最初の最初
ほぼほぼ完成しております。400字詰めで100枚前後になると思います。
1
あれは僕が五歳の夏の時のことだ。両親の仕事の都合で住んでいたところを離れ、遠くへ引っ越すことになった。
その頃の僕は、引っ越しという意味がわかっていなかった。お盆に祖母の家に帰省するのと同じような感覚だったはずだ。
仲のよかった友人に、特にこれといった別れの挨拶をすることもなく、帰ってきたらまた遊ぼうとかてきとうなことを言っていた気がする。
もちろんその後、その友人に会うことはなかった。今では名前すら覚えていないし、顔すらも覚えていない。でも向こうも僕の事を覚えていないと思う。幼い頃の記憶というやつは、よほど印象深くないと簡単に忘れてしまうらしい。
引っ越しをしてから一週間ほどして、初めて自分が違う場所に住む事になってしまったことに気がついた僕は、えらくその事実におびえていた。
僕が元々住んでいた場所は、いわゆる都会というやつで、どこを見ても必ずビルなどといった人工的な建物があり、木や草などは、人工的に植えられたものなどしか存在していなかった。
そんな場所から急に、見渡す限り田んぼや森、多少の民家しかないような場所に住まなくてはいけなくなったのだから、おびえるのは仕方がない……と、僕は思う。
夜になれば、周りからはフクロウや鹿などの鳴き声が聞こえてくるのだから、都会育ちの子供にとっては恐怖の対象以外、何者でもない。しかもその頃、ホラーな絵本にはまっていたせいもあり、幾度となくトイレに行くのを挫折して、そのまま布団の中で事を済ましていた。つまり連日連夜、僕の作り上げた世界地図が布団に刻まれていったわけだ。全部、動物の鳴き声と、幽霊の仕業のせいに違いない……と僕は思う。
しかし僕だって男な訳で、おびえているだけではいけないと思い、ある日、近所が安心場所だと確かめる為に、探索することを決めた。
……というのはいいわけで、たまたま読んでた絵本に幽霊の退治の仕方というものが載っていて、それを実行するためになけなしの勇気を振り絞ったというわけだったりする。
さすがに太陽の光があたりを照らしている時間におびえることはなく、僕の無邪気で馬鹿な探索は割と順調に進んだ。
しばらく探索を続けていると、目の前にある山の麓に、なにやらえらく長い石の階段を見つけた。山の頂上に向かっているその階段は、僕の好奇心をすこぶる刺激し、幽霊退治のための活動をしていた考えなんて、好奇心に負けてどこかへと消えていった。
もちろん僕は、すぐさまその階段を登り始めた。最初は調子よく登っていたものの、途中で体力的につらくなり、何度も休憩をとった。
登り初めて十分ほど経った頃に、ようやく階段の終わりが近づいてきた。その瞬間に僕の疲れは一瞬にしてどこかへ消え、猛ダッシュで階段を登りきった。
まず目についたのは、今まで僕の人生で見たこともないくらい大きな木だった。風に揺られて葉がこすれている音が妙に心地よく、その音を聞いていいるだけで、なぜだかすごく優しい気持ちになることが出来た。
「だれ?」
突然の出来事だった。木の方から声が聞こえた。あたりを見回しても誰もいない。木の周りをぐるぐると回ってみても誰もいなかった。
すると今度はくすくすと小さな笑い声が聞こえる。そのとき僕の脳裏をよぎった言葉は“幽霊”であり、即座に逃げだそうとしたが腰が抜けてしまい、その場で得体のしれない声の主に泣きながら謝る事しかできなかった。
「なんで泣いてるの?」
またもや木の方から声が聞こえた。もちろんあなたのせいで泣いているとは恐ろしくて言えるはずもなく、僕の泣き声はさらにヒートアップしていく一方だった。
「大丈夫? ちょっと待っててね! すぐそっちに行くから!」
その瞬間、僕は死を覚悟した。ここは幽霊の住む場所であり、そこに好奇心というくだらない理由で進入した僕を、幽霊が殺しに来るのだと思ったからだ。
死にたくない一心から、神様やら仏様やら、自分の知る限りの偉い方々にお祈りをした。何度も助けてと泣き叫びながら。
