの笑いか、注射の時に血管を逃したときの笑いのいずれかに似ている腹筋の使い方だった。
「親御さんと一緒においでよ、ピザまんとかその辺を買ってもらうといい、栄養と温かさとあの香りは周りを自然な形で攻撃できる」
今度こそ彼女は笑った。へへへ、と空気が震える。実のところ初めて会ったときからずっと、彼女が泣いたり、笑ったりすることがあるのだとは考えもしなかった。彼女にも日常があることを意識させられた。彼女の日常はここで唐揚げやコロッケを食べることだけでなく、不良をのめして回ることだけでなく、ここに来て言葉を組み立てることだけでもないところにも、確実に存在しているのだろう。
ガラス越しのコンビニの中で、漫画雑誌を青年が立ち読みしていなくなるだけの時間が経った。あれきり彼女は笑った表情のまま呼吸をしている。モナリザが胃酸過多になったような表情だ。
モナリザは静かに不良のほうへ歩いて行った。先程、つんつんにセットしてやった不良の髪を、屈んでぺたぺたと平たくなるように撫でつけた。存外いい整髪剤だったのかもしれない。
とある瞬間が訪れた。いったい何事かと思った。彼女が不良に向かって猫撫で声を出していたのだけれど、自転車の鍵を落っことした音とよく似ている。狭すぎる喉を、しゃらしゃらとつっかえながら空気が通っていっているのだ。そのしゃらしゃらは、いくら語りかけても不良の意識を取り戻すことはないだろう。彼女はそれを証明でもするかのように、不良の鼓膜を揺らす。
「ねえお客さん、どうしてもわたしは口惜しいの、フィニッシュしたかった話があるの、最後まで聞いてくれる? わたし、お客さんたちに生きていってほしいの。そしてわたしよりも下のヒエラルキーに属してほしい。お客さんのキイキイが必要なの。わたしの食べ物は唐揚げでもコロッケでもない、無論精神的な話だよ、必要なのは、お客さんみたいな、キイキイとしたものなんだよ。このキイキイは離乳食みたいなものだって判ってる、いずれ必要なくなる存在であることは確かなの、でも今はキイキイがなければ、精神的に飢えて痩せ細って、けれど肉体的に死ぬほどのものでなしに、ただ苦しむの。天が人の上に人を作らず人の下にも人を作らないのなら、横にある人を食べるしかないし、ただ力で無理矢理に餌食にしたら天が人の下に人を作ったことになってしまう、だから、こうやってお互いの同意のもとで本能に従えるっていうのは、いいものだね。同意のもとで横にあるものだけ食べて生きていきたいのに、何がどうなって、わたしは人の上に立って、人の下に立っているんだろう、つまるところここから逃れるためにわたしは、大多数および従順な傍観者になりたいの、客観的に自分の進級を祝ってくれる誰かになりたいの」
彼女はそこまでを細々とした声で一気に話して、そのあと大きく息を吸った。フィニーッシュ。そう叫んだ恍惚は紛れもなく逆デリ嬢としての一発を意味していた。そのはずである。可聴域に入ったサイレンは、そうは受け取らなかっただろう。
彼女は深くゆっくりとした呼吸でこちらを見た。法なき国、つまりコンビニエンスストアの前で大騒ぎをする迷惑な連中を見ていた視線を、今度はこちらに注いでいる。
羨望だ。
この件を傍観していた、このサラリーマンを羨んでいる。
「喋っとくだけってのは、甘いに違いないな」
こちらから、旋律に乗せて、歌ってみた。彼女のフィニッシュの叫びに負けないくらいに大声で歌った。瞬とした淑女の楽曲、コールドリーディングの冒頭である。
そこから彼女と、平安貴族も顔負けの歌合戦をした。
「うらやましいなあ」
「うらやましいなあ!」
こうしてみると、確かに物狂おしさが一周して楽しくなってくる歌なのだった。羨望はひとりでいる限り、起こり得ない。
サイレンが止まる。歌声も止まった。
そのあと、彼女がきちんと筋道を立てて話せるのだということを知った。
「真楽高校三年生です。わたしがコンビニの前で長々と話をしていたのが、ご迷惑だったみたいですが、向こうもこちらも譲らなかったため喧嘩をしました。ごめんなさい。もうしません。顔のべたべたは髪をセットするスプレーです、お渡ししておきますね」
辺りには、彼女の親らしきひとはいなかった。現場までは来ないものなのだろうか。そんなことを思っていたら、警察官が言った。親御さんと学校に連絡するから。
「わかりました、お手数をおかけして申し訳ありません」
彼女は、今度こそ変わった。彼女の言葉を借りるのならば、進級した。
自分と密接なことの当事者として扱われることで、傍観者になりたいという思いが解決したのだろう。
完全な傍観者は、存在しないのである。傍観者が居たとしても、傍観者というカテゴリーに所属する以上は、何らかの当事者になってしまう、カテゴリーというものを対象にひとはひとを見るものなのだ、彼女というカテゴリーが警察に話を聞かれている、だとか、サラリーマンというカテゴリーが一部始終を見ているので警察官はサラリーマンがこの件に関係あると踏んでおり、もしかしたらサラリーマンの社会的な印象がこの件で悪くなってしまうかもしれない。
そういった具合に、カテゴライズから逃れることはできない。しかしながらだからこそ、彼女は自覚的に当事者となることで、過去の自分というものに始まり、様々なことを傍観した。
ほんの少し警察に話を訊かれただけで帰途に就けた。彼女があまりに客観的に話したものだから、こちらも彼女を過剰にフォローすることはできなかった。彼女とは接触を取れないままだった。確信はしているけれど、彼女の将来は本当に拓けただろうか、拓けているはずではあるが、ここまできたら見ていたかった。
したがって彼女に、進級おめでとう、と、ひとこと伝えたかったけれど、警察官の前で言う気にはなれない。トイレではあまりひとと会いたくない性格が、その言葉を阻んでしまった。喋っとくだけってのは甘いに違いないな。そんな思いが、じわじわと肺の空気に染み込んでいって、汚いもの全部水に流しているように、ため息となった。空気中に排泄された息は、シャーベットのように白く凍っている。
ぱちり、と、家の電気をつけるまで、延々と、瞬とした淑女のコールドリーディングを聴いた。最後にするつもりだった。今日で、このバンドミュージックから離れよう。彼女が進級するのを見てしまって、どうやら触発されているようだ。
しかしながら、出鼻というのはくじかれるものである。いつも通りの冷え切った部屋、目覚まし時計のL字の針、整いすぎた書類、それよりも、由々しき問題があった。
コロッケを買い忘れたのだ。
外に出る気にはなれなかった。寒い夜だったし、アスファルトが凍っているかもしれない。けれど腹は減る。明日も仕事だ。なんとも不都合なものである。
完