はじまりは終わりと共に
この作品は空想フィクションであり、事実や現実とは全く関係ありません。
思い出すのは
いつも
同じ
「――っ」
鈍い音と共に、赤銅色の液体が喉を下っていく。
愉しむような味わいなどない。 純度だけを追求したような低級なアルコールがくれるのは、ただの焼けるような熱さと酩酊感だけだ。
でも――
「ワカンネエっすよ。 先輩……」
今、僅かでも彼を救ってくれているのは間違いない。
どうしようもない程に呟いて、そしてまた一気にグラスの中身を煽る。
テーブルの上に置いて、あるいは転がっているビンは既に十を越えていた。 だというのに、彼の手には一向に止まる気配が見られない。
――答えは、まだ見つかっていなかった。
幾ら酒を飲もうとも、どれだけ惰眠を貪ろうとも、決して頭を離れない。
あの時の、あの言葉が……
「分かってるな佐竹、相手はイカレた殺人鬼だ」
「は、はいっ」
ぶれる返事。
憧れの刑事になって半年。 犯人を追い詰めるのは初めてじゃなかったが、こんなに緊張したのは今回が初めてだった。
管轄内で起こった連続殺人。 犯人はたった一人で、二桁の人間の命を奪ったのだと言う。
しかも、相手は一般人ではない。
「まさか素人に麻薬組織が潰されるとはな。 世も末だぜ全く」
今や世界中で蔓延してる違法ドラッグ。 その売買を手掛ける違法団体を、犯人は根こそぎ殺して回ったのだ
「でも、なんでただのサラリーマンにそんな真似が……ほんと、ナニモンなんすかね?」
「さぁな。 ま、捕まえて見たらわかんだろ」
目をクイッと上げながら、先輩刑事の中岸が銃を構えた。
「お前は表、俺は裏から行く」
ぽっかりと口を開けた廃工場が、まるで何か、獲物を迎えいれる生き物のような不気味な印象を二人に植え付ける。
ふと、下を見れば。 佐竹はいつの間にか、自分の脚が震えている事に気付いた。
「あ、あの先輩。 やっぱ応援来るの待った方が……」
「馬鹿、奴がたった一人で麻薬組織を潰したってのを忘れんな。 騒がしくして警戒させちまったら最後だ…………時間を与えずに、前後から二人で即潰す」
『潰す』
中岸の台詞を聞いた途端。 佐竹は知らず、自分の咽が生唾を飲んでいた事を知る。
目の前の同僚は、犯人を『捕らえる』のではなく、犯人を『仕留めよう』と考えているのだと、理解した。
ゾクリ、と。 背筋を薄ら寒い感覚が伝う。
「油断するなよ、佐竹」
それだけ言って、中岸は相棒の返事を待たずに裏口へと走って行ってしまった。
……脚の震えは、まだ止みそうにない。
だが、事態は既に一刻を争う。
嫌な予感をただひたすらに振り払って、佐竹は工場内へと入っていった。
一歩、また一歩と。
足を踏み出す度に、靴底が床を叩く耳障りな音が工場内に響く。
見かけはただの朽ち果てた工場の割に、入ってみれば意外と小部屋が多い。
部屋の入口で銃を構え、踏み込んで左右を確認し、誰も居ないと分かればまた次の部屋へ。
汗の滲む感触の気持ち悪さと足音を掻き消す煩い心音が、じわじわと佐竹を蝕んでいく。
真昼にも関わらず薄暗い場内。 その三つ目の部屋で、
「っ!!」
――それは、居た。
ゆったりと、場違いなソファーなんぞに腰を下ろして。 まるで昔馴染みに挨拶するかのような穏やかな顔で。
「やあ」
にっこりと、佐竹の眉間へと銃のピントを合わせていたのだった。
「じ、銃を捨てろ!!」
「お断りだね」
互いに銃を向け合う形で、即座に佐竹の勧告を切り捨てたこの男こそ、麻薬組織の人間を皆殺しにした張本人。
八神だった。
「あ、諦めろ! もう終わりだ!!」
震える声を無理矢理張り上げる佐竹に対し。 八神は座ったまま空いた手でスーツの胸ポケットからタバコを取り出すと、ゆっくりと口に銜えた。
「終わり? いいや、初めから終わってるよ」
八神の視線が、佐竹を居抜く。 まるで今初めて見られたのではと錯覚するような、強烈な威圧感が一気に佐竹を包んだ。
「な、に?」
思わず吐き気を覚えるような濁った瞳に、ようやくそれだけを搾り出す。
「この街にドラッグをばら撒いてた組織は潰した。 これで当分は、何の罪もない人間が犠牲になることはない」
紫煙を吐き、演技じみた仕種でタバコを持つ手を広げる八神。
「ホラ。 悲劇は、もう終わってるじゃないか」
――感じたのは、怒りだろうか?