すると目の前に、自分と同い年くらいと思われる少女が現れ「大丈夫? どこか痛いところがあるの?」と声をかけてきた。
「幽霊が、幽霊が……」
僕を殺しに来る、と言いたかったけど、自分に声をかけている少女が幽霊の声に似ていることに気がつき、言葉がそこでとぎれた。
「幽霊? 幽霊が昼間から出るわけないよ。君、おかしなことを言うねぇ。それに私、木の上からこのあたりを見てたけど、幽霊なんて、どこにもいなかったよ?」
「木の……上?」
「うん。あそこから見てた」
そう言って少女は木を見上げると、自分が登っていたであろう場所を指さしてみせた。僕がつられるようにしてその場所を見てみると、子供が軽く二、三人はのれるんじゃないかと思えるほど大きな木の枝があった。
少女の言動により、僕は幽霊の正体を理解した。木の上から自分に声をかけてきた少女を勝手に幽霊と勘違いし、一人おびえていたという、何とも情けない勘違いだったわけだ。
「ほら、立って。そんなところに座ってるとズボン汚れちゃうよ?」
少女はそう言うと、そっと僕に手を差し伸べてくれた。僕はその手を掴み、ゆっくりと立ち上がったあと、とりあえずお礼を言っておいた。
「君、最近このあたりに引っ越して来た子だよね? 名前なんていうの? 君じゃちょっと呼びにくいんだけど……」
「裕貴、山下裕貴……」
僕が名前を答えると、少女はしばらく何かを考えていた。その様子をしばらく見ていると、突然、何かを思い出したかのように少女は言ったんだ。
「ゆーくん! 君のこと、今日からゆーくんって呼ぶね。私は鈴野美紀。みんな私のことみーちゃんって呼んでるから。よろしくね」
何ともうれしそうに少女、いや、みーちゃんはそう言った。引っ越して初めてできた友達との出会いは、僕の中で忘れられない思い出となった。
その日からというもの、僕は毎日のようにみーちゃんと遊んだ。
驚いたことに、みーちゃんの家は僕の家から歩いて数分の場所にあり、なぜ今日まで彼女と出会わなかったのかが不思議なくらいだった。
実際のところは、両親が近所への挨拶回りに行ったとき僕も同行しており、みーちゃんと顔は合わせていたらしい。が、いかんせん不慣れな環境や、人見知りする性格や、引っ越しをしていたことを知らなかったことなどが重なり、気にも止めていなかったらしい。
それは決して僕に落ち着きが無かったり、近くにいた謎の虫が恐ろしくて、その虫から目が離せなかったとか、そんな事実があったり無かったりする訳ではないはずだ……と僕は思う。
みーちゃんは、僕と同い年にも関わらず妙にしっかりした部分があり、なれない環境にとまどう僕を、それはそれは見事にエスコートしてくれた。
あの大きな木は、”しんぼくさま”というらしく、なんでも地球が誕生したときから生えている木なのだそうだ。しかも、神様が宿っている木なんだと説明してくれた。
そんな大層な伝説と名前のついた木に登るのが大好きだとみーちゃんは教えてくれた。僕も登るように誘われたが、木登りなんかしたこともないし、何よりあんな高い場所に、都会育ちの僕が行けるわけがないと、確信めいた思いがあったので丁重にお断りしておいた。別に落ちるのが怖かったとか、変な虫がいて怖かったとかそんな事は断じてなかったはずだ……と僕は思う。
しかし、嫌がる僕の気持ちとは裏腹に、みーちゃんは、僕をどうしてもしんぼくさまに登らせたいらしく、やれカブト虫が捕まえられるだの、普通の三倍(みーちゃんが言うに)はある大きさのセミがいるだの、何かと僕をしんぼくさまに登らようと必死に説得を試みてきたのだ。
それでも僕が必死に断っていると、急にみーちゃんは無口になってしまった。とうとうあきらめてくれたのかと安心していると、とてもじゃないがみーちゃんの表情はそんな雰囲気ではなかった。
目元には今にもあふれんばかりの涙が溜まっており、必死に下唇を噛んで、泣くのを我慢している。
女の涙は最強の武器だ。あれは本当に困った武器だ。出たら最後、敗北するしかない!
