第一話 楽園
目覚めたらそこは楽園だった。
楽園と聞いて海月くらいの年齢の男が想像するものとはまるで違うが、海月に限ってそこは紛う事なき楽園だったのだ。
何せ人間が一切見当たらない。
人間が手を加えた形跡のある物――人間の影も見当たらない。
海月は解放されたのだ。
物心付いた時からもはや慢性化していた息苦しさから、海月は解放された。
あまりのことに、海月はこれまでの人生で、ついぞ上げたことのない歓呼を叫び、そして泣いた。感極まりすぎて涙が溢れて止まらなかった。
どうやって自分があの状況で生き残ったのかとか、ここがどこなのか、そもそもここには本当に人間がいないのかとか、様々に疑問はあった。
けれど海月にはわかっていた。
本能が――最早海月の深すぎるところに根付いていた第六感が、知っていた。
ここには誰もいない。ただいるだけで海月に恐怖を与える存在が、いないのだ。
世界とはこんなにも空気に満ちていたのかと、海月は驚き、そしてまた叫ぶ。
自分はこんなにも声を出せるのだと初めて知った。大声を張り上げるということが快感を呼ぶものだということを、初めて実感していた。
そんな大声を出していたせいか、海月が流れ着いた砂浜の先の密林から鳥が一斉に、逃げ惑うように騒ぎながら飛び去っていく。
その騒がしさで海月ははたと我に返った。
この島には――なぜかここが島だと海月は知っていた――人間がいないのは間違いないが、それは動物がいないということを示していない。
動物がいることは鳥がいたことからも明らかだ。鳥ならばともかく、大型の肉食動物などがいたならば、果たして自分はどうなってしまうのか。
逃避的に死にたかった海月だが、この解放感を味わってしまえば欲が出る。
死にたくない。
もっとこの無人島を味わいたい。解放された直後に死ぬとか、どこの囚人に対する虐待だ。そんなのはまっぴら御免であった。
海月は決意し、海難遭難して消耗どころの話ではないはずの身体を持ち上げ、即刻駆けだした。
もし大型の獣が来るとしたら、それは鳥が飛び立った方向からだ。
その方向は避けて、砂浜の波打ち際を駆ける。
獣ならば嗅覚が優れているかもしれない。だから海の水が自分の足跡を洗い流してくれることを期待した。
岬のような迫り出した岩場に辿り着き、その影に隠れる。
ここでようやく海月は自身に起こっている異変を自覚した。
波打ち際なんていう足場の悪い場所を駆けたにしては、あまりにも移動速度が速すぎた。そもそも海月は遭難以前、靴下と靴を履いていたはずだ。靴は海難遭難中に脱げたとしても、靴下までというのは不自然だ。
というか自覚してみれば海月は全裸であった。なんか走るときに揺れて邪魔だと思いはしたが、気付いたのは今だった。
そんな青空の下で全裸というのが、海月のあの途方もない解放感をもたらしたとでも言うのだろうか。
そんなバカな。
人間を怖がる海月に人間に裸身を曝すことで快感を得る露出狂の性癖が眠っているはずがないではないか。
そんなバカなことを、全裸状態に錯乱した海月は一瞬思ったが、その性癖の有無など途方もなくどうでもいいことだった。
砂浜を尋常ではない速度で駆け抜ける身体能力に、この姿――全裸。
つまり、見た目は変わっていないが――鏡がないので確かではない――海月は身体的に以前の海月ではないのではないか。
転生、という言葉が脳裏に浮かぶ。
バカげた考えだが、あの海難事故を大した消耗もなく生き延び、無人島に流れ着くと考えるのとどちらのほうがありえないか。
比べるまでもなく、どちらもバカバカしく、ありえない。同じくありえないならば、現実に即しているのはどちらか。以前の海月は死に、どうしたわけか成長した姿で生まれ変わったとするのは、バカバカしいなりに現実的だった。
すると別の恐怖が鎌首をもたげる。
本能でこの島には――ここが島だという確証もないのだが――人間がいないと覚った海月だったが、その本能は果たして正しいのか、という疑問。
身体が別物になってしまっているのであれば、その感覚を信じても大丈夫なのだろうか。
恐怖が、ぶり返した。
