第二話 ヤマネコ
水が足を洗う刺激で眼が覚めた。
潮の満ち干きはやはりあるようだ。
目覚めたばかりでも海月の思考ははっきりしている。寝ぼけることはなく、しっかり今の状況を把握していた。
眠る前の水の高さからここまで達したのだから、結構な時間が経っている。壁に押し付けていた背中と尻はやや痛いが、深く眠れていた証拠だった。
それこそ生まれ変わった気分だった。
推測どおりならばすでに生まれ変わっていたわけだが、かつてなかった新鮮な気分を味わったのは今が初めてだった。当初は驚きの方が勝っていた。
ああ、本当にここには他人がいないのだ――
起きてもそれを実感できることの素晴らしさといったら、他に比べられるものが思いつかない。
思えば何をしても楽しくなかった。心の底から楽しんだことなど本当に一度もない。少なくとも記憶にない。
そもそもこれほど深く充実した眠りというものを体験したのはいつ以来だろう。もしかしたら生まれて初めてではなかろうか。転生しているのなら紛れもなく初めてだが、そういうことではなく、海月という自我が安寧を得たのはきっとこれが初めてだったのだ。
穏やかなのにどこか浮ついたような気分。
何をしても上手く行きそうな予感――それがきっと楽しいという感覚なのだ。
遊ぶから楽しいのではなかったのだ。楽しいからそれが『遊び』になるのだ。
そんな、きっと誰もが知っていることを、海月は漸く知った。
遅すぎた理解とは云えない。
なぜならこの気分は、人間の影から解放されて始めて得られたものだからだ。
今日は何をしよう。
空腹は癒えていない。背中も尻も痛い。何も着ていないせいで多少身体が冷えている。それなのに、気分はこの上なく晴れやかだ。
空腹を満たせばこの気分はきっと更に上向く。
ああ、楽しみだ――
そんな気分に水を差すつもりではないだろうが、水面が跳ねた。
外は夜なのか、海面は真っ暗だ。それでも眼が慣れているためか、海月にはそのシルエットを捉えることができた。
魚だ。
潮流に巻き込まれてこの洞窟に迷い込んでしまったのだろう。
魚なら生でも食べられるよな、と思ったときには、再び水面から跳ねた魚を、瞬間的に身を迫り出し、伸ばした手で掴んでいた。
鱗で滑って掴みにくい。というかそれ以前に、なんという身体能力だ。
いろいろと驚いて、掴んだ魚をうっかり取り逃しそうになる。
そうはさせじとうっかり力を込めて、指が魚の鰓を潰してしまった。
魚は程なくして暴れることを止めた。
絶命したらしい。
驚くのもそこそこに、どうやって食べるかを考える。器具がないから鱗を剥がすことはできないし、内臓を取り除くのも難しい。焼けば鱗ごと食べられるかもしれないが、生ではさすがに厳しくないだろうか。
とりあえず肛門に爪を立てて突っ込み、不恰好に腹を割いて内臓を取り除く。秋刀魚ならこれでできるからとやってみたのだが、意外に簡単にできるものだと新鮮な感動を味わった。
続いて、割いた腹の皮を摘み、肉との間に爪を割り込ませるようにして慎重に剥がしていく。これも意外なことに割と簡単にできた。もしかしたら器用さも向上しているのかもしれない。
無事過食部分をむき出しにしたら、海水で洗い、骨の間に歯を差し込むようにして齧り付く。
「……」
残念ながら旨いとは言い難い。臭みが強すぎる。死にたてで脂肪が酸化しているということもないはずだが、内臓の掻き出しを失敗したのか、それとも絞め方が悪かったのか、おそらくは両方だろう。血抜きをしていないせいもきっとある。寝かせていないから旨み成分であるアミノ酸も出ていない。碌な味がないのに臭みが強く、空腹でもなければ食べないレベルで、美味しくなかった。空腹は最高の調味料というが、あれは嘘だと海月は知った。この調味料では単に食えると知っている物を食えるようになるだけで、旨くなるわけではない。
噛り付いてから思いついたが、寄生虫も心配だ。もにゅもにゅとした悪い歯ごたえと臭いに堪えながらよく噛んで、その対策とする。そのために小骨が歯茎に刺さってもう散々であった。
出端を挫かれた気分になった海月だが、洞窟の奥に行って苔を摘み、水を飲んできて、仕切りなおす。
味の面では裏切られたが、腹はくちくなった。