いつかは忘れたが、母さんと夫婦喧嘩が終わった後、父さんが自分にそう言ったはずだ。それを体感し、まさに言葉通りだと納得する。もちろんその武器の使用を止める方法も知っている。そう、敗北するしかないのだ。
「わかった! 登る。木に登るから!」
僕がそう言った瞬間、みーちゃんはとたんに笑顔になり、目元に溜まった涙をぬぐった。嘘泣きをしていたんじゃないかと思うくらいあっさりと笑顔になったみーちゃんが、心なしか悪魔に見えた。
とうとう勇気を振り絞り、木に登らなくてはいけない。変な虫が出てきたらどうしようとか、落ちたらどうしようとかいう恐怖は相変わらず消えないままだったけど、やると言ってしまった以上やるしかないわけである。
まず最初にどのあたりに手をかければいいのか教えてもらい、それに従う。するとどうだろう。不思議なことに楽々と登れてしまうのだ。
木登りというやつは思いのほか簡単だった。僕のような子供でもしっかりと登ることが出来たのだ。よくよく考えれば、同い年のみーちゃんも楽々と登っているのだから当然と言えば当然である。
結果。みーちゃんがお気に入りだという木の幹までたどり着くことが出来た。
「すぐに行くからちょっと待っててね!」
そう言うと、みーちゃんは軽々と僕の元へとやってきた。僕が登るのにかかった時間よりもずっと早く。
みーちゃんは僕の横に座ると「早いでしょ?」と得意げに笑って言ってみせた。
「ほら、ここからだと町がぜーんぶ見わたせるの! すっごくきれいでしょ?」
確かにみーちゃんの言う通り、すごくきれいだ。が、いかんせん少し殺風景な気がしないでもない。でも、横でうれしそうにその景色を見ているみーちゃんを見ると、うれしくなってしまい、ついつい僕も笑顔になってしまっているのが分かった。
「あしたのあしたのあしたのずーとあしたに“なつまつり”があるの! その時はもっときれいなはずだよ。夜になると町中がいろんな光でぴかぴかーってなるの! それをここから見たら絶対きれいだよ!」
「そうなんだ」
「うん! だから、なつまつりの時、一緒にここで見ようね。約束だよ?」
「わかった。約束する」
するとみーちゃんは、またうれしそうに笑って足をぶらぶらさせていた。だから僕もまねするように足をぶらつかせたんだ。
その後、木というやつは登るよりも降りる方が難しくて、相当な恐怖と戦い、泣き叫びながら降りたとか、みーちゃんに男の子なんだからがんばりなさいと説教されたりだとか、そんな事があったり無かったりしたような気がする。決してその恥ずかしい記憶を忘れたいから覚えていないふりをしているとか、そんなことはないはずだ……と僕は思う。
あその日から毎日のように木登り……いや、木降りの練習をやらされた僕は、軽々と木を降りることが出来るようになった。
慣れというやつは恐ろしいもので、初めて木に登ったとき、いったい何が怖くて降りることが出来なかったのかが全くわからないくらいだった。
そんなある日のことだった。いつもの用にしんぼくさまの辺りでみーちゃんと遊んでいたときだ。
突然みーちゃんが、持っていた小さなポシェットから、なにやらドライバーらしき物を取り出したのだ。もちろん付近にはドライバーを必要とするような物は無く、一体なんの為にそれを持ってきたのだろうかと不思議に思っていた。
すると、突然みーちゃんが、しんぼくさまの表面をそのドライバーでガリガリと削り始めたのだ。あまりにも突然起きたみーちゃんの暴動に、僕は思わずみーちゃんの体を掴んでその行為をやめさせようとしたんだ。
「なにするのよ!」
「それは僕のセリフだよ! しんぼくさまはとても偉い木なんでしょ? だから傷なんてつけたらしんぼくさまがおこってバチがあたっちゃうよ!」
僕の言葉にみーちゃんはただキョトンとしているだけだった。しばらくすると、みーちゃんはクスクスと笑い出して言った。
「偉い木だからするのよ! しんぼくさまにお願いするの!」
僕の制止もむなしく、みーちゃんは再度ドライバーでしんぼくさまをガリガリと削り始めた。こうなったらもう絶対に止めることが出来ない。みーちゃんとの付き合いはそれほど長くはなかったけど、何か言い出したら周りの意見なんて聞かなくなることくらいはわかっていた。
だから僕は、ただただしんぼくさまにみーちゃんを怒らないでください。と願うことくらいしか出来なかったんだ。たぶんみーちゃんに悪気はありません。痛いかもしれませんが許してあげてくださいって。
「よし! 出来た」