全身が震えてガチガチと歯が鳴る。
恐怖を思い出して、あの息苦しさを思い出して、海月は恐怖に恐怖した。
果たしてどんな獣がやってきたのかと確認しようと思っていたが、止めた。
万が一にも、砂浜の様子を見に来たのが、獣ではなく人間であったなら――海月は今度こそ立ち直れない。
仮初めであったとしても、この解放感を今少し、もう少しだけでいい。味わいたい。
何物かが海月の叫び声を聞きつけて砂浜にやってきていたのは紛れもない事実だ。
けれどその何物の正体を探ることを――人間かも知れないことを、海月は確かめないことを決意した。
むしろもっと遠くへ逃げなければ。
慌てて行動しても見つかる可能性がある。
だから慎重に、どこに逃げるのかをしっかり考える必要がある。
岬の先は崖になっていた。ではその崖を登って――今の身体能力ならばおそらく可能だ――と思ったところで密林に逃げるのは悪手であると思い至る。
なぜなら正体不明の、鳥が逃げるような相手は密林の奥からやってきたのだ。
食料を得るために――食べられそうな木の実が砂浜からでも見えていた――やがては密林に入ることにはなるだろうが、今すぐはダメだ。心の準備ができていない。
いつだったらどんな心の準備ができるのかはわからないが、今はダメなのだ。
きょろきょろと視線をさまよわせて、それを発見する。
岬の影に打ち付ける波の一部が、奇妙な動きをしている。
直感だった。具体的に何が奇妙なのかを言語化できない。
慎重に近づいて、そこが波を吸い込んでいることに気付いた。
思い切って海に近づき、意を決して潜ってみる。
塩水が眼を洗うのも構わず、眼を見開いて観察した。
やはり――穴があった。人が二人くらい通り抜けられそうな、縦に長い穴だ。
一度顔を出して、息を溜め、潜って穴へと泳いでいく。
水流に揉まれ、壁の岩に身体を打ち付けられながらも、溜めた息を漏らさずに、海月は泳ぎきった。
やはり身体能力が異常なまでに跳ね上がっていることを実感する。たやすく皮膚を切り裂くはずの岩壁にぶつかっても、擦過傷さえ負っていない。
果たして上へと繋がっていた穴を潜り抜けてみれば、そこは真っ暗な洞窟だった。
有毒ガスが篭っていることが懸念されたが、海月は構わず息を吐く。そして、吸った。変な臭いもしないし――多少メタンガスっぽい臭いとアンモニア臭はあったが――少なくとも即効性の毒はない。
風が動いていたからだ。確実ではないが、ガスは溜まっていないと判断した。
人間恐怖症の海月だが、人間以外はあまり怖くない。そこに人間の影が差さなければ、海月はむしろ蛮勇と呼ぶべきまでに思い切りがよかったのだ。
海水溜まりから這い上がり、洞窟を見渡そうと首を巡らせる。
光源が海からのわずかな陽の照り返ししかないはずのそこで、海月は薄ぼんやりとではあるが、輪郭を掴むことができた。暗闇に眼が慣れてくるとそれはよりはっきりとする。
感覚器官まで作り換わっている――生まれ変わっている。
そもそもいったいどれだけの時間息を止めていられたのだろう。決して短くはなかった。単純に息を止めるだけでなく、泳ぐという運動をしていながら、息苦しさを覚えもしなかった。
ここまで来ると人外かその一歩手前と云えた。
けれど海月は平静な心でその事実を受け入れた。自分を含めて人間が怖い海月は、人間でなくなるのはむしろ歓迎だったからだ。平静であるのは、その能力の他は人間そのもののままだからだ。いっそ姿形も変わってしまえばよかったのに。
なんにしても能力が総合的に上がっているのは都合がいい。
しばらくはこの能力の限界を測ることから始めよう。
けれど、その前に。
「腹減った……」
ひとまず人間がいないと安心したせいか、盛大に腹の音が上がった。
何を措いても飲み水の確保が優先だった。
この身体がどれだけ飲まず食わずでいられるのかという方向での限界を測る気はない。
人間が怖い海月が、誰も住まない無人島などでサバイバル生活することに過去憧れを抱かなかったはずがなく、もちろん食べ物と飲み物のどちらを優先すべきかを心得ていたのだ。