味の面で裏切られたために早急に火を手に入れなければという決意を新たにして、海に潜った。
夜の海というのは凄まじいまでに真っ黒だ。
真っ暗ではない。月明かりが出ていて、それも満月だ。真っ暗闇から出てきた海月には、空を仰げば眩しいくらい。
海面だけが照らされて、その奥から光が返ってこないから、真っ黒だった。
海月がこの岬に隠れたときよりも海面が上がっているせいで、岩場には辛うじて足が付くくらいの深さに沈んでいた。
打ち付ける波が泳ぐのを阻害するが、海月の向上した身体能力は容易く流れに逆らい、砂浜の位置まで泳いで渡る。
月明かりに照らされた砂浜には誰もいないことは確認済みだ。
それでも慎重に上がり、密林を波打ち際から観察する。
さすがに夜の密林は、恐怖心が麻痺しがちな海月にもおどろおどろしく感じられた。
けれど、向上した身体能力の内には暗視がある。さすがに色までは見えないが、この月明かりの下なら密林くらい、容易く探索できるのではないだろうか。
詰まるところ、海月が恐れているのは人間が密林のどこかにいるかもしれないということであり、『夜の密林』ではない。
最初にこの島で目覚めた位置にわざわざ移動して、海月は当時に鳥が飛び立った方向を、記憶に照らしてしっかり確認する。
そしてその方向をきっちり迂回するように、密林へと這入っていった。
時に、海月は全裸である。
体毛の薄い人間の肌は、月明かりの下では目立って仕方がない。転生したてのためか、海月の肌は白皙と言って過言ではないほど、黄色人種にしては真っ白なのだ。もちろん転生以前から海月は陽に当たる機会は少なかったから、もともと白かったのだが。
とにかくこれは早急にどうにかしないといけない問題だった。
夜の森で目印になるのを避けるという目的であるから、移動の際にどうしても音を立てる、柔らかい木の枝や葉っぱなどを纏うというのは却下だ。それらはせいぜい足を保護するためにしか使えない。
そうなると定番の、泥を身体やら顔やらに塗りたくるというくらいしか海月には思いつかなかった。
簡単に剥げる樹の皮があったので、それを蔦や蔓など大きな一枚葉の葉脈などで加工して、腰履きにする。
ぶらぶらするので動くのに邪魔なので、少しでも固定したかったのだ。
羞恥心を覚えるべき余人がいないと信じたい海月は、下半身を隠すことに理由が必要だった。一応ぶらぶらすると邪魔という理由は本当だったが。
全身に泥迷彩を施し、簡素な腰履きを纏う海月はどこの原人だという風体だったが、海月は満足していた。
樹皮は乾いていて、火を付けるのに適していそうだ。
腰履きの分を除いたとしても余分に回収し、丸めて蔦で縛り、棒状にする。手製の薪だった。
けれどまだ火を熾すつもりはなかった。
火を付けると必然的に煙が上がり、それを密林の葉で散らすにしてもどうしても隠せない臭いが立ってしまう。
野生動物が火を怖がるというのは迷信だ。特に森林火災が少なそうなこの温暖湿潤の島で育った野生動物は、むしろ火に好奇心を抱いて寄ってくる可能性が高い。
そもそも人間がいた場合、火を付ければ狼煙という目印をわざわざ上げることになってしまう。
人間の嗅覚なら多少火を使っても嗅ぎ付けることはないだろうから、煙を誤魔化しつつ、野生動物の鼻を誤魔化せる環境を作るか見つけるかしないと、火は熾せない。
それは探索を行って適切な立地を見つけることが必要だから、まずは道具集めだ。
バッグも何もないので使えそうな素材は当たりを付けるだけにして、置いていく。
手頃な石をいくつか見繕い、それは拾っていった。
石器を作るつもりなのだ。魚を初めとして、獲物を解体するのに素手ではどうしても限界がある。黒曜石でもあればいいのだが、そこまでは期待しない。だから簡単に砕ける石があればそれを硬い石で加工して使い捨ての石包丁にするつもりである。狩りの道具としては心許ない。というかそういうのは尖った木の枝とかただの投石で充分であり、加工の手間を考えると石器を武器にするのは効率が悪いのだ。即席の石器で猛獣に立ち向かえるわけがない。棍棒のほうがまだマシだ。だが棍棒も手に入れようと思えば中々難儀である。
一度砂浜に引き返し、腰履きを砂浜に埋めて、海に潜って洞窟に戻る。
