老人ホームでハーレムを
人は誰しも歳を取る。あれほど遅くゆるやかに感じた時の流れは、年齢を重ねるごとに速くなり、まるで手のひらで溶ける雪の結晶のように、いつの間にか消え去ってしまう。
昔は周りからハーレムだなんだと持て囃され、まるでエロゲの主人公のようだと言われたこともあった。自分自身でもそういった意識があったに違いないと今更ながらに想う。俺の人生でたった1つ後悔することがあるのならば、全年齢対象版、現代が舞台のギャルゲーでバッドエンドや個別エンドでなく、ハーレムエンドを選んでしまったことに他ならない。
全年齢対象のギャルゲーでハーレムエンドを選ぶということがどんなことか。もし興味があるのなら、今の俺の生活を見て欲しい。それを見て何を考え、どういう印象を受けるかは君達の自由だ。
………
……
…
「今日の晩ごはんも美味しいね! お兄ちゃん!」
元気いっぱいのしゃがれ声で話しかけてくるこいつは、安藤理名(84歳)だ。血の繋がらない俺の妹。長い白髪を両脇で結び、ツインテールにしている様はシワだらけの表情も相まって、まるで夜叉のように見えた。
「ああ、そうだな。このさばの味噌煮は特に上手い」
「そうでしょ? お兄ちゃんの好みに合わせて作ったんだ」
嘘をつくな。作ったのはこの老人ホームの調理師だ。……とは言え、既にボケ始めている理名にその認識は難しい。昔のように自分の作った料理だと思い込んでいる。
「今日の晩ごはんも美味しいね! お兄ちゃん!」
理名は飯の時間になると、何度も何度も繰り返しその台詞を言う。ボケているから仕方ないのだが正直少し鬱陶しくも感じる。
「もう理名……、その台詞はさっき言ったでしょ。悠太も困っているじゃない」
落ち着きのあるしゃがれ声。彼女は水野リン(86歳)。理知的なチャームポイントだった眼鏡が老眼鏡に変わり久しい。紫色に染めたストレートヘアーは、ナイロンテープを千切った運動会のときに使うボンボンのような質感になっている。理知的な外見とは裏腹に、その芯は熱く燃えるなエッチな女の子だった。
「ねぇ悠太。今夜、悠太のベッドに行ってもいい……?」
昔はドギマギしてしまったこんな台詞も、数十年過ぎた今では慣れたものだ。
「介護用ベッドは一人用だ」
「あー! またリンちゃんが抜け駆けしようとしてる!!」
「なによ桜、ちょっとくらいいいじゃない」
けたたましいしゃがれ声で割り込んできたのは、俺の幼馴染みである東雲桜(86歳)。この中でも特に長い付き合いだ。ここまで来たら生まれてから死ぬまで文字通り一緒である。
「悠太ちゃんもちゃんと断るなりしないと……へっ、へっ、へくちんっ!」
可愛らしいくしゃみと共に、桜の口から飛んできた入れ歯と痰が俺のさばの味噌煮にジャストインした。味噌が俺の頬にかかる。……そう、こいつは昔からドジっ子だったんだ。
「ほめんゆうふぁふぁんいれふぁふぁいっふぁっふぁ」
「もう桜……、口の中に入れ歯はめてから喋りなさい」
「今日の晩ごはんも美味しいね! お兄ちゃん!」
これがもう70年も続いている俺達の騒がしい夕食だ。
■
ある日の深夜のことである。一人寝ていると、ヒタ……ヒタ……ヒタ……、と廊下から足音が聞こえてきた。介護士さんの足音ならばパタパタという聞き慣れた音だからすぐにわかる。だが、この足音はなんだろうか。
幽霊か、はたまた死神か。年を取ると幽霊だろうが死神だろうが不可思議に対しても寛容になる。何事にも驚かなくなるといってもいい。何がきても『――ああ、そうか』と思うだけだ。
……ヒタ……ヒタ。
足音は俺の病室の前で止まった。ゆっくりと、緩慢な動作で首を部屋の入り口へと目線を向ける。
「……お兄ちゃん」
「ひぃっ!」
年を取ると何事にも驚かなくなると言ったな。あれは嘘だ。ツインテールの夜叉が顔だけこちらに覗かせているのはさすがに少し驚いてしまった。正直に言おう。失禁した。
「……お兄ちゃん」
「ど、どうした理名……」
股関に止めどなく感じる暖かなぬくもりをよそに、部屋の入り口に手を掛け、ジーっとこちらを見てくる理名(84歳)に問いかけた。
「理名ね……、おしっこ漏れちゃったの……」
「お、おう。介護士さんには言ったのか?」
「ううん……」
俺はため息をつき、理名に言う。
「オムツ取り替えてあげるからおいで」
「……うん!」
喜びの表情を浮かべた理名がタタタッ、とこちらに走り寄ってくる。その表情はまるで日本昔話に出てくる人喰い婆のようだった。
「ほら、俺の肩に手をかけて。足をあげて」
