プロローグ ~ゴミのようなゴミが降る昼~
何が切っ掛けかと問われると返答に困る。
ただ生きることが辛い。息をするのが苦しい。
いつからかは知らないけれど、社会の中にいることが常に息苦しくて、平たく言えば人間が怖かった。
人間が怖いから、阿孔海月はいつだって失敗してきた。
これでも海月は努力はしてきたのだ。
こんなにも人間が怖いのは、自信がないからだと思った。だから自分だけでできる努力はしてきた。
その結果、学校のテストの点数は平均点を下回ったことはないし、体力測定などの個別の数値もやっぱり平均を下回ったことはない。
時には天才だとか言われたこともあるくらい。
けれどやっぱり人間が怖かった。
自信がないからだというのは間違っていないと思う。
けれど自信を得るためには、単なる数値を獲得しただけではダメだったのだ。自分が優れているという実感はどうしても得られなかった。況してや『人間』よりも優れているなどとは、どうしたって。
それは成功体験を得るどころか、海月にとっての失敗体験に違いなかった。
なまじ努力に応えられる身体だったことが災いしていた。人間である己が努力したならこうなれるということは、他の人間もまた同じか、それ以上になることができるということだ。つまり人間の枠の中でどれだけ努力したところで、社会の中で自信を持てる理由にはならないし、人間を怖がらなくてもいいということにはならない。
海月は自分が人間であることが怖かったのだ。
その失敗体験を積み重ねることで、海月は齢十八を数える頃にはすっかり自分の人生に絶望していた。何をしても失敗するのだという諦観を、自分にも掘り出せないほど深いところに根付かせてしまっていた。
現実から逃げてオタク化するということもできなかった。
なぜなら二次元創作物というのは、創作者という人間がいる。
どれだけデフォルメされて、どれだけ都合良くできたキャラクターであっても、それを創ったのは人間だ。
人間の影が見えるだけで恐怖を感じて、楽しむことなんてできなかった。
無駄に知識を蓄えたせいで、その『人間の影』というものを強く認識できるようになってしまった。
そのせいで、幼い頃にはなんとか取れていたテストの点数も、ガタ落ち。体力測定の結果も、それを他人が何かの参考にするかもしれないと想像するだけで本気を出すことができなくなった。
我が事ながら凄まじい被害妄想だと海月は落ち込む。
一体なぜ、こんなにも人間が怖いのだろう。つくづく疑問だった。物心付いた時にはもう海月は、自分を含む人間が怖かった。
人間が怖いせいで誰とも相談できない。
匿名掲示板だろうとなんだろうと、そこにはむしろ剥き出しの人間がいる。恐ろしくて辛くて息が苦しい。近寄ることもできない。
ありったけの勇気を振り絞ってどうにか中学受験には成功し、中高一貫だったのでなんとか高卒には成れたが、大学受験は当然のように失敗した。
大学受験の試験場に渦巻く人間の熱気に中られて、気絶しなかったことが奇跡だとすら海月は思う。そもそも試験場に辿り着けたこと自体が奇跡とも。
因みに、家族は海月がこれほどの人間恐怖症を患っていることを知らない。
ちょっとシャイなだけだと思っている。
無駄に頭が回る海月は、もしも弱みを見せてしまうと攻撃を受けるという被害妄想も当然に抱いていたからだ。
家族にはほんの些少、マシだったが、それでもせいぜい強がることが出来る程度。というかここまで酷いということを覚られてしまうと、たとえばカウンセリングなどを受けさせられるかもしれない。だから強がるしかなかったのだ。人間恐怖症の海月にとって、心理を扱う識者など、恐怖の代名詞以外の何物でもなかった。
けれどその強がりがダメだったのだろう。
大学受験に失敗して今にも死にそうな海月に叔父が提案してきたのだ。
この叔父と海月の間に血の繋がりはない。
親戚という肩書きだけがある、他人である。
しかも海月が知る中で最もバランスが取れた有能な人間だった。社会的地位がしっかりしていて、活動的であり社交的でもあった。