「ふ、」
その時佐竹の胸に込み上げた感情は、未だに彼自身、適切な表現が見つからない。
だが、少なくとも――
「ふざけんな!!!!」
決して良い感情ではないのことだけは、間違いない。
「……ふざける? いいや、俺は何一つふざけちゃいないよ」
さっきまで震えていた新米が突然見せた激昂に、八神は意外そうに眉をひそめた。
「君だって感じただろう? 『ざまあみろ』って。 知ってるよ、君がドラッグを憎んでたこと」
確かにそうだった。
佐竹は昔、友人をドラッグで亡くしている。
地元の悪質グループに絡まれた佐竹を助けようとした際に悪戯半分に拉致されて、違法ドラッグの実験台まがいにされたのだ。
結果、オーバードーズと言う薬物の過剰摂取で友人は死んだ。
だから彼は、警察官になったのだ。
もう二度と、無力な自分になりたくはなかったから。
もう二度と、あんなふざけた真似をする人間を逃がしたくなかったから。
「だからって――」
「君も知ってるだろう? ドラッグは、人間の脳を犯す。 一度ドラッグを身体に入れてしまうと、もうまともな人間としては生きられないってこと」
もちろん、知っていた。
解放感、満足感、爽快感。 一時の幸福感をもたらすそれは、普通の人生を歩んで来た者にとって、まるで魔法の薬に感じるかもしれない。
だが、時が過ぎればそれは、途方もない地獄へと変わるのだ。
ドラッグは、使用者の脳に異常な欲求を植え付けるのである。
通常、人間には根源的な欲求があるとされている。
食欲、睡眠欲、性欲と、俗に三大欲求などと呼ばれるもので、人間の欲求の中で最上級とされるものだ。
だが、薬物に染められた脳は、こともあろうにこれらをドラッグより下に位置付ける場合があると言う。
つまり、寝ることよりも、食べることよりも、ドラッグを身体が求めてしまうのだ。 中毒になるのも頷けよう。
そして、一度手を付けてしまったなら。 辞めるには、ともすれば一生食事や睡眠を我慢する以上の苦しみを味わう事になるのだ。
文字通り、死ぬまで続く。
これを地獄と言わず何と言えようか。
「だが、薬物に対する世間の認識は恐ろしく軽い」
まるで佐竹の心情を読み取るようなタイミングで、八神が語る。
「警察官なら、いや、一般人でも知ってるかな。 ドラッグの売人が、逮捕される度にポンポン出て来るなんて話」
どこかで聞いたような、当たり前の事実を語る目の前の男。
「人間の一生を食いつぶす、死ぬより惨たらしい地獄を売りさばく代償は、大抵がたったの数年だ。 場合によっては金、大元に至っては証拠不十分で釈放なんて事態も珍しくない」
彼の目は、佐竹を捉えて放さない。
『お前が今まで逃した犯罪者の数を思い返してみろ』
そう言われた気がした。
口は語る。
「俺が殺した奴の中には、出所して三日で女を拉致して薬漬けにしたクズもいた。 お前ら警察は被害者に何て言うよ? 「更正すると思ったけど駄目でした」とでも吐かすつもりか?」
佐竹の正義を踏み砕き。
「俺は、電話したんだ」
「でん……わ?」
「売人が繋がってる組織、関わってる貿易会社……だが、お前らは何一つ捕まえられなかった」
「そんな……」
「大きな組織ほど、捕まるのは難しい。 だがそんな奴らこそ、すぐにでも殺さないと明日にはばら撒かれたドラッグで大勢の人間の人生を殺すことになる」
あまりに呆気ない、当たり前の事を告げるように。
「だから、殺した。 一人残らず」
八神は言った。
実は八神が連中を殺害した時は、違法薬物の取引中だったらしいことが捜査で明らかになっていた。
ならば、警察はむざむざ犯罪を見逃し、被害者を見殺しにしたのか?
それとも、善意ある若者を犯罪者にした?
奴は人殺しで、人を救ったと?
だが、罪を裁き人を救うのは法ではないのか?
正義とは、何だ?