手頃な石と手製の薪、火を熾すための板や棒は持ってきた。
濡れてしまったので、薪などは広げて乾かす。陰干しだから非常に時間が掛かるだろうが、この洞窟は海月にとって非常用のポイントだ。やはりここでもまだ火を熾すことはできない。ストックしておけばいつか役に立つかも知れないというだけで持ち込んだ。
わざわざ洞窟に一度戻ったのは、石器を作るためだ。石をぶつけ合うのだからどうしても音が出るからだ。
反響するうるさい音に耐え、石と石をぶつけ合う。器用さが向上しているためか、思ったよりも少ない試行数でそれらしいものが六本ほどできる。
四本の石包丁はこの洞窟に置いておく。
二本の石包丁を手に持って、先ほどと同じ行程を踏んで密林に戻った。
手頃な細い丸太を見つけ、それを石包丁で彫る。
切れ味鋭いというわけにはさすがに行かないが、向上した腕力と器用さに飽かせてひたすらに彫る。音はどうしても出るが、このくらいなら決して静かではない密林の木々のせせらぎに紛れてしまうだろう。
棍棒の作製だった。
ぶっちゃけ握りの部分だけをどうにかした、棍棒とも云えないかもしれない適当な代物だが、今の海月の身体なら、当たり所がよければあるいは大型の動物を撲殺できるかも知れない。まあ気休めである。正直時間を稼げれば上出来だろう。だが動く動物に石包丁の刃を立てられるとは思えないので、やはりこれしかない。
一応他にも、半ばまで縦に裂いた木の棒に硬くて平たい石を挟み、蔦で何十にも縛って固定して石手斧もどきを作ってみたが、取り回しを考えるとやはり棍棒のほうが使い勝手が良さそうだった。一撃で相手を殺せないのであれば、多少の攻撃力が低下しても取り回しがいいほうが撤退成功率が上がるだろう。
獲物を狩るのには別の武器を作る。棍棒などは牽制用である。
道中集めた蔦を編み、ロープにして、そのロープの先に石を括り付ける。それぞれのロープを十字に括り付けて、いわゆるボーラにした。獲物に絡んで動きを封じるための立派な武器だ。
更に、棍棒にしたのより細い棒を彫って大きなスプーンのような形にする。投擲杖という奴だ。この先の窪みに石を嵌めて、振れば遠心力のおかげで投石の威力は倍増するという寸法である。
弓は適切な木材がないし、矢を作ることが難しすぎるし、蔦では張力が足りないと判断し、諦めた。
投擲杖で何度か海に向かって試射して、何となくの感覚を学習する。命中精度を見るために砂を盛って的にしても試射してみた。
大体の感じで言うと、命中精度は意外なほどに悪い。杖のせいでもなければ海月の腕が悪いわけでもない。弾である石が同じ重量、同じ形のものがないためだ。長距離狙撃は期待できない。
ただし、中距離までの威力は相当だ。鳥くらいであれば中れば確実に狩れるだろう。当たり所がよければ大型動物の骨を砕けるかもしれない。あくまでも海月の目算だが、そのくらいだ。
慣れれば弾の癖を瞬時に掴めるようになり、命中精度も上がるだろう。
そんなことをしている間に陽が昇って空が焼け、朝の到来を告げる。
道具の作製には思ったより時間がかかっていたようだ。夜の間に探索を始めることはできなかったが、別にこれはこれで好都合だ。
石斧を後ろの腰に固定し、杖は腰の横に差して、棍棒は手に持つ。ボーラは肩に提げた。細かい作業に耐えられなかった欠けた石包丁はそこらに捨てる。
海で流れてしまった泥のペイントを新たにして、海月は密林の奧へと足を進めた。
密林の奧へと足を踏み入れ、程なくして海月は非常に困惑していた。
木々の影に変な表示が見えることがあったからだ。
これを表現する上手い言葉が見当たらないのだが、虚空に文字が浮かんでいるような、というか。言うなれば、そう。拡張現実表示という奴だ。
ただし、その表示が見えるのは夢の中で本を読んでいるときのような感覚であり、それを読むことはできない。明らかに幻覚である。現実にはそんな表示はない。読めないのに文字だとわかるというのは、つまり海月の頭の認識がそれを写し出しているということの証拠だからだ。普通、読めない文字を見て、模様だと思うことはあってもすぐさまそれに意味があると思うことはない。順番が逆なのだ。海月はそれを『読めない文字』と知ってから、それを視界に写し出している。