そう言うと、みーちゃんは腕組みをして満足げな笑顔を浮かべていた。
みーちゃんの見つめる先を見ると、なにやら 三角に棒を突き刺したような傘らしき絵と文字が彫られている。
「みーちゃん……これはなに?」
「これはね“あいあいがさ”っていうの! 傘の棒の隣同士に好きな人の名前と自分の名前を書くと、ずーっと一緒にいられるんだって! だからしんぼくさまにお願いしたの!」
みーちゃんの言葉通り、傘の棒の左にはゆーくん、右にはみーちゃんと彫ってある。
「これでずっと一緒だね」
みーちゃんはそう言うと、うれしそうに微笑んだ。その時僕は、説明のしようがない感情になったことを覚えている。胸の辺りがモヤモヤする感じだ。不思議と心臓がドキドキとしていたはずだ。
今になって思えば、きっと恋をしたのだと思う。みーちゃんの笑顔と言葉で僕はオチてしまったのだ。幼くても恋心は芽生えるんだと思うと、なぜか面白い。
みーちゃんの言葉に僕は小さくうなずいて応えたはずだ。
もちろん、これからもずっとみーちゃんと一緒にいられると思っていた。何の疑いも持たなかった。
なつまつりが一週間後に迫っていた。
僕は相も変わらずみーちゃんと一緒に遊んでいた。虫を捕まえたり、しんぼくさまに登ったり。やっていることは毎日同じだったけど、とても楽しかった。
「あしたからね、おばあちゃんの家に行くの」
しんぼくさまの木の枝で、座りながら町を見下ろしているときに、みーちゃんが言った。
「そうなんだ。いつ帰ってくるの?」
僕が訊くと、みーちゃんは左手の指を広げて、親指から順番に指を折り曲げ始めた。たぶん日付を数えていたのだと思う。
少しの間を置いてから、みーちゃんは「あしたのあしたのあしたのあしたに帰ってくるよ」と笑いながら言った。
そんなにみーちゃんと遊べない日が続くのかと思うと、僕はとても憂鬱な気分になった。「ゆーくんは私がいないと寂しい?」
「うん、凄く寂しい」
直後、優しい風が吹いた。まるでしんぼくさまが僕を元気づけてくれているんじゃないか。そんな風にさえ思えるほど優しい風だった。
その風で木の葉がこすれる音が流れる。
「そっか……じゃあ寂しくないおまじないしてあげる。目つぶってて」
僕は言われるがままに目を閉じた。数秒の間をおいて唇に柔らかい感触が伝わる。思わず目を開けると目の前にはみーちゃんの顔があった。数秒ほどしてからみーちゃんの顔が遠ざかる。
「私の“ふぁーすときす”だよ。これで寂しくないよね!」
どこか恥ずかしげにみーちゃんはそう言った。僕はあまりに突然の出来事に呆然とするしかなかった。
「じゃあ私もう行かなくちゃ。じゃあ、あしたのあしたのあしたのあしたね」
そう言うと、みーちゃんはいそいそと木を降りて、家に帰ってしまった。
僕はというと、日が暮れるまで木の上で延々とみーちゃんとの事を思い出していた。その時、ニヤニヤしていたり、鼻の下を伸ばしていたりとか、そんな事はなかったはずだ……と僕は思う。
みーちゃんが帰ってくるまでの四日間、僕はとてもとても暇で仕方なかった。
よくよく考えてみれば、僕にはみーちゃん以外の友達がいない。ただでさえ子供が少ない田舎で、新しい友達なんてそう簡単に見つかるはずもなく、僕は永遠と思えるような長い時間を過ごしていた。
しんぼくさまに彫ってあるあいあいがざを延々と眺めたり、しんぼくさまに登って、夏祭りにみーちゃんと見る予定の景色を想像したりして遊んでいた。
みーちゃんがいなくなって三日目の時だった
いつものようにしんぼくさまで遊んでから家に帰ると、リビングで母さんが泣いていた。
普段、母さんの泣いた顔など見たことがなかった僕はかなりの衝撃を受けた。すぐに母さんの元に駆け寄り言葉をかける。
「どうしたの? どこか痛いの?」
母さんは首を横に振ると、僕を抱きしめた。そして声を震わせながら言う。
「鈴野さんが……みーちゃんの家族が事故に逢ったって。みんな亡くなったって……みんな死んじゃったって……」
そこで母さんの言葉はとぎれた。死ぬという言葉の意味は幼いながらに分かっていた。それはとても悲しいことだということ。みーちゃんに逢えなくなってしまうということ。
母さんの言葉を理解した途端、僕は声を上げて泣いた。嫌だ、嘘だ、みーちゃんは帰ってくると約束したんだ、ずっといっしょだって言ったんだ。
ずっとそんなことを言いながら泣いていたはずだ。みーちゃん一家のお通夜や葬式の日も、それが終わったともずっと。ずっと……
みーちゃんが死んでから数日が過ぎていた。