回る。 憐憫か後悔か、或いは絶望かもしれない感情が、次から次へと溢れ出しグルグルと思考をループさせる。
「すまない……」
「ん?」
佐竹には、もうどうしたらよいかわからなかった。
時間は戻らないし、この先犯罪者に対する取り締まりの方法が改善する事も、あったとしても多分遠く先の話だろう。
謝罪は自身の自己満足に過ぎないと、分かっていながら。 それでも彼は、言わずにはいられなかった。
「何してるんだい?」
気が付けば。
佐竹は、銃口を下ろしていた。
「……頼む、自首してくれ」
「……お断りだね」
最後に縋った希望までも、彼は無慈悲に打ち捨てる。
「もう、もういいだろう? 気が済んだだろう? なあ?」
必死に言葉をかき集め、どうにもならない現実を繰り返さずにはいられない。
「頼むよ、なあ!?」
「…………勘違い、するなよ」
「え……?」
「警察は、正義じゃないだろう?」
まるで、耳鳴りのような錯覚を与えながら。
八神の言葉が、脳を穿った。
「な、にを……」
「警察は法の番人、つまり国が定めた法律を破った人間を取り締まる機関でしかない」
――ヤメロ
「法律は正義か? いいや、法律はただの道具さ。 現に法律を使う悪人は山のようにいる」
――ヤメロ
「警察はただの仕事。 君の仕事は、法律違反者を捕まえる――そういう『仕事』だろう? 正義の味方を真似る必要なんかないよ」
――ヤメロヤメテクレ!!!!
聞きたくなかった。
誰よりも、何よりも聞きたくなかった台詞。
何故なら、それは――
「話は終わりだ」
冷たい銃口が佐竹を見つめている。 だが、今の彼はただの一歩も動くことはない。
ただのデク人形めいたその眼球に、映画のフィルムのように末期の光景が映されるだけだ。
――銃声が、響く
「……こふっ」
唇から溢れる血。
むせ返る鉄の臭いを嗅ぎながら、佐竹は考えていた。
――何故、彼が胸を紅くしながら血を吐いているのか、と
「佐竹、無事か!?」
虚ろな視界の向こうから、こちらに駆け付けてくる者がいる。
なんてことはない、裏から回っていた中岸だ。
「……先輩」
「……ったく、ボヤッとしてんじゃねえよ馬鹿。 気をつけろっつったろうが! 大体お前は……」
正直、それから先のことはどうでもよかった。
いつもはムッと来るような耳障りな説教も、応援に来た同僚や上司の言葉も――何もかも全部からっぽの正義から抜けていく……
「……くそっ」
あれから。
八神が死んだ日から佐竹は勤務を休み続けて三日。
溺れるような酒も大分飽きがきていたが、そうでもしなければ生きることそのものを諦めてしまうような状況だった。
正義も、矜持も、亡き友への誓いさえもが、メッキを剥がされ彼の心で醜い下地を覗かせる。
――いいか、警察は秩序を守るもんだ。 そうしなきゃ平和が成り立たねえ。
コンビを組んで間もなくの頃。 中岸が酒の席でそう言ったのを聞いて、佐竹は彼に好感を持った。
それが、今はどうだ。
「……く、ぅ」
一度強く奥歯を噛み締めてから再び煽った酒は、心なしか少ししょっぱかった。
――答えは、まだ見つかっていなかった。
都会の夜は明るい。
まるで不夜城さながらの光景を眺めながら、彼は自室のベランダに腰掛けていた。
「……」
身体に害を為すと分かっていながら、ついぞ辞めることのできなかった煙草を銜え。
「……ふはぁ、うめ」
中岸は呟いた。
「何が「うめ」だよっ、全く」
「なんだよ、まだ根に持ってんのか?」
突然、真っ暗な自室から響いてきた声だと言うのに、彼は至って普通に返事を返したものだった。
「そうじゃないさ。 ただ、彼は放っといて良いのかい?」
その相手が、例え八神だとしても。
「良いんだよ、あいつはちっと固すぎんだ……せっかく素質があんだから、なぁ?」
悪戯めいたその笑みを見て、八神は再び嘆息しる。
「全く、後で知ったら絶対一発くらい殴られるね」
「何、そん時ゃアイツもしっかり気付いてるさ」
八神は応えず、勝手に彼の冷蔵庫から拝借してきた缶ビールに口をつけていた。
横目でその光景を目にした中岸は、「ちっ」と小さく舌打ちすると、また紫煙を貪る作業に戻る。
「いい加減、テメェの正義くらいさっさと見つけやがれ馬鹿が」
もしかしたら銃口を向け合う事になるのか。 それとも、同じ相手に銃口を向ける事になるのか。
まだ見えない先を伺うように遠くを見る中岸の視線の先で。
今日もまた、今日が終わった。
そして今日もまた、今日が始まる……
感想などがありましたら、どしどし言ってやって下さいm(__)m