幻覚ではあるが、海月の脳が何かを認識しているという感覚があるということが偽ではない。それの正体はわからないが、海月の脳は何かを感覚している。それを普通の感覚では脳が表現できないために、『読めない文字』として便宜的に視覚に表示しているのだと考えられた。
転生かどうかはともかく、海月の身体、というか存在の在り方が何かしら以前と比べて変質していることは間違いない。これもその一つであると考えれば、それほど不思議なことでもなかった。
人間、ではないと思う。だから海月は一定の警戒心を持ちつつも、そのAR表示の正体を――AR表示をさせる何かの正体を確かめようと近づく。
直観で、手近なところを選んだ。
しゃがみ込むが、そこにあるのは菌糸が指向性を持って寄り集まった塊。つまりキノコだった。
別に派手な傘をしているわけでもない。そもそもキノコについて造詣が深いわけでもない海月には、そのキノコが何か特別なものであるかどうかは判断できなかった。
かといって地味な柄だからといって食べても平気なキノコであるわけでもない。シロウトにキノコの安全性の有無は判別できないとする文献を読んだことがあるので、採取する気もない。
適当な木の枝を拾ってきて突いてみる。
判断基準を持たないので、やはりわからないが、変哲もないキノコに見える。
他にもAR表示はあるのでそれらも確認してみたが、キノコだったり雑草だったり、特にその他との区別は付かない。
このAR表示が海月の仮説通りの代物であれば、確かに何か他とは違うはずだ。
近場でこれらを採取して、集めてみる。
並べて、共通点を考えた。
いずれも広義での生物に属するという点が真っ先に見出せた。だがそれでは、AR表示が付いているのと付いていないのとの間に差が見出せないため、それは必要条件であろうと推測する。すると、これらは見た目ではわからない何かが特別な『生き物』なのだということが推知された。
同じ種類でAR表示されていない物をそれぞれ並べ、見た目を比べ、匂いを比べ、色々としてみる。
先入観のせいかどうか判別できないという難しい問題に当たった。
けれど何か感触が違うような気がするし、二つを並べてみると色が違うような気もするし、匂いが若干違う気がした。さすがに食べ比べるのは止めておく。
生物には個体差が必然的に生じるので、確信はやっぱりできない。
そもそも解明するべき問題なのかどうかという疑問もある。
つまりここで解き明かすべきは特別危険性があるかどうかと、あわよくばこの表示が出ている物は食べられるかどうか、ということだけだ。
そして今のところ特別な危険性はなく、食べてみなければ食べられるかどうかを確かめる術はない。そして仮に食べて平気でも、AR表示がある物ならばすべて食べられるという保証が付くわけでもない。
他の動物が食べていたから平気という検証さえできない。身体の作りが違うのだから、ある動物には毒でも、ある動物には毒ではないという物質は数多い。参考程度にしかできない。
しかし、気になる。
放置して探索するのは何か危険な気がする。
危険というとまた何か違う気もするのは、おそらくこれが『人間の影』ではないからだろう。けれどこれは海月が『人間の影』を避けるために有益なのだとしたら、どうだろう。
AR表示で、しかも文字だ。その正体が判明すれば、その文字が読めるようになるのではないだろうか。その文字はきっと、このAR表示が付く物に対する注釈だ。それは間違いなく有益だ。
そして、注釈であるということから逆算すれば、読めないという事実は逆に言えばその内容が『海月が知らないこと』であることを示している。海月はこれら雑草やキノコについて、何も知らないのだ。
AR表示が付いていて、且つその内容――この場合は生態――を海月が知っているものを探し出せばいい。そうしたら、掠れて読めないAR表示が読めるようになるのではないだろうか。
やってみる価値はあった。
どうせ探索を行うのだから物のついでである。
AR表示を目印にして時々採集しながら移動する。
残念ながら未知の植物や菌糸類ばかりだ。稀に球状のぬめぬめした物もあったが、おそらくそれは卵だろう。けれど何の卵なのかわからない。おそらくは爬虫類のそれだとは思うが、それ以上はさっぱりだ。けれど卵というのであれば、鳥のそれがあるに違いない。