「うん、でもお兄ちゃん恥ずかしいよぉ……」
蒸れたオムツを脱がそうとすると、少女のように恥じらう理名(84歳)。
オムツを替えて、理名を自分の部屋に送った。さて、自分のオムツも替えるか。
■
ある日の昼間のことである。今日は週に一度の入浴の日だ。介助してもらう介護士さんと共にお風呂へと向かった。基本的に俺達老人が入浴する際は、衣服の着替えを介助するスタッフと、入浴で身体を洗ってもらうスタッフがそれぞれいる。男女別の浴槽ではなく、午前中は女性、午後からは男性という風に別れていた。
介護士さんが脱衣所のドアを開けた瞬間のことである。目の前に水野リンの全裸が飛び込んできた。
「きゃあ! 悠太! な、な、なんで!」
リンは昔から自分から攻めるのは恥ずかしげもなくするくせに、唐突なハプニングやラッキースケベにはものすごく動揺するタイプだった。紫色に染め、薄くなった髪の毛が水分を含みスダレのようになっている。
「いや、なんでもなにも午後からは男の番だっただろ」
「そ、そ、そんなこと言ったって! いつまで見てるのよエッチ!」
そう言って胸と太ももを手で隠すリン(86歳)。だが、沢庵のように垂れ下がった乳は、胸を隠しても乳首が腹の部分にあるので全く隠せていなかった。クネクネと恥ずかしがるリン。棒立ちの俺。そして俺達の会話をききながらドン引きしている介護士さん。
「いいから恥ずかしがってないで早く服を着ろ」
■
ある日の朝のことである。寝ている俺に、覆いかぶさる感触があった。だがまだ眠い。
「おはよう、悠太ちゃん……」
ああ、桜が起こしに来たのか……。およそ80年間、俺は目覚ましというものをかけたことがない。毎朝必ず桜が起こしに来てくれるからである。
「悠太ちゃん朝だよ、起きないの?」
すまん桜、まだ眠いんだ。心のなかで桜に謝罪する。俺がすぐに起きないのには理由があった。
「悠太ちゃん、起きないのならキスしちゃうぞ……」
――その理由は。
「ほんとにしちゃうぞ……、んんっ……ふが」
ビチャリ。
顔に落ちてきた入れ歯の感触で目が覚めた。最悪の目覚めである。むくりと、身体を起こし桜に問いかける。
「おはよう桜。今何時だ?」
慌てて入れ歯をはめる桜。ワタワタとしながらも笑顔で時間を教えてくれた。
「お、おはよう悠太ちゃん! 今はね……えっと、4時02分だよ!」
くそっ、やっぱりか! 年寄りは朝が早すぎる!
■
疲れた……。今日はなぜだかいつも以上に疲労が溜まる。
深夜、皆が寝静まった頃に自分の寝床に着き、そんな騒がしい日々を思い出していた。よく俺達は飽きもせずにそんなことをやっているなと自分でも思う。長い人生、もちろん大喧嘩も何度もした。だがそれ以上に満たされた日々であることは間違いない。そうだ、俺は幸せだった。もし後悔があるとするならばたった一つ。
……ヒタ……ヒタ。
また足音が聞こえる。理名だろうか。今度は失禁しないようにしなきゃな……。部屋の入り口を見る。
……ヒタ……ヒタ。
足音が止まった。
『理名か? またお漏らしでもしたのか?』
問いかけようとしたはずだった。だが、俺の口から出てくるのはヒューヒューという音だけ。
「やぁ、安藤悠太くんだね」
足音の正体は、大鎌を担いだ小さな少女だった。コスプレのような服装に裾を引き摺るほどの大きなマント。
「この格好を見てもらえばわかると思うけど……。そうだよ、あたしは死神。あなたを迎えにきたの」
特に驚きはしなかった。幽霊だろうが死神だろうが、年を取ると不可思議に対しても寛容になる。
「どうだい? いい人生だった?」
死神と名乗った少女は、まるで聖母のような笑みで問いかけてきた。
『美味しいでしょお兄ちゃん! 今日の晩ごはんは自信作なんだよ!』
『ふぁふぁんんか! ゆうふぁふぁん!』
『もう桜……、口の中に食べ物入れたまま喋らないの』
ふとあの頃の青春時代を思い出す。いつもニコニコしていた理名、たまにちょっかいをかけてくるものの皆のフォローが上手かったリン。おっちょこちょいだがいつも俺を気にしている桜。あの頃の光景が、――少しだけ、ほんの少しだけ甦った。
ああ、そうだ。1つだけ後悔することがあるんだ。もしも俺達の舞台がファンタジーなのなら……、もしも俺達の種族が人間ではなかったのなら……。もっとずっと長く、こんな面白おかしく暮らせていけたのだろうか。
いや、日本が舞台だったからこそ。皆で年寄りになるまで暮らしていけたのだろう。
…
……
………
意識が霞がかる中。俺はしゃがれた声で死神に言った。
「ああ、最高の人生だったよ」