僕は何もやる気が起きず、ただ意味もなく空を眺めたり、テレビに映った映像を眺めたりしていた。時折、みーちゃんがいない現実を思い出して泣いたりしていた。
そんなときだ。僕を元気づけよとしたんだと思う。母さんが言った。
「そうだ。今日はお祭りがあるらしいわよ。裕貴、お母さんと一緒にお祭りに行こう」 その質問に僕は何も答えなかった。本当はみーちゃんと行く約束をしていたはずなのにと思うと、また悲しくなって、胸が痛くなった。
「さあ立って、今日はなんでも買ってあげるから。かき氷も、たこ焼きも、イカ焼きも食べたいだけ食べて良いわよ」
そう言うと、母さんは僕の腕を掴んで無理矢理引っ張り起こし、頭を撫でた。
お祭りに行くと、みーちゃんの事を思い出してより悲しくなってしまいそうだったけど、母さんに心配をかけるのも嫌だった。僕が行かないと言えば、きっと母さんはすごく悲しい気持ちになるんだと分かった。そう思わずにはいられないほど、母さんは不安そうな顔をしていたんだ。
僕は小さくうなずいてから、目元をぬぐった。少しでも気を抜くと簡単に涙があふれてくる。せっかくお祭りに行くのに、泣きながら行っても母さんがもっと心配するだけだ。だからもう泣くのは止めよう。そう心の中で誓ったんだ。
母さんに手を引かれながら歩いていた。祭りの雰囲気はとても明るくて、不安なこと、嫌なこと、悲しいこと、そういった事を全部忘れさせてくれそうだった。
空はすっかりと暗くなっていたけど、屋台を照らす提灯の光や、道を照らす外灯のおかげで昼のように明るい。周りのみんなはとても楽しそうだ。
母さんが目に付く食べ物を片っ端から購入して僕に渡してくるため、僕の手は食べ物でいっぱいだった。どれから食べようか考えたり、落とさないように気を遣ったり、そういったことに必死なおかげで、悲しいことを思い出さずにすんだ。
近くのベンチに座り、買ってもらった物を食べていると、母さんが訊いてきた。
「祐貴、この近くにある大きな木があるの知ってる?」
「大きな木? しんぼくさまのこと?」
「そうよ。よく知ってるわね。今日のお祭りは、その神木様のためのお祭りなんだって。今から見に行ってみる?」
みーちゃんと約束した場所だ。あそこで一緒にキレイに輝く町を見下ろそう。そう約束した場所だ。思い出してちょっと悲しくなる。
「……うん、行く」
あの場所に行けば何かが変わるような気がした。いつまでもウジウジしていても仕方ないと思った。そして何よりも、みーちゃんが見たかったという場所をちゃんと見ておきたかった。
「母さん、早く行こう!」
僕は母さんの手を引っ張り、走った。早く、少しでも早くあの場所に行きたい。そんな思いが僕の足を動かす。
みーちゃんとのことを思い出すからあの場所には行っていなかった。でも、あそこは僕とみーちゃんの思い出が一番つまっている場所だ。きっとあそこに行けば、笑っている顔のみーちゃんを思い出せる。みーちゃんを感じることが出来る。そういった大切な思い出がつまった場所だったんだ。こんな気持ちの時だからこそ、行かなければ行けなかったんだ。
十数分ほどかけて、僕達はしんぼくさまの場所にたどり着いた。
しんぼくさまの周りは、綺麗に色づけされた提灯がつるされている。まるでしんぼくさまに虹が架かっているようで、とても綺麗だった。
僕は急いで木に登る。あそこから町を見下ろすために。
「祐貴! 危ないから登ったりしたら駄目よ! 降りなさい」
「大丈夫! いっつも登っているから。心配しないで。大丈夫だから!」
しかし、母さんは降りてきなさいと僕を叱る。普段なら怒った母さんが恐いので、すぐに言うことを聞いていたはずだ。でも今日だけは、今だけは絶対に自分の意志を貫き通さなければいけない。
いつもみーちゃんと一緒に座っていた木の幹にたどり着く。そしてそこから町を見下ろした。
……きれい。凄くきれいだ。祭りのために至る所に吊してある提灯や、外灯が入り交じって、とても幻想的な世界に見えた。とても大きな蛍が町中にいるみたいだった。
「ねっ。私が言ったとおり、とっても綺麗でしょ?」
聞き覚えのある声。ありえないはずの声。もう二度と聞くことはできないと思っていたはずの声。そう、僕がこの声を聞き間違えたりはしない。
「みーちゃん!?」
声がした方に顔を向ける。僕の隣でみーちゃんが、死んでしまったはずのみーちゃんが、笑顔を向けて木の幹に座っていた。
「ただいま」
静かに風が吹いた。木の葉が揺れる。その音は、まるでみーちゃんが帰ってきたことをしんぼくさまが祝福しているかのようだった。