木の上などに登って鳥の卵を探し、AR表示が付いているそれを見付けはしたが、鶏卵でもなく鶉の卵でもなかった。種類がわかる鳥の卵などそんなものしかない。とりあえず卵は回収し、その場で飲んだ。
サルモネラ菌とかは一切気にしない。生だ。これからもこの程度の衛生面では妥協しなければならないときが来るし、苔を摘んでいる時点で何を今更の話だ。
大変美味しかった。鶏卵とは違ったが、甘味があって、馴染みのない臭みもあったが、生魚に比べればどうということはない。
味の面で報われた海月は、ここで一休みすることにした。
火を使える場所を見つけ出すという目的はあったが、密林を気を張りながら歩いたことでそれなりに消耗している。体力的にというより、精神的に。
それに、ここで待てば卵を産んだ親鳥が戻ってくるかもしれない。そしてその親鳥にはAR表示が付いている可能性がある。もし表示されていたら、AR表示が付くか否かが、遺伝性の要素に左右されることがある程度確かめられるわけだ。
結構な高さの木であり、それだけに枝はしっかりしていた。一休みするには充分だろう。
悠長なことだと思いはする。けれどAR表示のおかげで鳥の卵を見つけることがそう難しいことではないと明らかになったのだ。やがては飽きて別の味が欲しくなるだろうが、少なくとも当座は凌げる。充分な有益な使い道であり、究明を急ぐ必要はないということ。
というか悠長も何も、この島に流れ着いた当初から、海月には積極的に叶えるべき目的がない。強いて言うなら人間に出会わないようにすることであり、けれど仮にいるならばいずれその発見か遭遇は避けられない。ならば急ぐ理由は今のところ何一つなく、いっそのこと火を焚いて、何物かを誘き寄せるというのも一つの手だ。こちらが一方的に発見したなら、逃げ回ることだって選択肢に入れられる。腹が満ちて、そんな楽観的な考えも浮かんできていた。
とはいえやっぱり怖いので、火を使うことには慎重になるつもりだ。仮に人間がいるならば、一方的に発見し、見つからないように立ち回るという方向を選択したい。
つまり海月の目的をあえて言語化するならば現状維持だ。夢はすでに叶っている。この解放感が少しでも――できるなら野垂れ死ぬまで続いてくれればそれでよかった。
まあ、それでも生活が向上するに越したことはないから、そのための工夫は惜しまないつもりだった。ただ、そのために急ぐのでは海月としては本末転倒。木の上ならば猛獣も襲ってこないだろうし、ある程度は安心して休めるはずだ。
そんな油断をしてしまう。
AR表示がその斜め向かいの木にいる獣に付いていなければ、海月はきっと気付いたときにはその牙を首筋に埋めていた。
音もなく斜め向かいの木に登ってきていたのは、ネコ科の大型動物だ。
その巨体でどうやって音も立てずに木を登ってきているのか。
何かが明らかに不自然だった。
驚愕のために海月が思わず身じろぎした時に、ちょうどその獣は向かいの木の枝を蹴った。その牙を突き立てんと大口を開き、爪を立てて――
間一髪で棍棒を横薙ぎに振るう、と同時に。海月は枝を股で挟み、頭を下げる勢いのままぐるりと振り子のように横に回る。
咄嗟の回避だった。おかげで枝にぶらさがれたのは一瞬だけだ。墜ちるときに足首が枝に引っかかるが、遠心力のせいで外れ、隣の木の幹に投げ出されて背中から衝突してしまう。
海月の意識は一瞬だが確実に喪失した。地面に落ちたところで気絶から回復する。
骨折は――どうやらしていない。打ち身で済んだ。あるいはアドレナリンの分泌で痛覚が麻痺しているのか。ぬるりとするのは奴の爪が掠ったためか。肩口から出血していた。
逃げなければ。
いくら向上した身体能力でも、野生のハンターに敵うわけがない。実際、棍棒の先が無かった。噛み砕かれたのだ。あの一瞬で。
石斧が、傍に落ちていた。腰から外れたらしい。投擲杖は折れている。
咄嗟に石斧を掴んで、他には何も考えず、身体を前に投げ出した。
頭上を何かが掠めた。
木の板が折れるときの音が連続したような響きが、転がる海月の耳朶を打つ。
――冗談だろ?