優秀であればあるほど海月にとっては怖い。
だから海月はこの叔父が大変苦手というか、もう近寄るだけで自分が何をしているのか見失うほどに錯乱する。
傍目には海月が錯乱していることがわからないというところがタチの悪いところだ。
成立していない会話が話としては成り立ってしまうのだ。もちろん海月の本心がそこに反映されることはない。
だから海月はどうして自分が叔父の提案に乗ったことになっていて、そして海路で外国なんぞに向かっているのか、とんと見当が付かなかった。
海月は当然のように押しに弱い。だから叔父に威圧――もちろん叔父にそんなつもりはない――されて、提案を蹴ることなどできるはずがない。つまりそこに疑問はないのだ。
強いて疑問を言うならば、なぜ叔父は外国に――第三諸国に渡ることを提案したのかということだが、そこは断片的に覚えていた。
叔父によると、第三諸国は日本と違ってエネルギッシュであり、生きる希望とか哲学めいたことに囚われている海月にカルチャーショックを与えるに違いないというのである。生きることに必死な人々は「なぜ生きるのか」などと七面倒くさいことは考えない。考えてもそれを贅沢なことだとして脇に措く割り切りがある。
要は意識を変革してこいと。
的外れであった。
海月は生きる理由を見失っていたのではないのだから。
確かに考えてみれば生きる目的も理由もなかったが、言われなければそれがないことにも気付かなかった。
つまり叔父の言う第三諸国の人々と同じである。
人間に対する恐怖を、日々生活に追われる恐怖に置き換えればそっくりそのままだ。
無意味といえば、この渡航こそが無意味であった。
これを自覚したとき、海月は呆然を通り越して笑いがこみ上げてきた。
なぜ船旅なのかということはもうこの際どうでもよくなった。
ちゃんとした船旅をしようと思えばこの時代、航空機を用いるよりも金が掛かる。
客船による長距離の船旅とは贅沢なものなのだ。
自然と、死のうと思った。
無意味を自覚して、生きる理由がないことにも気付いてしまった。
この先もこの人間恐怖症を克服できないのであれば、生きることが辛いだけで、何もいいことはない。
海月にとって人間は――人間が作った社会の中で生きることは、死ぬよりも怖いことだった。
それに、気付いてしまった。
溺死は数ある死に方の中で最も辛いという話をどこかで小耳に挟んだことがある。
息苦しく生きてきた自分には相応しい死に方だと思った。それは海月にとってこれまでの延長でしかない。
どうにかして落水してしまおう。
客船ではそれも難しいが、なんとかしようと、ヒトを避けながら散策する。
独りになれそうな場所には大抵先客がいた。
考えることは誰でも同じ。
共感したわけではないが、むしろその同じであるということに胸を締め付けられた。
そんな時にふと、空に違和感を覚えて見上げる。
それは――知覚できるほどの大きさでもなければ、気付いたところでどうにかできることでもなかった。
破裂音がして、高波が生じる。
耳がやられてむしろそれは酷く静かに感じられた。
立っていられないほどの揺れが生じる。
多分沢山の悲鳴が轟いた。
壁のような海が目の前に迫ってきていた。
海月は呆然とした。
波に跳ね上げられた。
死ぬのだと直観した。
死のうと思っていた。
海月は思わず泣いた。
死のうと思った途端に何物か――あるいは偶然に過ぎなくても、それが叶えられるなんて、なんて残酷なんだろう。
優しさは残酷だ。
海月はあまりにもタイミングが良すぎるこの災害に、人為を感じた。
妄想だと自覚はしている。
けれど人間から逃れるために死のうとしたのに、これではあまりにもあんまりではないか。
思考は支離滅裂。
論理を見失った理性はただただ酷いと思っていた。
最期くらい、『人間』から逃がしてくれてもよかったのに――
誰にともない怨嗟を絶叫として叫びながら、海月は海の藻屑となった。