その意味、水分を含むであろう果物が絶対に手に入らない洞窟というのは痛い。
洞窟を少し行けば、苔の密集地を見つけた。非常食は確保できたということだ。
食える種類かどうかまでは判断できなかったが、人間以外に対する恐怖が麻痺しがちな海月は一つまみだけ食っておいた。
仮に毒があったとしても、蓄積系でなければ少しずつ食べることで耐性ができるかもしれない。非常になって大量に食べて致死量に達してしまうよりは、今から耐性を作って食べられる量を増やしておこうという判断だった。どこまで効果があるかはわからないが、最悪でも死ぬだけだし、食えなければどの道死ぬのである。
海月の目的は人間に出会わずに暮らして行くことなのであって、普通の遭難者と違って助けが来ることを望んでいない。助けが来るまで生き延びることが目的の遭難者とは、危機判断基準が違うのだった。
緩慢な自殺かもしれなくとも、海月はこの苔を毎日摘むことを自分の習慣にすることを決定した。
だからやっぱり問題は飲み水だ。
あるかどうかわからない苔の毒と違い、そこらの水溜りの水を飲めば腹下し以上の症状に見舞われることが明らかだ。
あるいはこの生まれ変わった身体ならば平気かもしれないが、避けられるリスクは避ける。この辺りの基準は遭難生活者と同じだ。
それに、この洞窟が島の地下に当たるのであれば、必ず水が染み出してきているはずだ。
あまり心配はしていなかった。
そして探索したところ、天井が氷柱のようになっている広場を見つけた。つまりこの洞窟はやっぱり鍾乳洞であったらしい。地面――床は川のようになっていて、水は豊富だ。
地上から染み出した水だから、ろ過されていて、ある程度は澄んだ水だろう。
必ずしも安全ではないだろうが、苔と同じ基準で海月は少量だけ飲むことを選択する。
一応川の水ではなく、鍾乳が垂らした水でできた窪みに溜まっていた水を選んだ。
飲んだところ、結構な硬水だが、変な味とまでは感じない。最悪の場合は蒸留することも考えていたが、これならば一度に大量に摂らなければ体調を崩すことはないだろう。
当座を凌げることがわかったので、後はここからどうやって生活内容を拡充していくかというところに海月の思考は向かった。
水と食べ物があるなら次は火だ。火があれば大抵のリスクは減らせる。さすがに輪郭しか見えない今の状態では、洞窟の探索も捗らない。食べ物関係以外にも、光源として利用したい。
けれどこれが洞窟で生活するには一番の問題だった。
燃焼材となりそうなものが見当たらない。
地上の密林なら薪になりそうなものはいくらでもあるだろうが、少なくともぱっと見では見つからないし、仮にあるとしても地下水に濡れてしまっているだろう。乾かしてから摩擦で火を熾すにしても、乾かす手間のせいで定期的に火を使うことはできないということになってしまう。
先々のことを考えると、結局この洞窟でしばらく生活するというのは不可能という結論だった。探索も間々ならないのではこれが限度だ。
それに、おそらくこの洞窟は地上のどこかと繋がっている。風が動いているからだ。
仮に地上に人間がいるとしたら、その人間がなんらかのきっかけでここに訪れないとも限らない。
この洞窟に引きこもっていたら独りきりの生活が保証されるわけではないのだ。
その結論を得たところで海月は海と繋がる海水溜まりへと戻った。
空腹は癒されなかったが、最低限の水分は摂れた。装備も皆無の孤立無援のこの状態からすると十分な成果と云える。
ここは非常時におけるセーフポイントにすればいい。最低中の最低限だが、逃げ込める隠れ家があるというのは、海月にとっては心の平穏を保つための材料として十分だった。この無人島に流れ着く前、あるいは前世には、そんな場所はどこにもなかったのだから。
砂浜に何者かがいたのだから、今すぐに外に出て行くという手はない。
海月はここで時間を潰すついでに眠ることにした。
人間の影も見当たらない空間。
寝心地は望むべくもないが、海月の心はかつてないほど穏やかだ。
空腹が苛むが、程なくして海月は眠りに落ちた。