前転する一瞬、反転した視界で、海月はそれを見てしまった。
木が抉れていた。
棍棒はまだわかる。あれは元々そんな丈夫ではない。けれど奴が噛み砕いた木は生木だ。どこかの枝が折れて乾き、多少脆くなっていた棍棒のそれとは違う。
縦に走る繊維を物ともせず、水を吸っているために弾性を持つ生木を、牙で抉り抜いたのだ。
ありえない。牙で生木を伐ることができるような動物なんて、知らない。木登りするネコ科の動物は知っているからまだ許せるが、あんなのがいるはずがない。この分では石斧の石部分さえも噛み砕けるのではないか。ありえないはずのそのこともありえるとその木の有様が示していた。
しかも、逃げられないということを、海月は理解してしまった。
未だ密林の歩き方も心得ていない海月が、どうやったら奴から逃れられるのか。木の上はもちろん安全ではないし、海に潜ればあるいは逃げ切れるかもしれないが、そこまでどうやってという話だ。
驚愕しているなりに冷静な――恐怖に呑まれてはいない海月は、不可能だとはっきり自覚した。
前転から即座に体勢を立て直し、奴に向き合う。
どうしたって生き残るヴィジョンは見えないが、立ち向かう。逃げられないのならばそれしかない、と。
あっさり海月は決断したのだ。
人間に対するそれ以外、海月はすっかりそれを欠落していた。それとは恐怖ではない。恐怖に駆られての逃避行動を、すっかり忘れてしまっていたのだ。慢性的に恐怖に囲まれていたせいで。
だから確実に殺されるとわかっていて、立ち向かうことができる。
正しい恐怖心を抱けない者は早死にする。だからこれは決して正しい行動ではない。ただ、もしかしたらこの場合に限っては正解だったかもしれない。
その巨大なネコか肉食獣をしても、さすがに生木を顎を開いた面積分、それなりの厚さを抉り抜くのはただでは済まなかったのだ。
牙が折れたとかではない。牙に木の繊維質が絡まって、吐き捨てることができなくなっていたのだ。
噛み砕いてしまおうと顎を上下させようとするが、上手く行かず、強く絞ったせいで樹液が喉に流れ込んだのか、悲鳴を上げて転げ回る。
それはまるで毛玉と戯れるネコのような有様だったが、巨体がそれをするといかにも暴力的だ。可愛らしさの欠片も見出せない。鋭い爪を嫌々するように振り回すのだから近づくのも非常に危険である。
ただ、可愛らしさはなくとも間抜けな光景ではあった。完全に自爆だからだ。
なんだろう。木の抉れは絶望的な攻撃力の証明だったはずなのに、それが盛大な自爆だったのだ。
ちっとも安心していい状況ではないのに、奇妙に脱力させるものがあった。
何にしてもこの好機を逃す手はない。
海まで逃げるならば今なら逃げられる。
けれどやっぱり海月はここでこのネコみたいな猛獣を殺していくことを選ぶ。
あまり学習能力は高くなさそうだが、次もこんな偶然はない。洞窟に引きこもるのでなければ、ここで殺しておかなければまた遭遇する。次は確実にあるのだ。
かといって爪を出した四肢をめちゃくちゃに振り回すネコ科猛獣に近づいて、この石斧で撲殺するというのは危険だ。ボーラはあるが、この即席のロープくらい容易く引きちぎってしまいそうで、早々に見切りを付けた。
折れた投擲杖を拾い上げてそこらに落ちている枝と合わせ、ボーラを解いて蔦のロープで縛って一本にした。
ボーラに使っていた石を投擲杖の先端の窪みに装着。
眼を狙って、投げる。
