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8-2、あの日の夢


「いいよ、じゃあ行く」


 どうしてそんな考え無しな言葉が出て来たんだろう。本当は言いかけたその時に気付いたのだけれど、一度開いた口は、退くことを知らなかった。

「よし、じゃあ一緒に帰ろうな」

「いいけど」

 わたしの返事に満足したのか、宏はにっこりした。綺麗に染まった茶色の髪が、窓から入って来た光を滑らかに流す。



「しょうがないな、まあ気をつけろよ」

 わたしが詳細を話すと、矢田はすんなりと受け止めてくれた。矢田も、ありもしない噂は気に障るのだろう。それから「宏雪は嶋に気があるようだから告白されないようにな」と言って笑った。あいつに限ってそんな気はないと思うのだけれど。



**



「おじゃましまーす」

「はいどーぞ」

 宏の家は立派な一戸建てだった。

 玄関に飾られている硝子のフクロウが訝しげにわたしを見るから、別に怪しくないわよ、と指で突いた。


「玄関で何やってんだよ、俺の部屋二階。こっち」

 上りかけた階段を下りてきた宏の目に、わたしは緊張してるように映っているのかなあ。

「ああ、うん」

 硝子のフクロウをもう一度ちらりと見てから、ローファーを脱いでぺたぺたと廊下を歩いた。親は出かけているらしかった。



「見ろよこれ、買ったの」

 わたしはベッドに腰掛け、宏はテレビの前に胡座をかいた。ホラ、と振り返りわたしに見せたDVDのパッケージには、銃をこっちに向けて構えている綺麗な女の人が長い髪を靡かせている。確か去年の今頃やっていたアクション映画で、出演者が大物ばかりな上に映像も綺麗だと話題になった。話はよく知らないけれど、ロボットだかゾンビだかが出て来る、そんなありきたりな話だった。


「へえ、わたしこれ観たかったんだよね」

 観たかったのは本当。綺麗な映像には興味があった。だけど上手く声に感情が乗らなくて。矢田とのことを言われたのがまだどこかに引っ掛かって、いつものことなのに未だに開き直れない自分に嫌気がさす。矢田のことは好きだけど、絶対に恋じゃないのに。

「だろ、お前こういうの好きそうだと思った」

 だから呼んだんだよ、とテレビの方を向いて嬉しそうにDVDを取り出す宏の手が、ぴたりと止まった。

 音も無くくるりと振り向いた宏はわたしをちらと見て、どこか淋しそうな顔をした。


「……矢田のこと考えてんだろ」

「え」

「顔に書いてる」


 ため息を付いた宏の目は痛そうで、わたしを真っ直ぐに見た。

 わたしは何も言えなくなって下を向いた。空気が動いて、宏が立ち上がる気配がする。


 気が付くとわたしの両肩を宏の手が掴んで、顔を上げると宏の真っ黒な瞳が本当に近くにあった。

――キスされる。

 ぎゅっと歯を食いしばったけれど、宏はわたしの体を抱きしめただけだった。体の中身まで締め付けてしまうような強い強い抱擁。

「痛い」

 わたしの呟きに答えるように、宏は一層強く抱きしめる。宏の硬い腕から、緊張する指先から、溢れる欲情が滲み出てわたしに染み込む。

「うわ、」

 宏の腕が絡み付いたまま、ベッドに倒れた。状況を掴めないままでいると、唇に柔らかい衝撃があった。

 唇は何度も何度もわたしを押して、舌の先が入って来てわたしの舌を見つけた。他人の唾液が混ざったわたしの口は、もうわたしの口じゃないみたい。高一の時にちょっとだけ付き合った彼氏としたキスは、もっと優しいものだったのに。

 どれくらい経っただろう、やっと唇は離れて、宏は泣きそうな顔をした。

「……俺を見ろよ」

 矢田じゃなくてさ、と言う声は少し震えていた。

 宏、と声をかけようとしたらまた覆いかぶさる大きな体。めくり上げられる制服のブラウスが、この男は止まらないとわたしに教えた。

「ちょっと、宏!」

 宏の頭を何度か軽く叩くと、それに気付いた彼の手がわたしの手首を押さえ付けた。手首が自由を失って、わたしは万歳をしたまま逮捕された犯人のような形になった。胸に手がかかる感触と共に、びくんとお腹に力が入るのが分かった。

「いや! ねえ宏止め……」

 唇が重なる。熱い息が漏れる。涙腺が強張る。嫌だ、怖い。

 押さえ付けられた手首に力を込めても、ぴくりとも動かない。力が強くて縛り付けられているみたい。怖い。怖い。怖い。

 宏のもう片方の手がスカートの中に、下着の中に潜り込む。びくびくと震える身体は目一杯叫んでいるのに、口が塞がれているせいで言葉にならない。言葉の代わりに溢れた涙が頬を伝う。


 宏の顔が持ち上げられて口が自由になる。涙腺が壊れたみたいに、涙は止まることを知らない。

 片方の手でわたしの両手首を押さえ付けていた宏は、両手に変えた。パンツは既に下ろされていた。


「宏! 嫌! 止めて!! いやぁ」


 口を開くと転がり出るのはそんな悲鳴。宏は少し顔を歪ませただけで、何も言わなかった。まるで壊れたロボットみたいで、必死に頭を振って抵抗しても聞き入れてはくれなかった。



 涙は枯れ、喉は疲れて頭は空っぽになったわたしの首元に、宏はキスをした。強く吸い付いて噛み付いてまた吸い付いて、赤く跡が残るんだろう。わたしの髪は短いから、矢田はきっと見つけるだろうなと思ってふと気付く。

――ああまた矢田か。

 こんなに宏に縛り付けられているのに、いつの間にかわたしの頭には矢田がいた。宏の目から見たら、わたしはきっと最低な女なんだろうな。結局はわたしが全部悪かったんだろうか。

 枯れたはずの涙が一筋、音も無く頬を伝った。



 もし矢田にこのことを気付かれても何か言い訳を考えよう。だって矢田の事を考えていたせいでこんなことになったなんて、絶対に言えない。



「好きだよ、愛してる」


 すっかり乱れたわたしの首に顔を埋めて、宏は小さく小さく呟いた。

――宏雪は嶋に気があるようだから告白されないようにな

 矢田の言葉が宙を舞うのを、わたしはただ眺めていた。



続、



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