しなりが利いて思った以上の速度が出た。その代わり、この距離で外してしまう。
ネコ科猛獣は未だに転げ回っている。
暢気なものだと、次弾を装着する束の間に観想する。
再び狙って、放つ。
やっぱり狙い撃つのは難しい。頭を狙ったのに銅に命中した。真綿を殴ったような音だ。つまりあまり手応えがない。
少しは効いたのか、更に暴れ回る。
気にせず少し距離を取って、転げ回る奴の頭部がこちらを向いた瞬間を狙って放つ。
今度こそ頭部に命中した。硬質の音が鳴り響く。
はっきりとしたダメージが見えた。出血している。けれど死んでいない。
多分人間だったら脳挫傷を起こしても不思議はない威力なのだが、頑丈なことだ。
次弾を装填。これで弾は最後だ。手頃な石が手元にない。
頭部に命中しても殺せなかったのは、困った。
さすがにダメージを受けて、奴のほうも口を塞がれていることにかかずらっている場合ではないと理解したらしい。ごろりと転げ、腹を地面に向ける。立とうとしている。
咄嗟の判断で、海月は奴の上腕を狙って最後の弾を放った。
殺せないならば、せめて機動力を奪えないかと思ったのだ。
狙い過たず、上腕の間接に当たる。鈍さを含む硬質の音。中で関節が割れたか。だとしたらば重畳。そうでなくともバランスを崩し、奴の腹は再び地面に着いた。
ここだ――
ここで殺せなければ殺されるのは自分だ。
なぜだか海月はそれを確信する。ぎらぎらと睨み付ける奴の瞳のせいかもしれない。
論理的な根拠はない。ただの直感だ。強いて言うなら、野生動物は後のことを考えないからだ。人間ならば、どこまで行けば死ぬのか、後がないのかということを考える。どこまでなら足掻く意味があるかを考えてしまうのだ。意味がないことに、自意識の発達した人間は耐えられない。だから手負いの人間は、意味がないと思えば酷く脆い。けれど、獣は意味になど頓着しない。だから、手負いであればこそ、奴は手強いのだ。
けれど、弾がない。
あるのは地面に投げた手斧サイズの石斧だけ。斧といっても刃も付いていない。これではとても殺せない。これでは投擲杖で投げた石のほうが強い。それはなぜだ? 投擲杖は長さで持って遠心力を増やしているからだ。手斧サイズではその遠心力による攻撃力の増加が見込めない。だから殺せない。ならば――
投擲杖の先と手斧を結びつける。
長さを増やせばいいと考えたのだ。安直かもしれないが、ただ手斧を投げるよりも威力が出せる可能性があるのはこれだけだ。
急いでやったので、結びつけたというより蔓で引っかけたという程度。けれどこれでいい。
投擲杖を肩に担いで、まるで一本背負いをするように振り下ろす。そして、先端の石が奴の頭にぶつかるかぶつからないかという直前に、身体ごと杖を持ち上げる。
杖が撓り、先端の加速度だけが一気に上昇した。
パグン、というかつて聞いたことのない音がする。
石は砕けていた。平たい石だったのに縦に。
ネコ型猛獣は白目を剥いている。その眼にはピンク色にも見える液体が溢れ出してきていた。
頭頂には凹みも確認できた。きっと頭蓋骨が割れたのだ。
痙攣はしているが、死後痙攣のそれに違いない。
殺せた。
確信していたが、念のため、石を拾って遠巻きにして杖でまた投擲する。
眼窩に命中したのに、規則的な痙攣に影響は観られなかった。
改めて、殺せた。
死んでいる。
安心できないため、海月は傍の木にもたれてじっとその死体を眺めていた。